第4話 【最後の】俺たちには昔、母親がいたんだ【真実】 2/2

『……僕はずっと、後悔していたよ』


 ひとしきり語り終えたあと。


 親父は俯いたまま、ぽつりと呟いた。



京子きょうこは真面目すぎる人だった。何事にも全力で、手を抜くことができない人だった。そんな彼女の気持ちを、誰よりも分かっていたはずなのに……忙しくなっていく彼女のことを、あの頃の僕は受け止めてあげられなかった』


『……別に。仕方ないんじゃね?』



 珍しく毒を吐くことなく、那由なゆは言った。

 そして、親父を縛ってるロープをほどいて。



『母さんが家にいないことが増えて、あたしらが寂しかったのは本当だし。それが原因で喧嘩が増えた、父さんの気持ちも……分かんなくないし』


『ありがとう、那由。だけどね――僕は母親としての京子も、真伽まとぎケイとして頑張る京子も、愛していた。だからこそ、今でもときどき思うんだ。もしもあのとき、僕が彼女を支えられていたら……って』



 だから、と。

 父さんは微笑みながら、言った。



『――綿苗わたなえさんと知り合ったのは偶然だよ。そこで和泉いずみゆうなさんの名前が出たのも、ただの偶然だ。でも、そんな偶然の中で、僕は――結花ゆうかさんが遊一ゆういちにとって、かけがえのない存在になるに違いないって思ったんだ。だからこそ僕は、綿苗さんに結婚話を持ち掛けた。これまで辛い思いをさせた分……遊一には幸せになってほしかったから』


「それは分かったけど……結花が『60Pプロダクション』所属なのは、どこかで気付いてたんだろ? 俺と母さんがバッタリ会う可能性は、考えなかったのかよ?」


『母さんは会社の重役だよ? こんなことでもなければ、一声優やその婚約者と顔を合わせるなんて、思わないでしょ?』


「まぁ……確かに、そうか」



 俺はふっと、那由の方を見る。


 那由はいつの間にか俯いて、前髪を指先で弄っていた。


 その姿が、やけに寂しそうだったから――。



「…………ま、どうでもいいけどな。母さんのことなんて」



 俺はそう呟いた。自分に言い聞かせるように。



「どんな過去があろうと。どんな事情があろうと。今、俺と那由のそばにいる家族は――親父だけなんだから」



 それから俺は。

 できるだけ普通に笑いながら、言ったんだ。


「ごめんな親父……ありがとう。色々と話してくれて」



          ◆



 ZUUMを終えて、ノートパソコンの電源を切ると。

 さっきまでの騒々しさが嘘みたいに、目の前のリビングは静まり返っていた。



「さーて……そろそろ寝ようかな」


 静寂を振り払うように、そう言ってから。

 俺はゆっくりと、カーペットから腰を浮かそうとして――。



「――ゆうくんの、嘘つき」



 唐突に。

 背中から思いっきり、結花に抱き締められた。



「ゆ、結花!?」


 その勢いで俺は、再びカーペットの上に座り込む。

 そんな俺のことを、包み込むように抱いたまま……結花は呟いた。



「お母さんのこと……どうでもいいわけ、ないじゃんよ」


「……寝てたんじゃなかったの、結花?」


「途中で起きちゃった。そしたら、遊くんの背中が寂しそうだったから……さっきからずっと、ぎゅーってしたかった」



 ――寂しそう? 俺が?

 ピンとこないフレーズすぎて、俺はつい首を捻ってしまう。



「そんなこと、全然ないって。俺には結花がいるし、那由や親父もいる。勇海いさみだって、もう家族みたいなもんだし。寂しいだとか、思ったこともないよ」



 思ったままを口にしてるはずなのに、なぜだか早口になってしまう。


 そんな俺のことを、後ろから抱きすくめたまま。

 結花は、ポンッと――俺の胸に手を当てた。



「そんなの嘘でーす。結花ちゃんの目は、誤魔化せませーん。だってここに――『寂しい子ども』の遊くんが、いるじゃんよ」

「寂しい、子ども?」



 そういえば、『カマガミ』の騒動のときも、そんなこと言ってたな。

 結花と来夢らいむが使っていた、知らないフレーズ。



「遊くんはねぇ……いっつも頑張り屋さん。家族思いで、友達思いで、優しくって素敵な男の人。そんな遊くんのことが、私は大好き! ……けどね? 遊くんのここにいる、ちっちゃい遊くんのことも、同じくらい大好きなんだ」



