第2話 ―御伽の夢から醒めて― 2/2

 真伽まとぎケイがラウンジを去った後。


 張り詰めていたものが一気に緩んだのか、ドッと疲れが襲ってきた。


 そして鉢川はちかわさんに勧められるがまま、俺は窓際にあるソファに座らせてもらう。



「……すげぇ。さすが、声優事務所のソファだなぁ……」


 寄り掛かった背もたれの心地よさに、つい声に出してしまった。

 それくらいこのソファ、ふかふか加減が尋常じゃない。


 …………お?

 しかも右側のここ、さらに柔らかいな?



 やばいぞ、これ。マシュマロみたいというか、人を駄目にする柔らかさというか――。



「えへへっ。はい、ゆうくん……むにゅーっ!」

「って、何してんの結花ゆうかは!?」



 ソファの背もたれかと思ったら、結花の胸でした。

 何を言ってるか分かんないと思うけど、俺も何を言ってんのか分からねぇ。


 俺は慌てて、ソファから転がり落ちる。


 そんな俺を見下ろしながら、和泉ゆうなの格好をした我が許嫁は、あっけらかんと言い放った。



「何って……遊くんが疲れてたから。大好きなおっぱいでぱふぱふってしたら、少しでもHPが回復するかもって、思いついたんだもんっ!」


「馬鹿なのかな!? 時と場所を考えて! ここはどこ? 声優事務所だよ!?」


「……じゃあ、おうち帰るまで、遊くん我慢できる?」


「違う違う! なんで俺がぱふぱふをお願いした感じの流れなの!? 俺は一言だって、そんなプレイを求めた覚えはないからね!?」



 まるで普段の家のような、くだらないやり取り。

 回復するどころか、いっそ何かを削られたような気がするんだけど。



「……はぁぁぁぁ。なんだか気が抜けちゃったわよ、もぉ」


 鉢川さんはため息交じりにぼやくと、じとっと俺のことを睨んできた。



「家に帰るまですら、抑えられないんだもんねぇ……十代の男の子の欲望って、とどまることを知らないわねぇ……」


「待って、鉢川さん。なんか今、俺をけだものみたいな扱いしてません?」


「あはははっ! まぁ、いいじゃないか鉢川」



 全然よくないのに、強引に話をぶった切ると。

 六条ろくじょう社長は、やたらと愉快そうに笑った。



「いくつになっても、男の子は大きければ大きいほど好き――それが定説だものな。なぁ、紫ノ宮しのみや?」

「いえ。私に振られても」



 一秒の間も空けず、即答する来夢らいむ

 その表情は、完全なる『紫ノ宮らんむ』のもの。


 まぁ、そうだよな。そうやって流すしかないよな。

 分かる分かる。


 分かるから……来夢?


 自分の胸に手を当てて、庇うような仕草をするのはやめようか?


 昔好きだった女子に、胸を狙う異形のもの扱いされると、さすがに凹むから。



和泉いずみ、すまないな。当人である君に、気を遣わせてしまった。だが、おかげで少し皆の空気が和んだよ」



 六条社長はそう言うと、結花の方に向き直った。

 一方の結花は、ばつが悪そうにもじもじしつつ……六条社長の顔を見る。



「いえ、気を遣った行動とかじゃなくって……遊くんを元気づけなきゃーって思ったら、やりすぎちゃっただけなんです。ごめんなさい……」


「ほう。それじゃあ、さっきのは計算でもなんでもなく、天然の行動だったと? あはははっ! やっぱり君は面白い子だな、和泉」



 そんな風に、豪快に笑ってから。

 六条社長は、すっと――真剣な表情に切り替わる。


 さっきまでふざけた発言ばかりしていた人とは思えないほど、理知的な顔つきに。



「さて、それじゃあ――これからの話をしようか。暴露系MeTuber『カマガミ』は昨日、和泉と『恋する死神』の交際というスキャンダルを掴んでいる。今のところ動きはないが、おそらく……そう遠くない未来に、奴は和泉のスキャンダルの暴露動画を、アップロードするだろう」


