イレーネ・マツモト

 今から二十分ほど前、バルブロは公会堂のメインホールにいた。広い客席の隅で、ムルジャン王立大学の学生であるイレーネの発表を聞いていたのだ。

『えーと、こちらの画像をご覧ください』

 ステージに立つ彼女は、首から「イレーネ・マツモト」と書かれた名札を提げ、普段の彼女らしからぬ暗い色合いのスーツを着ている。栗色の髪の美人だが、壇上でスポットライトを浴びた顔はこわばり、血の気を失って見える。よほど緊張しているのか、ちょっとした動きがいかにもぎこちない。

 バルブロは半ば祈るような気持ちで発表を見守った。

『えーと、これは十四世紀初めの版画です。えーと、この絵から見てとれるように、当時からムルジャンでは公開処刑が行われていましたが、それは石打ちという、えーと、死刑囚にとって長い苦痛を伴うものでした。当時の国王、ヘルルーガ四世はえーと……』

 相変わらず「えーと」の多い子だ。バルブロは静かに苦笑した。

 その歴史は、元・首斬り役人である彼もよく知っている。当時の国王は死刑囚への憐れみから石打刑を廃し、代わりに斬首を公開処刑の方法として採用した。死刑はもう、十四世紀当時のように頻繁には執り行われなくなったが、その伝統は今も受け継がれている。

 首斬り役人は、ヘルルーガ四世時代に高い地位にあったいくつかの騎士の家柄が拝命し、それは今日まで続いている。ムルジャンでは、それは非常に名誉ある役目とされ、神職に近い尊敬を集めている。

『えーと、国王は非常に信仰心が篤くてですね、同時期に建てられたヘルルーガ聖堂の壁画にも、あれ、ちょ、ちょっとすみません』

 どうやらプロジェクターの調子がよくないらしい。元々色白のイレーネの顔がどんどん青ざめていく。

(頑張れ)

 客席の暗がりに溶け込むように座っているバルブロは、心の中でそう呟いた。

(練習のときみたいに落ち着くんだ。聴衆なんか、『少々お待ちください』とか言って待たせておけばいい。大丈夫、失敗したって死ぬわけじゃない)

 辛うじて視力の残った右目で壇上を見つめながら、彼はイレーネと初めて会った日のことを思い出していた。




 イレーネ・マツモトがバルブロの家を初めて訪れたのは、まだ去年、この冬が始まったばかりの頃だった。旧友の紹介でやってきた彼女は、彼と、彼がひとりで暮らすゴーエン家の古い別邸にとって、実にひさしぶりの来客だった。

「お話を聞かせてくだひゃい」

 ガチガチに固まっていた彼女はそう言った。

 バルブロよりも十五歳年下のイレーネは、すでに成人しているのにも関わらず、まるで十五、六の少女みたいに初々しく見えた。彼女は大学で国文学を学んでおり、ムルジャンの公開処刑制度の変遷と、それが文学作品に与えた影響について、毎年行われる定例発表会のための論文を書いているのだと説明した。

「よく僕のところまで来ましたね」とバルブロが言うと、イレーネは米つきバッタのようにペコペコ頭を下げ始めた。

「すみませんスミマセン。お嫌かもしれませんが、どうしてもお話を伺いたくて」

「ああ、いや、ただ単によくたどりついたなと思っただけです。嫌なわけでは決して」

 そう言われたイレーネは、なぜか泣き出しそうな顔をした。その顔色がひどく青白いので、バルブロは(この子、貧血で倒れたりしないだろうな)と心配したが、のちに緊張すると血の気が引く性なのだと知った。

「祖父が評議員をやっていたので、その伝手で……そうでなければとても」

 イレーネが言い訳をするようにそう言い、バルブロは「なるほど」とうなずいた。とはいえ本来なら、身内が評議員をやっていた程度では、とても彼にたどりつくことはできなかったはずなのだ。今こうして彼女が、元・首斬り役人としての彼を訪ねてきているということは、異例中の異例なのである。

 ムルジャンでは、首斬り役人の正体は重要機密とされている。死刑執行の際に人前に出るときも覆面をし、体型のわからない制服を着て、一言も発しない。その正体を探ることは法律で堅く禁じられているし、もちろん首斬り役人本人がそれを明かすこともご法度とされている。首斬り役人はいわば「法の権化」であり、「特定の個人」であることは望ましくないと考えられているからだ。

 だからこのムルジャンの歴史の中で、個人の特定が一般市民にも可能な首斬り役人は、バルブロ・ゴーエンただひとりである。

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