第84話 闇の苗床とアンの覚醒(前編)

 パリス・ヒュウ伯爵は穀物倉庫で見つかった母胎を国教神殿の施術院へ送る手配を済ませると、急いで王城に参内して、オルセーヌ公と会って指示を仰いだ。


 オルセーヌ公は、国教神殿の癒し手に現在の状況を調べさせること。目や喉、手や足の傷が治せるものなら治してやり、何があったのか、今どういう状態なのかを調べること。何よりも意思が通じ合えるのかを知りたいと言った。


 言葉の問題もあり、病状が分かったところで、エンドラシル帝国大使のアリー・ハサン伯爵にも知らせて、同じ民族かどうかも見てもらい、場合によっては通訳を出してもらう。この話は先日の経緯から、アラン・ゾイターク伯爵とクロード・ガストリュー子爵から話させることを指示した。


 国教神殿に運び込まれた母胎を見て、施術院の癒し手は困惑した。目や喉、手や足の傷は古く、既に回復魔法で傷は治療されていた。この段階での機能の回復は難しい。本人の肉体が治癒したと認識しているからだ。水分と栄養補給をしてやれば、現状を維持して死なせる事は無いと思われた。


 一番困惑したのは、意思の疎通をどうすれば出来るのかだった。耳の側で大きく呼びかけるが、眠っているのか反応はしない。もしかしたら言葉が通じないのかも知れない。肌は浅黒く、小顔の女性の年齢も良く分からなかった。栄養状態は良いとは思われなかったが、出産を経験した母体は少しふっくらと年齢以上に成熟して見えた。


「巫女長様、私ではこれ以上の治療は難しいと思います。巫女長様のお力をお試しください」


 癒し手の進言を受けて巫女長も決断した。巫女長は月の女神のご加護を受けた特別の素質を有している。それは共感力だ。言葉ではなく、意識で通じ合える力があった。だがこれも相性が合って、人とテレパシーで会話できる訳ではない。神託を受ける時も、そのイメージを感得するという程度なのだ。神と言葉で話し合う訳ではない。


 しかもこの女性は神とは違い、思念も弱く、ましてや自分から伝えようとは考えてもいない。無理やり心を外から開かせる程の力を巫女長も持ってはいなかった。


「何が分かるか、やって見ましょう」


 巫女長は自分の魔素の流れで母胎にそろそろと触れてみる。不安や喜びの感情が伝わって来る。少なくとも彼女は無理やりこの役割を押し付けられたのでは無く、自ら進んで引き受けたのだろう。見た目とは違った未成熟な若者をたぶらかして、この役割を与えたとすれば、闇の神は何と残酷な神だろうか。彼女は自らの役割に充足して不満も感じていないのだ。


 自分にはこれ以上の事は出来ない。巫女長は強い憤りと無力感に、この女性に対する哀惜の情で切り裂かれる思いがした。


「アンを呼びましょう。神官長にお伝えなさい。それと、パリス・ヒュウ伯爵へも連絡を頼みます」


 巫女長の判断でアンが呼ばれることになった。


「アン、良く来てくれました」

「はい、今日は学園がお休みですから。大勢で来て良かったのでしょうか」

「構いません。こちらへどうぞ」


 巫女長は国教神殿の敷地の中にある施術院へアンたちを案内した。今日はプレゼ皇女もアダムたちと一緒に付いて来ていた。ご学友の中でもゴブリン捜索に関与しているメンバーが揃って来ていた。


 病室の前には神殿衛士が立って守っていた。中に入ると、施術院の癒し手に世話されながら、ベッドに横たわる小さな異国の女性が見えた。浅黒い肌の小さな顔立ちの女性だった。


「巫女長、私は何をすれば良いのでしょうか。癒し手としてはメルテルに基本を教わりましたが、まだ助手が出来る程度ですが」

「今日は国教神殿の施術院で一番の癒し手が施術を行います。アンには命の宝珠を使って、その者を助けて欲しいのです。生命力と治癒力を増幅して助けるのです。そして私と一緒に彼女の心に呼びかけて、現世に呼び戻すお手伝いをお願いします」


 巫女長はアンに母胎の状態を説明する。目や喉、手や足の傷は古く、加害者が直ぐに外傷だけを治癒魔法で治癒したので、彼女の肉体自身が既に治癒されたと認識しており、もう一段失われた機能を取り戻す意識にまで至らないこと。そこであるべき姿を強く認識させ、生命本来の力を呼び戻す必要がある。


 国教神殿の癒し手も優秀なので、機能を欠損した直後であれば、肉体自身が本来あるべき姿を覚えているので、治すことができるが、今回はそれが出来ない。加害者の計算された悪意があるのだ。

 次に、彼女自身が心を閉ざし、光真教の教理に殉じて自足しているので、こちらから心に働きかけて、心を開かせて現世に意識を戻す手伝いをしなければならない。


 これは言葉も分からない相手の意識に直接働き掛ける共感力が必要で、月の女神のご加護の力が必要だ。それについては巫女長が先導するので、心を合わして一緒に彼女の心に接触して欲しいと言うものだった。


