第85話 闇の苗床とアンの覚醒(中編)

「では、こちらに」


 巫女長が場所を移動して、癒し手に場所を譲ると、自分はベッドの向こう側に回って、アンとリンを近くに呼んで準備をさせる。癒し手とは事前に話していたのだろう、巫女長の合図で壁際に控えていた他の巫女たちも、跪き頭を下げて心から祈る体勢になる。


「アン、私が合図をしたら、命の宝珠に魔力を送って『命の輝き』で、患者と癒し手、私やリンをその輝きで包んでください。まず癒し手が改めて彼女の体の傷を検めて、機能の回復を図ります。その上で私が彼女の心に触れて心を開く様に念じるので、一緒に心を合わせて働き掛けてください。リンは一心に彼女に呼びかけて、私やアンの話を聞く様に語り掛けるのです」


 巫女長はアンに向かって念を押すと、癒し手を見て合図をした。


 アンは不安げに立つリンの右手を左手に取って握ってやる。右手は自然に首の『月の雫』を握りしめた。お祈りする時は自然に月の雫の黄色い魔石を握りしめる習慣になっているのだ。

 リンは伸ばされたアンの手を両手で握って、祈るようにフローラを凝視した。


「アン、お願いします」

「命の輝き ”Luceat vitae”」


 アンが神文を唱えると、左手の手首に巻かれた命の宝珠が淡い緑色の光を放ち始めた。アンが魔力を流し続けると、その輝きが広がって行き、フローラが横たわるベッドを中心にみんなを包み込んだ。


 リンが突然自分たちを包み込んだ輝きに驚いて、アンを見た。


 アダムが見ていると、淡く輝く緑色の光の中で、癒し手がフローラの身体の傷の状態を探っている。まず肩から手首に渡り手をかざして、自身の魔素を流して細胞を活性化させ、機能の回復を図ろうとしていた。手の平から濃い緑色の光が流れるように見える。アンの『命の輝き』によって生命力と治癒力が上昇している中で、更に癒し手が魔法をかけているのだ。


 手と足の要所の健が断裂させられていると言っていた。この場にいる全員が、癒し手の表情で成否を計ろうと、その一挙一動を凝視していた。


「巫女長様、手足の健は繋がりました。次は目と喉に移ります」


 見ている者たちがほっとするのが分かった。リンは期待で巫女長の判断を待っている。


「油断をしてはいけません。集中して下さい」


 癒し手がフローラの瞑った目の上に右手をかざして念じている。フローラの顔が上気したように赤味が増し、奇跡が起こった。瞼(まぶた)がぷっくりと持ち上がったと思うと、ころりと眼窩に嵌められていた義眼が転がり落ちたのだった。


「すげー、こんな事ができるんだ」

「おお、フローラ、フローラ」


 ドムトルが驚いて呟く。リンが自然と念じていた言葉を漏らした。

 巫女長の顔にうっすらと笑みがこぼれ、自信を増しているのが分かった。だが目は油断していなかった。


「次に喉に移ります」


 癒し手が静かに言って、手を動かした。そして肉体の治療は直ぐに終了した。肉体が本来あるべき姿を、命と体が判然と理解したのだ。フローラが閉じていた口を開けて、また閉じた。しかし、その口から吐息が漏れるのが聞こえた。


「肉体の欠損は戻りました。巫女長様、お願いします」


 癒し手は役割を終えてほっとしている様子だった。静かに額の汗を拭き、息を継いだ。巫女長に声を掛けると、自分は他の巫女と同じように跪き、頭を垂れて祈り始めた。


 本番はこれからなのだ。見ている全員が分かっていた。肉体は機能を取り戻しても、本人がその気にならなければ身体は動かない。この世界を見ようと思わなければ、目は世界を映さないだろう。人と話す気持ちにならなければ、自分から心を開いて話すことはないだろう。


 全てはこれからの巫女長とアンの働きに掛かっているのだ。全員が息を呑んで見守っていた。


「ご苦労さまでした。ここからは私が先導します。アンはそのまま『命の輝き』を切らさないでください。これから私が自分の魔素で彼女の心に接触して行きます。様子を見ていて、その動きに心を合わせて働き掛けるようにしてください。リンはフローラに呼びかけて下さい。大声でなくても聞こえているはずです。むしろ言葉に思いを込めてください。始めましょう」


 巫女長は口を少し噤(つ)ぐんだようにして、思念を集中し始めた。アンは自分の横で巫女長の魔素の流れが動き始めるのを感じていた。集中して見ているとその魔素の流れが淡い光となってフローラの額に触れるのが見えたように思った。


 アンは命の宝珠に魔力を流すのを止めないように注意しながら、一方でそろそろと自身の魔素の新しい流れを意識して、巫女長の魔力の流れに触れてみる。巫女長の魔力はアンの魔素の流れを拒絶することは無かった。


 リンはアンの左手に力が込められるのを感じて、顔を上げてアンを見た。アンが口をしっかりと閉じ意識を集中しているのが分かった。リンは口を開きフローラに呼びかけた。


「フローラ、私だ、リンだ。フローラ、聞こえていたら答えてくれ。やっと会えたな、フローラ。お前に触れているのは私だけではない。心を開いて、巫女長やアン様の心に触れるのだ。フローラ!」


 アダムも魔素の流れを感じていた。巫女長の魔力とアンの魔力がフローラに働き掛けているのだ。だが、その魔素の流れはフローラの心に拒絶されていた。彼女の想いは頑なで一図なのだった。


 静かな病室の中にフローラに呼びかけるリンの声だけが聞こえて来る。病室にいる他の者たちも固唾を飲んでこの様子を見ていた。跪き祈る巫女たちの想いが強く感じられ、真摯な祈りの濃密さがあった。


( フローラ、心を開くのです )


 アンはもどかしさに心の力を込めた。すると恐々る触れていた巫女長の魔素とアンの力強い魔素が混じり合い、ひとつの流れになってフローラの心に触れたのが分かった。

 その途端、一気にフローラの思念がアンに流れ込んで来て、アンは喘ぎ声を上げた。


( 私の心に触れる者は誰ですか、、、、おお、闇の御子よ、心を揺らす私をお許しください。私は覚悟をしていたはずだ。私はフローラ、孤児のフローラ。リンは何処にいるのでしょう。私も戦っているのよ、リン。闇の御子よ、私は闇の戦士の母となります。 )


 フローラの思念が奔流となってアンの心の中に流れ込んで来る。それは纏まりのない記憶の断片や繰り返される呪詛のような言葉だった。

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