53 人間賛歌

 彼が巣から這い出た頃――――

 ようやく村に辿り着いたサリは何が起こったのかをぽつぽつと語り始めた。熊が現れたことを疑うものはいなかった。誰もがあの咆哮を聞き、不安を感じていたからだ。その不安はサリの話を聞いて、一気に爆発した。

「あの熊が何故ここにいる!」

「スーサン領からここまで来たのか!?」

「どこかから迷い込んだのかもしれないわよ!?」

 パニックは広まりやすく、収まり辛い。そして集団は時としてスケープゴートを要求する。時代が変わっても、世界が変わっても、異種族であっても、知的生命体であるならそれは起こりうる現象なのだ。

「誰か不信心者がいるんじゃないかしら!?」

「そうだ! 皆が敬虔なる信徒であれば熊を呼び寄せるはずはない」

 村人はお互いを疑いあう眼差しを向けていたが、やがてその視線はサリに向けられた。

「サリ。貴女は何故ここまで帰ってきたの?」

 実をいうとサリは熊に襲われてすぐに皆とはぐれたと説明していた。真実を語らなかった理由は説明するまでもないだろう。

「わ、私は熊が出たことを村に知らせようと……」

 しどろもどろになりながら目をそらすさまは、とてもの群衆にとって格好の標的だった。

「ふざけるな! セイノスの信徒としてお前以外は勇敢に戦ったんだぞ!」

「そうよ! この臆病者! 恥知らず!」

 そもそもサリ以外が勇敢に戦ったかどうかはもちろん、生きているか死んでいるかさえわからない状況なのだが、昂った集団は理性と論理を容易く放棄する。

 誤解しないでほしいのだが、この村人達は普段なら善良な人々だ。日々を慎ましく、皆が隣人を大事にするとても優しい人々だ。ただ今はパニックに陥っているせいで攻撃的になり、ほんの少しだけ本音が漏れているだけだ。

 サリからしてみれば突然村人が人々を惑わす悪魔に憑りつかれてしまったように思えただろう。

 しかしパニックに陥らず、冷静になっている者もいた。アグルである。

「止めないか! みんな!」

 大声で喧騒を鎮めると、涙を湛えているサリの手を取った。

「サリ。よく生きて戻ってきた。お前が戻ってきたのも神の御導きだろう。そして仲間を失って辛かったな。私も兄を失ったばかりだからよくわかる」

「ア……グ……ル……さん」

 おお、神よ! ご笑覧あれ! これぞ全てを許したもう、救世主の愛。それを受け継ぐ敬虔なる信徒の言葉である。

 今までサリを責めていた村人たちは己を恥じ入るかの如くうつむいた。彼女たちにもアグルの言葉は届いたのだ!

「みんな! 俺は今から熊を討伐する部隊を編成する! 我こそはと参加するものはいるか!」

 アグルの勇ましく清らかな心に当てられたのだろう。次々と賛意を示す声が上がる。

「サリ。お前も参加してくれるな?」

 その言葉にびくりと体を竦める。無理だ。あれと戦えば間違いなく死ぬ。心の奥底から恐怖が蘇る。

 こいつらはわかっていない。あれがどういう物か全くわかっていない。戦いにさえならない。

 しかしここで断ればどんなことになるかは容易に予想がついた。

「もちろんです、アグルさん。私も討伐部隊に加えてください」

 声を震わせながら心とは正反対の言葉を口にした。

 彼女は大した才能も、志も持たないが一つだけ優れた能力を持つ。危機を感じ取り、その時々において最善の選択を選ぶ能力だ。これに関してはもしかすると当代最高かもしれない。そうでなければこれから先彼女が生き残ることはできなかっただろう。

