第8章

第1話 ―御伽の夢から醒めて― 1/2

 真伽まとぎケイ。


 その名前は、結花ゆうか来夢らいむの口から、何度も聞いたことがあった。


 俺が物心つくよりも前に、日本中にその名を轟かせたという、伝説のトップモデル。


 もっとも……俺は二次元と、ぎりぎり二.五次元までしか興味がないから。

 どんな人で、どんな実績があるとかっていうのは、ほとんど知らないんだけどな。



 ――結花たちに聞いた話の限りだと。


 真伽ケイはモデル業を引退した後、しばらく業界から姿を消していた、らしい。


 そして、六条ろくじょう麗香れいかさんと一緒に声優事務所『60Pプロダクション』を立ち上げたことで、再び世間から認知されるようになったんだとか。



 もしも……六条社長と彼女が、『60Pプロダクション』を創立していなかったら。

 和泉いずみゆうなも、ゆうなちゃんも、存在しなかったかもしれない。


 そういう意味では、彼女は俺の心を救ってくれた――大恩人ってことになる。



 そんな真伽ケイと、俺は今――初めて対面した。



 ぱっちりとした瞳。黒く艶やかな髪。

 身長は優に百七十を超えていて、女性としてはかなりの長身だ。


 トップモデルだった頃。

 真伽ケイは、世間から「絶世の美女」だなんて、褒め称えられていたんだとか。


 まぁ……年齢とかを考えれば、綺麗な見た目をしている方なんだろう。多分。


 別に俺は「絶世の美女」だとか、これっぽっちも思わないけどな。



 だって。


 俺にとって、この人は。


 浮世離れした、元・トップモデルなんかじゃなくって…………。



          ◆



「――――遊一ゆういち?」

「…………母さん?」


 反射的にそう呼んだ途端、急に頭の中が真っ白になっていくのを感じた。



 これ以上、何を喋ればいいのか分からなくて。

 だけど、視線を逸らすこともできなくって。


 俺はただ……その場に立ち尽くすことしかできない。



 そしてそれは、おそらく向こうも同じなんだと思う。


 彼女は。

 真伽ケイは。

 ――――俺の母親は。


 表情をなくしたまま、ただただ俺のことを、まっすぐ見つめていた。



 結花、来夢、鉢川はちかわさん、六条社長。


 俺たち以外の面々も、ただならぬ空気を察してなのか、押し黙っている。



「……母さん、ですって? どういうことなの、遊一?」


 重苦しい静寂に包まれた、『60Pプロダクション』のラウンジで。

 最初に沈黙を破ったのは、来夢だった。


 流麗な紫色のロングヘアと、ゴシック風の衣装という、紫ノ宮しのみやらんむの格好のまま。



「……真伽さんが? 遊一くん……の、お母さん……?」


 来夢とは反対に、鉢川さんは呆然とした顔のまま、うわごとのように呟いた。


 動揺のあまりか、前髪をぐしゃっと握り締めてるもんだから、いつも綺麗に整えているショートボブが乱れてしまっている。



「…………」


 そして、その隣では。


『60Pプロダクション』代表取締役の六条麗香さんが、腕組みをしたまま、静かに立ち尽くしていた。


 パーマのかかった髪も、身に纏ったグレーのスーツも、まるで乱すことなく。

 六条社長はただただ、まっすぐに――。


 ――真伽ケイのことを見据えている。



 …………みんなが戸惑う気持ちは、よく分かるよ。

 だって、誰よりも俺自身が、驚いてるんだから。



 佐方さかた京子きょうこ


 それが俺の、母親の名前だ。


 いや……もう親父と離婚してるんだから、正確には『新戸あらと京子』なんだろうけど。


 なんとなく、そうは呼びたくない自分がいる。



 ――俺が中二になる直前に、母さんは家を出た。


 それ以来、俺も那由なゆも、母さんとは一度も会っていない。


 それがこんな、思いも寄らない形で再会を果たしたんだぜ?


 動揺するなっていう方が無茶だ。



「……ゆうくん」


 結花がキュッと、俺の服の裾を掴んで、上目遣いにこちらを見てくる。


 目に映る結花は、声優・和泉ゆうなだった。


 ツインテールに結った、茶髪のウィッグ。

 可愛くコーディネートされた、ピンク色のチュニックと、チェックのミニスカート。


 俺の愛する『アリステ』のゆうなちゃんに似た、キラキラした輝きを放つ――そんな最高の声優・和泉ゆうな。



 だけど……僅かに瞳を潤ませた、その表情は。


 無邪気に甘えてきたり、優しく癒してくれたりする、素の綿苗わたなえ結花そのものだった。



 ある日突然、俺の許嫁になった。

 可愛いしかない、誰よりも何よりも――大切な女の子。



「大丈夫、遊くん?」

「……ああ。ありがとう、結花」



 結花の小さな手を、ギュッと握る。

 途端に、頭の中のもやが晴れていくのを感じた。



「大丈夫。どうでもいいことだし、気にしないで。そんなことより今は、結花のスキャンダルの方が、よっぽど重大だから」


「……そうね。ごめんなさい、和泉さん」


 俺の発言に呼応するように、真伽ケイもまた、淡泊にそう告げる。



「和泉さんの一大事だっていうのに――些末なことで、騒いでしまったわね」



 ――些末なこと、か。



 ちくりと胸は痛むけど。


 そうだよな。本当に……取るに足らないこと、だもんな。



「麗香。この場はひとまず、お願いしてもいい? 最終的な対応については、わたしの方で動くから。専務取締役兼アクター養成部長として」


 伏し目がちにそう言うと。

 真伽ケイはすっと、俺たちに背を向けた。


 そして、足早にラウンジを去ろうとして――。



「京子」



 六条社長に、違う名で呼び掛けられた。


 真伽ケイの足が、ぴたりと止まる。



「和泉のことは、もちろんこれから手を打つ。だが……京子。君にとって大事なことは、他にもあるんじゃないのか? 『恋する死神』は、佐方遊一くんは。京子の――」


「――――『京子』じゃないわ、麗香」



 振り向きもせず、真伽ケイは冷淡に言い放った。

 そしてゆっくりと、歩き出して。



「わたしはただの、真伽ケイ。『佐方京子』なんかじゃない。今さら……その名を名乗る資格なんて、ないのだから」

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