42:唐突に、もしくは漸くやってきた崩壊
その日は日中の蒸し暑さが、夜になっても冷めることのなかった。蒸せるような暑さがいつまでも残っていて空気が重くのしかかる。風があればまだ良かったのだろうが、残念なことに涼しげな風鈴を揺らしてくれる小さな風もなかった。
永延隼人はタクシーの後部座席の扉が開いた瞬間に車内に侵入してくる不快な暑さをまとった空気に少し顔をしかめながら外に出た。
今夜のような日を、熱帯夜というのだろう。
永延はあまりの暑さに思わずシャツのボタンを一つ外しながら、走り去るタクシーを横目で見送る。
「あっつ」
永延はぼやきながら、すぐ近くにあるアパートに目を向ける。
永延が昼寝用に借りていた部屋を璃亜夢に又貸ししていたあのアパートだ。
今夜、永延は璃亜夢の様子を見に来たのだ。
最後に会ってから一週間程経っているが、あれからどうなったのか確認しに来たのだ。
痛めつけて、精神的な負荷もかけた。
彼女が拠り所にしようとしていた男は、お前なんかじゃあ一緒になることはできないことを教えた。
あの娘は存外短絡的で頭も悪いから、案外すぐにでもその事実を確かめるような行動にでたかもしれない。
もし、隣人のあの男が、永延の想像とは違う人間で、璃亜夢の懇願に屈するようであったら正直落胆する。肩透かしもいいところだ。
とはいえ、あんな自分のことしか、否、自分のことすらままならない『子供』と、そんな『子供』が産んだ父親もわからない赤ん坊をそばに置いたところですぐに破綻するだろうことは火を見るより明らかだ。
『子供』に赤ん坊を育てるなんて無理な話だ。
良くて養子に出すか。でなければ何処かへ置き去り。
殺してしまう可能性も考えけれど、流石にそこまでの度胸は彼女にはないだろう。
徐々に身持ちを崩していくだろう彼らを遠巻きに眺めるのも、まあ、悪くないだろう。
だけど、もし、大黒が璃亜夢の懇願を跳ね除けていたら。
あの娘は自暴自棄に簡単に陥るだろう。
もしかしたら部屋で暴れてそれはもう酷い有様になっているのかもしれない。部屋を散らかされることは許せないが、荒れた部屋でまるで死人のように真っ青な顔で
やはり自分こそが『一番可哀想』と思っているような勘違い娘が失意の海に溺れていく様子は胸をすくものがある。
もう何もする気が起きない。生きていたくない。
それくらいの心境になってくれれば大変愉快だ。
それが永延が思い描く『完成形』なのだから。
さて、今はどんな塩梅だろうか。
永延は内心嬉々とした気分で、アパートの外階段をあがった。
インターホンを鳴らすことはせず、部屋の扉を開けると、意外にも室内は明るかった。そして散らかっている様子もなかった。
あまりに静かで、璃亜夢は不在なのかと思った。てっきり隣人の部屋へ行っているのかと。
だけど璃亜夢は部屋にいた。
彼女は整然とした相変わらず家具の少ない部屋で、壁にもたれて座り赤ん坊を横抱きにして静かに赤ん坊の背中をあやすように軽く叩いていた。
とても穏やかな顔をしていた。
まるで『母親』のような顔で璃亜夢は赤ん坊を抱えていた。
その想像にもしていなかった璃亜夢の姿に永延は目を疑う。想像していた姿とかけ離れた様子に思考が止まる。一瞬、部屋を間違えたのかも思ったくらいだ。
璃亜夢は部屋に入ってきた永延の顔を見ると、顔を青くして視線を下げる。
その様子に永延が、璃亜夢に自分への恐怖が残っていることを確認する。あれだけ水に沈めたのだ。残ってなければ、それはそれで虚しい。
「元気そうだね」
「はい……」
永延は璃亜夢に話しかけながら彼女に歩み寄る。彼が近づくにつれ、璃亜夢が身を縮こませるのがわかった。それはまるで赤ん坊を永延から庇っているようにも見える。
それに気がつきながらも、永延はわざと赤ん坊の頬に触れる。
暖かい、眠っているようだ。……まだ生きてる。
永延は指で赤ん坊の頬を少し撫でて「大人しいね」と笑う。
「ミルク飲んだらすぐ寝るみたいなんで」
「ふーん。……なんか璃亜夢ちゃん、お母さんみたいなことしてるね。どうしたの」
永延がそう言い放つと、璃亜夢は驚いたような顔をする。だけどその驚きに恐怖や怒りなどはない。純粋に、ただ驚いているだけ。
「私、お母さんみたいなこと、してましたか?」
「俺にはそう見えたけど?」
「そう、ですか……」
「何? 親心芽生えちゃった? 私がこの子を育てていく、なんて無理なこと考えてない?」
無理だ。お前にそんなことできるわけないだろう。
そういう意味合いで永延は言った。璃亜夢の精神を縛っていくために。
そのことを受け入れさせたかった。
自分には何もできない。何者にもなれない。
ただ落ちぶれていけ。
そういうお前が見たいんだから。
以前の璃亜夢なら、これですぐに頷いて永延の言葉を肯定した。
もう自分には何もないことを受け入れているから。だって、彼女は『一番可哀想』だから。
だけど。
「親心かはわからないです。でもなれるなら、なりたいです」
そう呟いたのだ。
想像もしていなかった璃亜夢の言葉に、永延は言葉を失う。
璃亜夢はそんな永延を余所に自分の考えを呟く。
「私はこの子の『母親』に相応しいなんて到底思えない。馬鹿だし、世間知らずだし。でも、茉莉花が私を引き止めたの。だから私、この子の『母親みたいなもの』に近づきたいって思う。だから」
璃亜夢は言葉を区切ると、まるで恐怖と戦うかのように永延を見る。彼の顔を見て、視線を合わせる。
ずっと下を向いていた女の子が、永延と向き合った。
璃亜夢は唇を噛んで怖さに耐えながらも、何日も考えて出した結論を永延に告げた。
「だから、私、この部屋を出て家に帰ります」
それが璃亜夢が出した結論だった。
一人ではどうあっても無理だから。宮に使えるものは何でも使えと言われた。
呆れられているかもしれない。失望されているかもしれない。許されないかもしれない。
それでも璃亜夢は、茉莉花と自分のこれからのために、その結論を出したのだ。
家に帰る。
そんな誰もが毎日のようにしていることが、これほど難しいことだとは璃亜夢自身考えてもいなかった。
だけど永延の顔を見て、決心がついた。
もう二度とこの男の顔なんて見たくない。この男に何か言われる度、俯いて息を殺していたくない。
だから。
そう高らかに宣言した。
その瞬間、璃亜夢は左頬を襲う強い痛みと、それに伴う左側からの衝撃にそのまま床に転がる。床に頭がぶつかったとき、璃亜夢は永延に顔を殴られたのだとわかった。
呆然としてしまったが、慌てて抱えていた茉莉花を見る。
今の衝撃に目を覚ましてしまったようだが、璃亜夢の腕の中にいたおかげで怪我はしてないようだ。
しかし安心できる状況ではない。
璃亜夢は永延を見上げる。まだ左頬がジンジンと痛む。
どうして殴られたんだ。
璃亜夢は恐怖するが、そんな璃亜夢を見て永延は一言呟いた。
「お前にはガッカリだ」
永延はそう呟きながら、ゆっくり立ち上がり璃亜夢を見下ろす。その時不意に、網の上で肉が焦げ付くような匂いを思い出して、永延は顔をしかめた。
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