「……はい」


「アップロードされれば、速やかに法的措置を取る。動画内に脚色や嘘があった場合には、事実無根という声明を事務所から出す。『60Pプロダクション』は、あらゆる手段を尽くして、和泉ゆうなを護るために動くと誓うよ。だが――」



 六条社長はゆっくりと、来夢の方へと視線を向けた。


 その意図を察したように、来夢はグッと唇を噛んで言う。



「……タイミングが悪い、と。そうおっしゃりたいんですね、六条社長?」


「ああ。第二回『八人のアリス』お披露目イベントまで、あと二週間弱。『アリステ』への注目度は、否が応でも高まっている。しかも今回……ゆうなが飛躍的に順位を上げているからな。当然、和泉ゆうなへの関心も高くなる」



 ――六条社長の言うことは、もっともだった。



 大人気ソシャゲ『ラブアイドルドリーム! アリスステージ☆』内で行われた、人気投票企画――『第二回 八人のアリス投票』。


 そして、投票で選ばれた八人のアリスアイドルの声優が一堂に会する、大掛かりなお披露目イベント。


『アリステ』を愛するユーザーだったら、こんなお祭り、盛り上がらない方がどうかしている。



 だからこそ――このタイミングで、スキャンダルが投下されたら?



「炎上の可能性が高い……ってことですよね?」


 結花が静かに、そう言った。



「ああ。そのとおりだ、和泉。インターネット上はもちろん、イベントの現場も含めて、炎上する可能性を考慮しなければならない」


「――燃やせるものなら、燃やしてみなさい」



 六条社長の言葉に、かぶせるように。

 来夢が怒気を孕んだ声で呟いた。



「そんな醜悪な炎ごときで……私たちの『アリステ』も、ゆうなも、終わるわけがない。終わらせて――たまるものか」


「らんむ……そうね、そうよね! ゆうな。わたしも『60Pプロダクション』の一人として、和泉ゆうなのマネージャーとして、全力を尽くすわ! だから、この窮地を乗り越えて、最高のお披露目イベントにしましょう!!」


「来夢……鉢川さん……」



 二人の言葉を聞いて、俺は思わず、目頭が熱くなるのを感じた。


『アリステ』のために。声優・和泉ゆうなのために。

 事務所も、来夢や鉢川さんも、懸命に動こうとしてくれている。



 こんな姿を目にしたら、結花のことだ。


 きっと、涙でも流して喜ぶはず――。



「……えへへっ。本当にいつも、ありがとうございます。らんむ先輩、久留実くるみさん。ありがとう、ですけど――ごめんなさい」



 俺の予想に反して。

 結花は弱々しい声色で、そう応えた。



「ごめんなさい……か。その言葉の真意、聞かせてもらえるか。和泉」


「はい、六条社長。私は……ゆうなが『八番目のアリス』に選ばれて、本当に嬉しかったです。それはもう、物理的に飛び上がって、喜んじゃったくらいに。だから……同じように嬉しかったはずのキャストのみんなに、悲しい思いをしてほしくない」


「何を言っているの、ゆうな? 他の演者のことを聞いているんじゃない! 六条社長が、私たちが聞きたいのは、貴方自身の気持ち――」


「――私はっ! みんなで一緒に、笑いたいんですっ!!」



 来夢の言葉を遮るようにして。

 結花が珍しく、大きな声を上げた。


 その頬を流れ落ちていく、優しい雫。



「私の大好きなゆうなは、いつだって全力で。猪突猛進すぎて、とんでもないドジもしちゃいますけど。ゆうなは――どんなときだって、みんなで一緒に笑いたいって思う、そんな子だから。だから私も……みんなが悲しい顔をするなんて、絶対に嫌なんです」



 綿苗わたなえ結花っていう子は、意外と強情だ。

 誰かのために行動しようってなったときは、特に。


 いつもは無邪気で天然で、かまってちゃん全開な、ふわふわしたタイプなのに。



 ――そんな結花だからこそ。


 この状況だったら、周りのみんなのためにって……そう答えちゃうんだな。



「六条社長――お願いします」



 そして結花は。

 穏やかな笑みを浮かべたまま、言った。



「もしも私が、スキャンダルで炎上しちゃったときは……お披露目イベントへの参加を、辞退させてください」

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