24:名前で呼ばれて人間が始まる
大黒の声を聞きながら璃亜夢は「私はこれからどうすれば良いの」と呟いた。
その声が存外震えていたことに璃亜夢自身驚く。
もう自分ではどうすべきなのかわからないのだ。
「それは君がどうしたいかじゃないかな。ただ誰かにやるように言われたことは余程のことがないと続かないから」
「でもしなくちゃいけないことはあるんでしょ?」
「そりゃあね……」
大黒はそう言いながら抱えている小さな生き物をの背中を撫でる。そして眠っているのか静かに呼吸を繰り返すその小さな生き物に微笑みかけて大黒は口を開く。
「やっぱり、まず最初はこの子の名前かな。つけてあげてよ、『お母さん』」
そう言いながら大黒はその小さな生き物の眠っている顔を璃亜夢に見せる。
相変わらずくしゃくしゃな猿のような顔だが、心なしか穏やかに見える。
名前、と言われても。
璃亜夢は困惑する。
一文字に口を閉じて璃亜夢はその小さな生き物を見つめる。
「名前は付けたくない?」
「……私の家、ペットはいなかったの。ママ、犬も猫も嫌いだったから。だから私何か生き物に名前をつけたことがないから、どういう名前をつけたらわからない」
まして、人間の名前なんて。
そう思ったとき、不意に、璃亜夢はその小さな生き物を漸く『人間』であると認識できた。
この瞬間、璃亜夢の中で『猿のエイリアンのような生き物』が『人間の赤ん坊』に昇格したのだ。
璃亜夢は恐る恐るローテーブルから身を乗り出して、その小さな赤ん坊の顔に指を伸ばす。自分の手よりも小さな顔に改めて驚く。
「名前ってどうやって付けるものなの?」
璃亜夢は小さな赤ん坊の頬に指を押し付ける。柔らかく暖かい感触に慄く。
大黒は璃亜夢の言葉に少し考え「そういえば僕は君の名前をまだ訊いてないけど、君は自分の名前の由来は知ってるの?」と問う。
そう問われて、璃亜夢はいつか小学校で出された宿題を思い出す。
自分の名前の由来を聞いてくるというものだ。あのとき、母は『可愛いから』と言っていた。璃亜夢はその言葉に後からになって傷つく結果になった。
だから母と同じ理由で決めたくなかった。
「璃亜夢よ。『可愛い』からこんな名前になったの」
璃亜夢は冷ややかに答える。
その様子に、大黒は彼女が自分の名前が好きじゃないことを察する。
「漢字だとあまり画数が多いのも大変だよね。名前は一生で一番書くものだからあまり画数が多いと困っちゃうよ」
そう苦笑する大黒に璃亜夢は、確かに、と思う。『璃』も『夢』も画数が多いから学校で書くのが面倒だとずっと思っていた。
そういうことを考えて付けなくてはならないのか。
璃亜夢が悩んでいると、ふと、顔を上げるとキッチンに『茉莉花茶』と書かれた青い箱が目に入る。お茶だということはわかる。でも何と読むのか。
璃亜夢は何となく気になり大黒に「あれ、何て書いてるの?」と問う。
大黒は振り返って璃亜夢の指差し青い箱を見て「あぁ」と笑う。
「あれでジャスミンティーって読むんだけど、漢字の読みは『まつりか』って読むんだ。友達が引越し祝いにくれたんだ。飲む?」
「いらないわ」
璃亜夢が首を横に振ると、大黒は「そっか」とほんの少し落胆する。そんな彼を他所に璃亜夢はその箱を見つめる。
「ねえ、
璃亜夢がそう言うと、大黒は表情を明るくする。
「良いね、茉莉花さんか。ジャスミンは種類にもよるけど夏に咲くのが多いし、夏生まれのこの子にはぴったりだね」
「……良い名前だと思う?」
「漢字の画数も多すぎないから書くのが大変じゃない。それはとても良い事だよ一生使うものだしね」
大黒がそう言うと、璃亜夢も思わず笑う。
大黒はゆっくりと立ち、璃亜夢の隣に膝を着く。そして璃亜夢に赤ん坊を抱かせようとする。
璃亜夢は大黒と赤ん坊を交互に見て戸惑いながらも恐る恐る赤ん坊に手を伸ばす。大黒は璃亜夢に赤ん坊を抱かせると「此処に手を入れる感じで抱いてあげて」と抱き方を教えてくれる。
さっきまであまり手の位置など考えず雑に持っていたが、今は首元をしっかりと持つように抱えている。安定した抱き方に璃亜夢はホッとする。璃亜夢がちゃんと赤ん坊を抱くのを確認して大黒はさっきまで座っていた場所に戻る。
璃亜夢は改めて赤ん坊を覗き込む。
顔が本当に顔がくしゃくしゃだ。これが本当に人間のようになっていくのか不思議だ。
じっと顔を見つめていると、大黒が「名前呼んであげたら?」と声をかける。
名前を呼ぶ。
ただそれだけのことなのに、璃亜夢は焦りながら赤ん坊を見る。
困惑しながら璃亜夢は腕の中の赤ん坊を見つめて口を開くが、声が出てこない。喉がカラカラに乾いたように緊張して声が上手く出てこないのだ。
「あ、あの」
「ん?」
「ま、ま……まつ、り、か」
顔を真っ赤にして消え入りそうな声で璃亜夢は茉莉花の名前を呼ぶ。
その瞬間、璃亜夢の気のせいかもしれないが、少し茉莉花が笑ったように見えた。
璃亜夢はその錯覚にまた少し泣きそうになった。
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