 もっとも危機というものは直面するよりも前に回避することの方が重要なのだが、残念ながらそちらの才能には恵まれなかったようだ。

「村長、私が討伐部隊を率いても構いませんか?」

「許可しますアグル。私は子供と老人を避難させます」

「ありがとうございます。ですが一人だけ別れの言葉をかけてもよいですか?」

「いいでしょう。手早く済ませなさい」

 別れを告げるべき相手とはもちろん銀髪の少女だ。




「ファティ、いいね? おばあちゃんの言うことをよく聞くんだよ」

 アグルはあくまでも優しく語りかかける。その心中とは裏腹に。

(こいつは切り札だ。万が一にも死なせるわけにはいかない。その辺りはババアもわかっている。こいつはこの村が滅んだ時にこそ役立つ)

 アグルは既にトゥーハ村に見切りをつけていた。問題なのはどう滅びるかだ。

 熊と戦わずに逃げ出した臆病者として蔑まれるか、銀髪の少女を逃がすために奮戦した勇敢なる信徒では扱いがまるで違う。

(あのババアは未来への展望に欠ける。だからこそあっさり逃げようとする。これはピンチだが同時にチャンスでもある)

「アグルもいなくなっちゃうの?」

「心配することはないさ。またすぐ会えるよ」

 こいつはは下手だが頭は悪くない。上手くいけば大司教になることも夢でないはずだ。女で、しかも銀髪であるだけで将来は安泰だ。

 まあそれこそが真の平等でない証だ。兄さんの理想が達成されさえすればこんな奴が幅を利かせることもなくなる。

「約束だよ」

 もう離れたくはないというように服の裾をつまむ。少女はあくまでもこの村の全ての人間と目の前にいる男の安全を願っていた。

 ……その目の奥にぎらつく野心など気付きすらしなかった。




「アグルさん。準備ができました」

 二百人以上の村人は全て準備を終えて、アグルからの言葉を待っていた。セイノス教徒にとって魔物との、それも邪悪極まりない熊との戦いは誉れでしかないが、やはり敵が強大すぎるせいか、その表情は固く、不安げな声も絶えない。アグルが指揮官を務めることへの不安もある。何しろ魔物との戦いにおいて、指揮を務めるのは女性であることが当然だからだ。いかに修道士であるアグルであっても男が陣頭指揮を執るのは奇異とさえ言える。


 地球においてはまずありえないが、基本的にクワイでは男女の区別なく戦いに赴く。ただし指揮を執るのは大半が女性の聖職者であった。これはこの国の成り立ちそのものに関わることであり、千年間変わらぬ慣習だった。


 アグルは十分に喧騒が静まるのを待ってから演説を開始した。

「かつて二百年前にこの国を襲った魔物は皆も存じているだろう。予言にある終末の獣とさえ言われた熊だ」

 思わずどよめきが広がる。何故いま誰もが知っている昔話をするのか理解できないためだ。

「しかし! その熊でさえも我らが王と神の威光の前には膝を屈した!」

 息を深く吸い込む。声を大きく、この場にいる全ての村人に轟くように。

「初代王である銀王が熊と戦い、これに打ち勝った! このクワイは決して熊にも、いかなる悪魔にも屈さず戦い続けてきた! その歴史こそが我々が勝利することの証左である! 我らは勝てる。正しき信仰と祈りがある限り決して神は我らを見捨てない!」

 さらに息を吸い込み、今日一番の大声を出した。

「神の御加護を!」

「「「「神の御加護を!」」」」

 村人たちはいっせいに唱和する。アグルの貴い信仰心は彼女らの心を動かしたのだ! 今や勝利を疑っている村人など誰もいなかった。サリでさえ勝てるかもしれないと思い始めていた。



 まあようするに、こんな演説一つに程度には善良かつ純朴だったのだ。この村人は。

 なお、アグルも自身の勝利を疑ってはいない。彼にとっての勝利とは自身の生存と銀髪の確保、そして熊と戦ったという実績が手に入ることだ。

 すでに自分の身を守る策は懐にしまってあった。

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