55 銀色

 熊に追いついた村人たちが目にしたものはただの荒れ地だった。そこが数刻前まで人が暮らしていた場所だとは思うまい。家は瓦礫と砂にまみれ、畑には巨大な穴が穿たれている。ゆっくり味わうように喰らっているのは海老だろうか。堅牢な甲殻も熊の前には何の意味もなかったらしい。獲物をのんびりと食べていたことは、サリ達が熊に追いついた原因の一つだろう。

 熊は口に含んだ肉を嚥下すると更なる獲物を求めて歩き出した。偶然なのか確信があるのか、避難した村人がいる方角だった。


 ここまでの行軍で息を荒げたサリはもはや熊に突撃するしかないことを悟った。これだけ故郷を破壊されて平静ではいないはずだった。

(私は二度も生き残ってしまった。今回こそ勝たなくては)

 楽観と義務感が入り混じった思考は彼女の人間性を象徴してもいる。どう考えても熊に勝てるはずないことは明らかだが、期待にこたえなくてはならないという理性が彼女をここまで運んできた。

「みんな。私は前だけを向く。前だけを見て進む。後ろの人間がどうするかは気にしない。だからもし私についてくるのであれば皆もそうして欲しい」

 暗に逃げろと言っているが、逃げ出すものはいなかった。皆が自らの為すべきことを理解していた。

 もし彼がこの場にいれば何というだろうか。「一種の同調圧力だな。これだから宗教って奴は」とでも言うだろうか。

 そして後ろにいる人間を見ないことを強いることは、例えば転んでしまったとして、最後尾に回った場合どんな行動をとっても目撃されないことを意味するが、それには本人ですら気付いていなかった。――あるいは気付かないふりをしていた。

「神よ、救世主よ、我らを――?」

 祈りを止めた。誰もが動きを止めていた。あの熊でさえ止まっていた。

 誰もが目の前の光景を信じられずにいた。そこには――




 アグルは大いに戸惑っていた。避難する村人に追いつき、折をみて合流するつもりだったが様子がおかしい。辺りには荷馬車とそれに載りきらなかった荷物が散乱している。

 最悪の事態を想像してしまう。避難していた村人が魔物に襲われてしまったのか? 他はどうでもいいが銀髪だけは死なせるわけにはいかない。辺りを探索すると一人だけ立ち尽くす女を発見した。

 彼の母親、つまり村長だ。

「村長、いったい何があったんですか!」

 アグルが大声で尋ねると、虚ろな瞳から生気が、いや怒気が蘇った。

「アグル! 皆を連れ戻しなさい!」

 アグルの胸倉を掴む村長はどう見ても正気ではない。息を荒げ、目は血走っている。アグルがここにいることに何の疑問も持たないことからもそれは明らかだ。

「落ち着いてください。何があったんですか」

 しばし時が流れ、ようやく村長は落ち着きを取り戻した。

「あの子が、ファティがいつの間にかいなくなっていました。皆は村に戻って一人で熊と戦うつもりだと、銀王の再来である銀髪の子ならそうすると、そう言って聞かないのです!」

 アグルの目に侮蔑の色が混じり始めたが、興奮する村長は気付かない。

「挙句には自分たちも村に戻るべきだと、私を不信心者だと非難するとは! 私はもう少しで都の司祭になった女ですよ!? 何故あんな田舎者さえ命令を聞かない! 下賤の者は黙って言うことを聞けばいい! ただ銀髪であるだけの子供より私が劣っているとでも言うのか!?」

 なおも濁流の如く話続ける村長の口を遮ってアグルはこう告げた。

「村長。落ち着いて後ろをご覧ください」

 アグルの言葉に従い村長が後ろを振り向いた瞬間、強い衝撃が後頭部を襲った。倒れ伏す村長に更なる追撃が加えられ、ほどなく村長は死亡した。言うまでもなくアグルの凶弾が村長の命を奪ったのだ。

「子守も碌にできないのかババア。取りこぼした権力に縋りつくだけの老害はさっさと死んでくれ」

 もはやこれに利用価値はなく、ちょうどよく誰もいないため始末するべきだと判断した。何より平等と博愛をこそ是とするアグルにとって今のセリフは看過できないものだった。

「銀髪め。本当に村に戻ったのか。だとしたら何とかして回収しなければ」

 彼自身も他者を利用することに躊躇いはない人間である。ただし決して誰も見下さない。ただ愚かである人間を評価しないだけ。そして兄の理想を叶えるためならありとあらゆる命を切り捨て、優先順位をつけることをためらわない。少なくとも彼は自分の命よりも理想を重んじていた。そうでなければ如何に策を用いても熊に戦いを挑めるはずはない。彼には理想を叶えようとする意志も、優れた戦術眼も備わっていた。

 それが誰にとって幸福なことかはわからない。




 そこには――――銀髪の少女が立っていた。その銀色は月明かりによりなおも輝いているように見える。そして熊に対し何事かを話しかけている。

 そもそも熊とは会話が成立しないため、何の意味もない行為だ。それは誰の目からも明らかで熊はむしろ周囲を警戒している。不意打ちを警戒しているのだろう。本当に何の力も持たない少女が無策で立っているとは信じまい。

 やがてサリが率いる一団を見つけたが、ひとまず無視して目の前の少女を狩ることにしたらしい。その爪で一撫でする。それで終わる。

 村人たちが叫んで駆けるが間に合わない。村人も、熊も、少女でさえまた一つ大地が血に染まることを疑ってはいない。

 爪が迫る。何かに操られるように少女は両手を前にかざす。そして


 銀色が世界を包んだ。

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