3
今回は自ら意識して『異世界跳躍』をしたからか、すぐに全身の力を感じることができた。
手の指先から足の指先まで動かす。
どこにも問題はない。
そして、ゆっくりと目を開けると、そこはさっきイメージした自分の部屋だった。
「……も、戻ってこれたんだ……」
ホッとしたのも束の間。この世界では、天音が消えた後どういうことになっていたのか。
自分の机の上には、あの日手放してしまった鞄が置いてあった。
所々汚れているのは、放り投げたからだろうか。
とにかくまず確認するべきはスマホだった。
鞄を漁ると、スマホは無事見つかった。
電源を入れる。バッテリーは残り三十%を示していた。
「――嘘!?」
バッテリーの下に表示されていた日にちを見て、思わず声を上げた。
七月二十九日。午後四時二十三分。
あの日は、確か終業式の日だった。
つまり、七月二十一日。
それから、リンデート王国で過ごした時間は二日くらい。
惑星ムートも一晩しかたっていなかったから、二日。
それなのに、倍の時間が過ぎている。
一体、どういうことなのか。
異世界だけでなく、時間をも跳び越えた?
いやいや、今はそんなことを考えている場合ではない。
天音はすぐに階段を降りた。
この時間ならいつも夕飯の支度をしている。
一階の廊下を真っ直ぐ進む。ガラス戸を開けて台所に飛び込んだ。
そこには、当たり前のように母がいた。
「お、お母さん……」
背中を向けてまな板の上でトントンと包丁をおろす音が止まる。
ゆっくりと、まるでコマ送りのように母が振り返る。
天音と同じ長い黒髪は、少し艶がなくなったように見えた。小太りだった体型も心持ち痩せてみる。
退屈な日常の中で母を……家族を恋しいと思ったことなどなかった。
だってそれはいることが当たり前で、会えなくなるなんて思ったことはなかった。
しかし、天音の感覚ではたった四日会えなかっただけなのに、久しぶりに再会したような気持ちだった。
「あ……天音……?」
涙で視界がぼやける。
「う……うん……ただいま……」
何をどう言ったらいいのかわからなくて、それだけしか言えなかった。
母は包丁を置いて天音を抱きしめた。
強く、痛いくらいに。
母も、天音と同じような顔をさせていた。
「天音! どこ行っていたの!?」
涙で顔を歪ませる母を見ていたら、申し訳ないような気持ちでいっぱいになった。
だって、『異世界跳躍』は天音の意思で行われたことだから。
この退屈な世界からどこかへ行きたいという気持ちが、天音には常にあった。
だからきっと、母を悲しませたのは、天音の意思だった。
「……ごめんなさい。どう説明したら良いのか、わからない」
「……混乱してるのね。いいわ。それよりもお父さんに連絡しないと。ああいや、それよりもまずは警察だわ」
「け、警察?」
「天音の捜索願を出したのよ」
そう言って母はリビングに自分の携帯電話を取りに行った。
母の話し声から、父と喜んでいるのが伝わってくる。
それでようやく天音は退屈だけど、平和な日常に帰ってこれたのだとホッとした。
その日の夕食。
いつもは帰りの遅い父が、午後七時前には帰ってきて、三人で食卓を囲んだ。
父も母も天音が消えていた八日間のことはまったく聞かなかった。
「そういえば、暦ちゃんも心配していたわよ。結局、お祭りも一緒に行けなかったんだし、ちゃんと連絡しておきなさいよ」
「うん」
そうか、暦ちゃんなら。この能力のことを話しても理解してもらえるかも知れない。
明日会ってみよう。
「それより、父さん今年は有休使って一週間くらい休みを取ってるんだ。どこか行きたい場所はないか? どこだって連れて行ってやるぞ」
「うん……ありがとう。でも、いいの。宿題だってやらなきゃいけないし、二学期は選択授業とかもあるから、将来のこととかよく考えないといけないの」
「そ、そうか……」
父はほとんど有休を使ったことがない。その有休はきっと、天音を探すために使ったのだとわかった。
それは素直に嬉しかったけど、天音の勝手で両親に心配をかけて、おまけに気を遣われるのは心苦しかった。
――結局、父も母も私が家出していたことについてまったく追求することなく、また叱ったりもすることはなかった。
部屋に戻ってスマホを確認すると、ラインのメッセージが五十を超えていた。
慌ててラインのトーク画面を開くと、そこには暦ちゃんから天音を呼びかけるメッセージと何度か通話したマークがあった。
全てに既読が付いたからか、再び新しいメッセージが来た。たった一言「天音ちゃん?」と。
天音はメッセージではなく通話をした。
すぐに暦ちゃんは出た。
『天音ちゃん!?』
「ごめん。それから、久しぶり」
『ど……どこへ行っていたんですか……』
