ある一つの小説

ヘイ

第1話

 物語は誰かの心に寄り添うものだ。

 物語は誰かの価値観に影響を与えるものだ。

 物語は人を形成する、誰かの人生だ。

 物語はそんな大層な物にもなり得るが、それだけじゃない。ただの娯楽で、誰かの人生を変えるなどあり得ないものもある。

 まあ、それは結局のところ一冊の本でしかなかったというだけの話だ。

 あなたの人生を変えた小説は。あなたの価値観を根付かせたものは。あなたがこの世界の全ての人間に伝えたいことは。

 これは一冊の本の話。

 ある作家の話。

 

 

 

 

 

 オルガノ・ステアラーは悩んでいた。

 小さな古いテーブルにランタンが置かれ、それは小さな灯として、彼の手元を照らしていた。

 オルガノの目の前には複数枚の紙。そこには文字が書き込まれていた。彼の右手によって書かれた文字はどこか歪で、しかし読めないことはない汚い文字だった。

「ダメだ……」

 オルガノはペンを投げ、椅子に背を預けた。真っ暗で静寂、彼の声はよく響いた。

 伸び始めた髭をペンを投げた右手でさすれば、ジョリジョリとした感触が伝わる。

「書けん」

 彼は作家としては三流。

 それでも食い扶持稼ぎのために何作かの成功作があった。それはどれも生活に困窮した時に生み出されたもの。とは言え、そのどれもが世紀の傑作などと呼ばれるようなものではない。その年の四番目に売れた作品が良いところだ。

 しかも、売れたとは言えそもそも小説の母数が少なければ売れるも何もあった話ではない。痛烈な風刺を描くことでしか彼の作品は売れなかった。

 元々、彼は毒舌家であったことも、着眼点や気付きの良さも影響したのだろう。彼の社会風刺は当時の民衆には気味の良いものに映ったのだろう。

「オルガノさん」

 彼の部屋の扉が叩かれた。

 オルガノはその声から訪ねて来たものの正体がわかった。現在、オルガノが部屋を借りている借家の大家である。

 四十代も半ばで茶髪のふくよかな女性だ。声も大きく、天然かそれともわざとか、オルガノの痛いところばかりをついてくる。

 オルガノは居留守を使うこととした。

「まーた、部屋に居ないのかい……」

 その声に続くのは、そろそろ家賃を納めろだろう。

 この借家に来たのはオルガノが作家として一度、売れた時だ。その時、オルガノの両親は金が稼げるのならこの家から出て行けと言われ追い出されてしまったのだ。

 オルガノの父は軍人で、文学には大した興味もなく脆弱な愚息に相応しい、貧弱な趣味であると見下していた。

「夜も遅いってのに、どこに行ってるんだか……」

 そうぼやきながら、大家はオルガノの部屋の前から去っていった。

「ふぅ……。大家にも困ったものだ」

 入った当初、作家として売れた年には借家の相場も分からずに稼いだ金の二割を毟り取られた。

 後から周りの者の声を聞くと、オルガノは向こう二十年の貸家代を取られていたらしい。それに気がついたのは二作目の成功作が出て金を毟り取られた後。

 そのおかげで、本来必要もない金をオルガノは取られていた。向こう三十五年分。

「強欲な婆さんだ……」

 それからと言うもの、オルガノと大家は水面下での争いを続けていた。そうは言っても、それはオルガノが自分でそう思っているだけだ。

「取られた分の金は取り返したいのだが、家を建ててもな……」

 戦時中の今では家を建てても税の徴収に軍人が来てしまう。その時にまた、同じことを繰り返すのは嫌であった。

 結局は大家から軍人に税の徴収相手が変わるだけだ。

「軍人どもめ……」

 時折、酒は好きではないが塩っ辛いつまみが好きなオルガノは酒屋に月に二、三回ほど通っていた。その酒屋でついつい、酔いの回った軍人の話を耳に挟んだのだ。

 どうにも市民から徴収した税は幾らかを軍人の者が取ってから、上納するらしい。そのために税は増えるばかりであるだとか。

 大家も割りかしに最悪であったが、軍人も輪をかけての最悪である。それが公務の者であるのだから、筆舌に尽くしがたい。

「そうだな、今度は軍人の汚れ具合と、戦争についての話でも書こうか……」

 真っ暗な部屋の天井を見上げながらオルガノはボヤいた。

 そうと決まっては酒屋に行ってみよう。もしかすると面白い話があるかもしれない。

 オルガノはそう思い、酒屋に行き、酒とつまみを頼む。予想通り、酒屋には軍人がいて彼らはすでに酔いが回っていたのか、ベラベラと何かを話していた。

 店員たちはその話を聞くには距離が離れすぎている。

「……ったく、奴隷にゃ感謝だな」

 そんな声が聞こえて来た。

 奴隷はこの時代珍しくもないが、何故に感謝することがあるのだろうか。

 この国では奴隷などいるはずも無い。奴隷は認めないと皇帝が直々の宣言をしたのだ。奴隷は解放されたはずだ。

 その話を聞き逃さないように耳を傾けながら酒を喉に流し込む。

「だな、奴隷たちのおかげで俺たちゃ戦争に行かなくて良いんだからな」

 何だか、気分の悪い話だ。

 そうは思ったが、その話を聞きしっかりと脳に刻み込む。半刻も経たずに軍人たちは酒屋を出て行ってしまった。

 それからオルガノは一人でつまみを食べ、酒を少量飲み、酒屋を後にした。

 それからオルガノの酒屋に通い詰める頻度は増した。その分だけ、軍人の話も聞くことができ、創作活動が捗る。

 三ヶ月ほどその行動を繰り返し、情報は集まった。その軍人の中でも馬鹿な者たちが口を滑らせるおかげで次々と、闇が流れ込んでくる。

 その情報を纏めて、オルガノは執筆活動を開始した。

 恐ろしいほどに筆が乗る。

 理由として考えられたのは、自らを見下した父親への仕返しという面もあったからだろうか。それとも、自分のやることが正義だと思えたからか。

 そうして一年をかけて描れた痛烈な風刺小説。活版印刷により、それは民衆の手元に広がっていく。

 ……はずだった。

 その前に国の上層部らによる調べが入り、オルガノの小説は出版は認められなかった。

 寧ろ、オルガノは手配を食らってしまった。

 それが民衆に見つかる前にオルガノの生死を問わず連れてきて本と共に焼く事にした。

 連れてきた者には一生安泰の生活を保証すると。

 大家はオルガノの部屋に入り込み、縄でオルガノを縛り上げて軍へと連れて行き、一生の幸せを手にした。

 しかし、だ。

 オルガノの書いた小説の原本は別の者の手に渡っていた。

 それは貧困に苦しむ農民であった。

 その農民に始まり、それは回し読まれ、とある優しい貴族の元にまで回ってしまった。

 その結果、その貴族を主軸に内戦が起きてしまった。

 たった一冊の本によって、たった一人の人間の書いた小説によって、人は争うこととなってしまった。

 その小説は今も存在している。

 とある図書館にその原本は保管されているそうだ。

 

 

 

 

 

 どうだったでしょうか。

 フィクションではありますが、美術的作品には人の心を動かす魔力が宿ります。

 それは時に多くの人間を巻き込むこともあります。

 取り敢えずこれは作り話です。

 ただの娯楽小説だと考えてください。

 何せ、そこまで家賃を取られるなど、おかしな話でしょう?

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