 俺の右胸を、優しく撫ぜながら。

 結花はぽつりぽつりと、言葉を続ける。



「……お母さんがいなくなったとき。那由ちゃんやお義父とうさんのことを思って、たくさん気を遣ったんでしょ? そうやって、平気だよーって顔で頑張って……心の奥にしまい込んじゃった、寂しいとか悲しいの気持ち。それが――『寂しい子ども』の遊くん」


「いや。別に俺は、寂しくなんか――」



 反論しかけた俺の身体を、ぐいっと自分の方に向かせると。

 結花は、俺の顔を――自分の胸元へと抱き寄せた。


 右頬に伝わる、柔らかな感触。



「ちょっ、ゆ、結花……?」


「遊くんは知らないかもだけどねぇ。笑ってる遊くんも、泣いてる遊くんも、甘える遊くんも、格好いい遊くんも。私はぜーんぶ、大好きなんだよー? ……えへへっ」



 トクン、トクンと。

 結花の心臓の鼓動が伝わってきて――それが妙に心地よい。



「だから……私の前では、泣いていいんだよ? 甘えたって、いいんだよ? だって私たち、家族じゃんよ。家族の前ではねー、笑っても泣いても、いっぱい甘えてわがまま言っても、大丈夫なんだよっ! だって……どんなあなたも、愛おしいんだもの」



 結花がギューッて、強く抱き締めて。

「よーしよし」なんて言いながら、俺の頭をぽんぽんって撫でてくる。


 ――甘い匂い。優しい声音。温かい感触。


 俺の五感すべてが、結花で満たされすぎて。

 なぜだか分からないけど……涙が出そうになって、困る。



「――っていうか、結花こそ、もっと自分のことを大事にしなよ。いつも他人の心配ばっかりしてさ。そんな優しいところも、好きだけど……結花が辛い思いをするのは、やっぱり嫌なんだよ」


「きゃー、優しいー! 遊くん好きー!! わしゃわしゃー!!」


「ぎゃー!? 恥ずかしいから……ぐむ……」



 抵抗を試みようとしたけど、なんか力が入んなくて。

 やがて俺は正面向きになって、結花の柔らかい谷間の中に、埋もれていく。



 そして、もがいてももがいても、胸から出られそうにないので――そのうち俺は、考えるのをやめた。



「ふへへー。どーですかー? ちっちゃくてごめんだけど、気持ちいいですかー?」


「…………はい」


「正直でいい子ですねー。なでなでー、ぎゅー。ちなみに私も、気持ちいいっていうか……ドキドキして死にそう。大好き、遊くん」



 そして結花は、俺のことを抱き締めたまま、静かに言う。



「……もしもあのとき、私が『カマガミ』さんの前で何もしなかったら。そっちの方が間違いなく、後悔してたと思う。自分のすべてを懸けて努力してきたらんむ先輩が、『夢』を台無しにされちゃうのも……これまでたくさん、辛い思いをしてきた遊くんが、また傷つけられちゃうのも。どっちも絶対に――嫌だもん」



 その、優しすぎる言葉が……俺の心を強く揺さぶった。


 そして俺は、結花の胸の中から抜け出して、彼女のことを見上げた。


 熱い雫のようなものが、自分の頬を伝っていく。



「だけど俺は――やっぱり、結花に傷ついてほしくなかったんだ。結花だって、たくさん辛い思い出があっただろ? いっぱい頑張って、また笑顔になれたんだろ? その結花が、こんなくだらない炎上で、人の悪意に晒されるなんて……俺は……」


「ありがとう、遊くん。それから……ごめんね。私のことで泣いてほしいとか、そういうんじゃなかったんだけどなぁ。だめだねぇ、私ってば」



 結花が俺の肩に手を置いて、まっすぐこっちを見つめてくる。

 少しだけ瞳を潤ませて。



「らんむ先輩と違って、私って欲張りなんだよね。遊くんのことも、ファンのみんなのことも、家族や友達のことも――全部が大切だから。どれかひとつは選べないなぁ、だったら全部頑張っちゃおー! ……って思って、今までやってきたんだ」


「……知ってるよ。だってそれこそが、綿苗結花で和泉ゆうな、なんだから」


「うん。でもね? 昨日ちょっと、考えてみたの。『ある日突然、世界が無人島になったとき、ひとつだけ持っていくとしたら何?』って」



 ……何その、奇抜なお題?

 ツッコミどころしかないけど、結花は至って真面目な様子。



「どうしても、ひとつしか選べないんならね? 私は――遊くんにいてほしい。遊くんがいてくれたら、きっと笑って生きていけるはずだから」



 そして結花は、笑ったんだ。


 いつもより寂しそうに。




「たとえ、和泉いずみゆうなが……いなくなったとしても、ね」

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