力の抜けるような声。涙も混じっているような気がしたが、天音は真剣な声で言った。
「それについて、暦ちゃんにだけ詳しく話を聞いて欲しいの。明日会えないかな」
『わかりました。どこが良いですか?』
家だと母に聞かれる恐れがある。
「いつもの漫画喫茶がいいと思う」
『わかりました。それじゃ、明日。……今度は、約束を破らないでくださいね』
「わかってる」
時間はラインのメッセージで送った。「明日の午前十時。漫画喫茶で」と。
天音が出かけることに、母は心配をしていたが、暦ちゃんに会うと言ったらホッとしたような表情をさせた。
さすがに八日も家を空けるとごく普通の女子高生とは言えなくなるらしい。
母にとって今の天音は不良――とまではいかなくても。家出をする気難しい女子高生に映っているのかもしれない。
久しぶりの日本の夏。午前十時だというのにすでに気温は三十二度を超えている。
リンデート王国は季節がわからなかったけど、ここまで暑くはなかった。
惑星ムートに至っては太陽が雲で隠れているからやや肌寒いくらいだったし。
焼けるような暑さに辟易しながら自転車を走らせる。
天音の家から漫画喫茶までは自転車で十分くらい。踏切を越えてその先の交差点の角にある。ここ最近は都内のどこにでもネットカフェがあるから昔ながらの漫画喫茶と呼ばれる場所はほとんどなくなってしまったけど、その店だけは天音が生まれる前から続いていた。
すでに入り口には暦ちゃんが待っていた。
白いワンピースに麦わら帽子。写真に撮ったら「文学少女」というタイトルにぴったりだ。
天音はというと、Tシャツにショートパンツにレギンス。動きやすさ重視、ではなく涼しくて簡単な格好が楽だから好きなだけだった。
家だとレギンスすら穿かないのだが、さすがにそれで外出する気にはならなかった。
自転車に乗ったまま手を振ると暦ちゃんも気がついた。
天音は自転車を駐輪所に置いてから、暦ちゃんの待つ入り口へ向かう。
「本当に、帰ってきていたんですね」
「説明したいけど、中に入ろう。熱中症になったら馬鹿みたいだし」
「……そうですね」
席に着き、取り敢えず二人ともアイスコーヒーを頼んだ。
普段はここの棚から漫画を持ってきているのだけれど、今日は必要ない。
「暦ちゃんからしたら、何から聞いたら良いのか難しいと思う。だから私から本題に入るね」
「はい」
「暦ちゃんて物理学に詳しかったりする?」
「……はい?」
同じ言葉でも、意味がまったく違った。どことなく馬鹿にしているのかという意味が伝わってくる。
「真面目に答えるなら、少しは。専門家ではありませんから高校生の範囲を逸脱した話だとわかりませんよ」
天音が真剣な眼差しを変えなかったから、暦ちゃんは一応答えてくれた。
しかし、それだとロックの話をしても理解はできないかも知れない。そもそも天音自身だってロックの話の全てを一字一句覚えているわけではなかったから。
「それじゃあ『異世界跳躍』ってわかる?」
「……文字から意味は連想できますけど……それが?」
「私、この八日間……異世界に行っていたの」
「……いつもの想像ですか? さすがに八日も家出してご両親を心配させてそう言う嘘をつくのは笑えませんよ」
「暦ちゃんは、私がそう言う嘘をつく人間だと思う?」
「そういう言い方ってずるいと思います」
「わかってる。それでも、暦ちゃんにだけは信じてもらえないと話が進められない。何より私はまた、異世界へ行くと思うから」
「……わかりました。信じます。でも、またってどういうことですか?」
「異世界に住んでいるあるロボットが教えてくれたの。私の『異世界跳躍』は私の能力だって。それで、その能力を制御してこの世界に帰ってこれた」
「それじゃ、異世界を自由に行き来できると言うことですか?」
「多分」
天音の妄想話にも付き合ってくれる暦ちゃんだから理解も早い。
「危険です! もし次は帰ってこれなかったらどうするんですか?」
それは、天音だって考えなかったわけじゃない。
そもそもがなぜ使えるようになったのかわからないのだ。いつ能力が失われるかだってわからない。
それでも……。
「私の能力で誰かの役に立つにはどう使うのが一番有効なのか。私は異世界で困っている人たちを見てきた。この能力を駆使すれば助けられるかも知れない。私はその可能性を自分で否定したくない」
「……ずるいです。その言葉、あの日私が天音ちゃんに言った言葉じゃないですか……」
皮肉や意趣返しのつもりはない。
『異世界跳躍』が天音の能力だと悟ったとき、あるいは……異世界へ行ったときから心の奥で考えていたのかも知れない。
ずっと、妄想してきたことが現実になった。