「私にできるでしょうか」

「月の女神のご加護を受けた巫女は、巫女長候補に選ばれると、エルフの村に赴き、先導者の指導を受けることになっています。アンは巫女長候補ではありませんが、七柱のご加護を受けているのです。あなたは私には及びもつかない能力を神から与えられているのです。力を貸してください」

「アン、俺たちも見守っている。自分の力を信じるんだ」


 アダムがその場にいる者たちを代表して声を掛けた。

 目の前のベッドの上で、眠るように横たわる異国の女性は、小柄というよりも、小さい頃に栄養を与えられなかったと分かる、貧弱な体躯を力なく横たえている。無防備で弱々しく、見ているアダムたちの心を強い懸念で波立たせた。


 その時、病室の扉が開いて、神官長に案内された小柄な女剣士が入って来た。開いた扉の向こうに、廊下に立つアラン・ゾイターク伯爵とクロード・ガストリュー子爵の姿が見えた。


「リンだ。リンじゃないか」


 ドムトルが声を上げた。アダムたちは後ろに立つアラン・ゾイターク伯爵とクロード・ガストリュー子爵に黙って挨拶をした。


「こちらが、穀物倉庫で見つかった女性です。見て頂くと分かるが、あなたと同じお国の方だと思われるのですが。どうですか」


 ゲオルグ・フォレスター神官長がリンに話しかけた。オルセーヌ公の指示で連絡を受けたアリー・ハサン伯爵の命令で母胎にされた女性を見に来たのだろう。

 リンはアンたちが居るのを見て驚いた様子を見せたが、アンに黙礼をするとベッドに近づいて、女性の顔を覗き込んだ。


「フ、フローラ。フローラじゃないか。どうしてこんなことに。フローラ!」


 リンは突然絶叫して、掴みかかるようにベッドの女性にすがりついた。しかし、それ以上言葉が出ず、頭を横たわる女性の身体に付け、力無くしゃがみ込んだ。


「フローラ、よりによってお前が、闇の苗床にされるなんて、、、なんて、、、不公平な」


 アダムたちは突然のリンの反応に驚いてじっと見ているしかなかった。リンと同じ国の出身だろうとは思っていたが、まさか知り合いだとは考えもしなかった。

 巫女長が何事かと神官長を見る。


「エンドラシル帝国の出身かも知れないと、オルセーヌ公の指示で、エンドラシル帝国大使のアリー・ハサン伯爵の部下の方に来て頂いたんだ。もしも言葉が通じればとも思ってね」


 ゲオルグ・フォレスター神官長が巫女長に経緯を説明する。巫女長も意思を通じるのに苦労していただけに、もし言葉だけでも母国語で話掛けられるなら、反応を見たいと思った。


「気をしっかりとお持ちください。今新たな治療をしようとしていたところです」


 巫女長が話し掛けるとリンが顔を上げて巫女長を見た。巫女長がアンに説明したことと同じ内容を説明すると、やっとリンは自分を取り戻して説明を始めた。


「彼女はフローラと言って、私と同じ孤児院の出身です。孤児院と言っても、エンドラシル帝国の被征服民は全て奴隷に身分を落とされるので、身分は奴隷のままです。自分は小さい頃に剣闘士奴隷に貰われて孤児院を離れましたが、彼女は孤児院を運営する光真教の巫女になって、孤児院で働いていると聞いていました。あの、自ら志願したと言うのは本当でしょうか?」


 必死の形相で尋ねるリンに巫女長が悲しそうに笑って言う。


「彼女の心に働き掛けましたが、本人は宗教の教理に殉じているようです。平安な自足感を感じるのです。ですが、本人は使命感に燃えているのでしょうが、自分がゴブリンを産み出していることは秘されていたのではないでしょうか。それを教えることが果たして良い事なのか、悩ましいところですが」

「おお、なんと酷い。酷すぎる。それでは助けることが、新たな苦悩を産むではありませんか、、、いっそ、、、私の手で命を、、、」


 リンは思いつめたようにフローラの顔を凝視した。


「馬鹿な事を言ってはいけません、リン」


 それまで黙っていたアンがリンに話かけた。


「アン様、私はどうすれば良いのでしょうか」

「私たちと一緒に彼女に話し掛けるのです。彼女の心を開いてあげましょう。一時の苦悩を受けても、彼女の心をこのまま闇の神の手に握らしていて良いのですか。あなたが解放してあげるべきではないのですか?」


 アンは改めて巫女長の方を見て言った。


「巫女長、私に力があるのならば、その力を導いてください。私はやるべきことを遣りたいと思います。自分の力を信じてやって見ます。リンも手を貸してください。フローラを助けるのです」


 それまで自分に何ができるのだろうかと、逡巡していたアンは、リンの苦悩を見て心を決めたようだった。


「では、こちらに」


 フローラの治療が始まったのだった。

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