第86話 闇の苗床とアンの覚醒(後編)

 ◇ ◇ ◇


( 私の父親は商都マウリタニアの商人だった。裕福な家庭に育った私は、明るくて家族の中心だった。庭には母が丹精した花が咲き乱れ、父の隊商は何十頭ものらくだを引き連れ、世界に旅立ったのだった。)


 フローラの心が誇らしげに陽気なリズムを打った。フローラにも幸福な時代があったのだ。


( 王国がエンドラシル帝国の征服を受け、商店は占領した兵士の略奪を受けた。両親は殺され、私は戦火の商都を乳母に手を取られ彷徨ったのだった。おお、無慈悲な運命よ、最後に乳母が兵士に襲われ、私は売られて奴隷になった。)


 心が縮むような恐怖の風が吹き荒れた。私は手を伸ばし乳母の手を探っていた。その手がもぎ取られる様に外された時、私は恐怖に声も上げられなかった。乳母を、大切な乳母を守れなかった。私がいたからだ。


( 戦争が終結して平和が訪れると、被征服民は集められ奴隷として強制労働に従事させられた。手間のかかる子供たちは孤児院に集められ、買い手を待って見世物のように街路に並ばされた。美しい者、強い者から買われて行き、貧弱で役立たずな私は最後まで売れ残ったのだった。)


 炎天下の街路に埃が舞っていた。日光が目に痛く、影が濃く冷たかった。


( お許しください。私は何も出来ず、平凡で、醜くは無いが美しくもなかった。帝国の奴隷商は売れ残った私を見て、死んだ親も悲しむだろうと笑ったのだった。おお、神よお許しください。)


 膝をつき俯いて祈った。再び顔を上げた時は新しい世界が待っていて欲しい。そんな望みが叶う訳も無かった。膝がしらが地面に擦れて血が滲んだ。


( ああ、愛しいリン。彼女は強い、男の子よりも強かった。私の救世主リンが剣闘士に貰われて行く日、私は泣いて手を振った。私の夢はリンの影になって付いて行くことだった。)


 右手が振り切れてしまう夢を見た。身体が回り世界が沈んで行く。手が届く手がかりも無く、自分は世界に振り回されて沈んで行くのだった。


( 私はいつの間にか年長者となり、子供の世話をするしか能がない女だったのだ。そんな時、闇の御子の教えを頂く司祭さまに拾われた。捨てられたお前のような者にしかできない役割があると。)


 脳内に響く叫び声、お前に出来る事をせよ!


 ◇ ◇ ◇


 月の女神のご加護の能力は共感力だ。巫女長の魔素に導かれてアンの魔力もその場に働き掛けていた。フローラの思念がアンを媒体としてリンにも伝わって来た。心が傷付き叫び声を上げているのが分かった。こちら側からも働き掛けるのだ。リンは改めて声に力を込めた。


「違う! 私はリン、私の言葉を聞くのだ。闇の声に囚われてはいけない!」

「誰、私を呼ぶのは誰?」

「フローラ、私はリンだ。お前は優しい子供だった。私が不条理に抗い、力を振るう時も、一緒に憤ってくれたのは、お前だけだった」

「リンは強い。私は弱くて、いつもリンの後ろに隠れていた」

「違う! フローラは弱くない。私をいつも後ろから支えてくれた。だから私は前に出れたのだ」


( フローラ、周りを見るのです。あなたは一人ではありませんよ。)


 アンの魔素が奔流となって命の宝珠に注ぎこまれた。淡い緑色の輝きが増し、力強い魔力が満ちて行く。巫女長を中心とする巫女たちの想いが、祈りとなって空間を満たしていた。暖かい光が感じられ、フローラの心は息を継ぎ、伸びをする。そこにアンが命の輝きで新鮮な息吹を与えた。今や心の中にフローラの素直な歓びの気配も感じられた。


 ◇ ◇ ◇


( 孤児院には私を慕う孤児がいた。彼らを守るのが自分の仕事だった。弱い者を励まし、自分に何が出来るか教えてやるのだ。)


 手を伸ばすと、力なく握り返して来る小さな手、そこには私への信頼があった。頼ってくれる子供がいた。


( リンの後ろ姿は私を力づけていた。一緒に頑張ろう。何時か再会を果たした時に、恥じない自分に成ろうと心に決めた。)


 子供達のために料理を作るのが好きだった。みんなで祝祭日を祝うのが楽しみだった。子供達の素直に喜こぶ顔があった。


( 子供達はいつも希望に胸を膨らませている。白昼夢の様なささいな夢にも無邪気に笑う子供たち。そんな子供たちに自分も励まされた。)


 布団の中で天井を見上げて空想話をした。天井板の節目や穴が魔法使いや動物の形になり、物語が始まるのだ。子供たちは次の話を聞きたがった。ひとつの話が終われば、次の話を。


 ◇ ◇ ◇


ー次の話って? どんな話が? 奴隷に夢があるのか?


 こき使うご主人様が待っているよ。冷たい食事、冷たい布団。そして目が覚めるといつもの天井さ。


( 誰。私を放っておいて。)


ーこの際、全てを破壊して作り直すと決めたのでは無かったか。闇の御子が世界の矛盾を払ってくれる。


( これは、私の声なの? )


ーお前は出来ることをせよ。自分に絶望したのではなかったか。自分の役割を欲していたのではないか?


「お前こそ何者だ。フローラの心の中で何をしている」


ーははは、救世主の登場か? 私はフローラの本当の声だ。人間の本心さ。


( そ、そうなの?)


「違う。お前はフローラではない。フローラは諦めない。お前が間違った方向にそそのかしたのだな」


ーははは、わしは闇の種だ。人の心に植えつけられたな。もう此奴こいつも使えなくなった。そろそろ終わりにしよう。殺すがいい。


 ◇ ◇ ◇


 アンの魔力はフローラの身体の中に違和感を感じていた。異物感と言えるかも知れなかった。アンは命の輝きの光を浴びて浮かびあって来た違和感を探ろうとした。それはフローラの心にしがみ付いて離れようとしない。影のような沁みだった。


( 離れなさい。影よ。)


ー無駄だ。我を分離することは出来ぬ。我はフローラの心の中に生まれて、絶望を食べて育った闇の種だ。フローラ自身と言っても良い。


( お前は嘘つきだ。本来あるべき命の形、魂魄にはお前の存在する余地はない。フローラはまだ死んではいない。魂を堕落させることはできない。)


ー殺すがいい。我も死ぬが、彼女も死ぬ。そして魂は再生する。その時は我のみが蘇るのだ。


( お前を分離する。風の盾 "Ventus clypeus" )


ー馬鹿な。有り得ない。やめろ、、、、


 ◇ ◇ ◇


 アダムが見ていると、アンが呪文を唱えるのが分かった。呟きのように小さな言葉が零れ、アンの身体を淡い黄色い光が帯びる。その光がふっと大きく拡がって行った。緑色の光が満ちた病室の中に、アンを中心にして半円形の黄色い輝きが重なった。風の盾が出現したのだった。


 弾き出された違和感”黒い沁み”が、寝ているフローラの頭上に浮かんでいた。


ー馬鹿な。許さぬ。人間ごときが我を愚弄するか。


 黒い沁みがフローラに戻ろうとするが、黄色い光に邪魔されて近づけない。


ー馬鹿な。有り得ぬ。月の雫の力か、それともアンの力か。闇を分離するとは。


 アダムにも弱々しく消えて行く黒い沁みの思念が伝わってきたのだった。

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