この能力は、退屈から解放してくれる。
そして、知ってしまった。
妄想や想像ではない。
異なる世界の人々を。
天音がその能力で異世界の人たちと関わったことは、無意味ではない。
いや、無意味なことにしたくない。
「暦ちゃん。私は行くよ。でも、約束する。必ず帰ってくるって。このことは暦ちゃんにだけは知っておいて欲しかった」
「……ご両親が心配したら、一応はフォローを考えておきます。でも、あまり長い間は誤魔化せませんよ」
さすがに暦ちゃんは天音が何を望んでいるのかわかっていた。
今度は自分の意志で行くつもりだけど、天音の体感時間とこっちの時間が違っていたから、実際にはいつ帰ってこれるかわからなかった。
「そういえば、こっちだと八日も過ぎてたけど……異世界には四日間しか行っていなかったのよ。どういうことかわかる?」
「……それって、多分……ウラシマ効果って聞いたことありませんか?」
「浦島太郎のこと?」
「物理学的には、相対性理論が予言する時間の遅れという現象なんですけど……要は時間の流れる方向は同じでも、世界によって流れる速度が違っているということじゃないでしょうか」
暦ちゃんは頭が良い。何となくだけど天音にも理解できるように話してくれる。
リンデート王国と惑星ムート。
どちらも同じだけ過ごしたからどっちの世界がどれだけ時間の進む速度が速いのかはわからないが、気をつけないとこっちに帰ってきたら暦ちゃんがおばあさんになってるってこともありうる。
「今日はありがとう」
「……本当に行くんですね。これからすぐにですか?」
「ううん、ちょっと準備しなきゃいけないことがあるから。でも、夜には発とうと思う」
「できたら、天音ちゃんの能力を見せてもらって良いですか?」
「……一緒には連れて行ってあげられないかも知れないよ」
「いえ、私は一緒に行くつもりはありません。ただ、お見送りしたいだけです」
「わかった。それなら、今日の夜八時に神社で」
「……今度は、勝手にいなくならないでくださいね」
神社はお祭りが行われた場所。あの日天音が『異世界跳躍』を使わなければ、一緒に行っていたはずの……。
喫茶店で別れた天音は、すぐに薬局に向かった。
本当は貯金も全部下ろしたかったけど、天音のキャッシュカードはまだ母が管理している。
それを勝手に持ち出すことは難しかった。
だから、なんとかお小遣いをかき集めて八千円用意した。
これで、買えるだけの風邪薬を買う。
今日も両親揃っての夕食。天音はその後、両親に今日は友達のところで泊まりがけで夏休みの宿題をやるからと言って家を抜け出した。
もちろん、暦ちゃんにはラインでその事を伝える。
そして、昼間と同じ格好で夜の神社に集合した。神社はお互いの家から歩いて十分くらい。待ち合わせてから行くよりも、神社を待ち合わせ場所にしてしまった方が都合がよかった。今日は別に、お祭りのために行くわけではなかったから。
「……一応、私の家にあった風邪薬も持ってきましたけど……」
「ありがとう」
八千円じゃそれほどたくさんは買えなかった。天音の家の薬箱からも風邪薬を全部持ってきて、暦ちゃんにも同じことをお願いした。
全員は助けられないかも知れない。それでも、これで一人でも多く助けられるなら。
「それじゃ、行くね」
「は、はい」
異世界を行くことにした天音よりも、見送りだけの暦ちゃんの方が緊張しているような声を上げた。
意識をリンデート王国の城下町に集中させる。
イメージをその場に送り込むような感覚。
やがて、全身を包む浮遊感と奇妙な感覚に襲われる。
「あ、天音ちゃん!?」
天音には自分の姿はわからない。暦ちゃんの声から何かが起こっているのだと伝わってくる。
「行ってきます」
次の瞬間、意識が途切れた。
――毎回、意識がなくなるのだけは勘弁して欲しいなと思った。
目を開けると、そこは神社だった。
「……え? あれ?」
何も変わっていない。いや、ある意味これが現実ならむしろ当たり前の光景だった。
ただ……目の前にいたはずの暦ちゃんの姿だけがいなくなっていた。
「暦ちゃん!」
呼びかけても声は返ってこない。
神社の後ろや境内を探してみたけど、人影一つなかった。
「……どういうこと?」
まさか『異世界跳躍』に失敗した?
それは真っ先に考えるべきことだった。何も起こらない天音に呆れて暦ちゃんが帰ってしまったとか。
あるいは、そんな能力はなかった?
でも、あの感覚は間違いなく『異世界跳躍』そのものだった。
だとしたらこれはどういうことなのか。
ここが元の世界なら、確認しなければならないことがある。
天音は元来た道を戻る。
歩いて十分の道程は、見覚えのある風景ばかりが続く。
ブロック塀に囲まれた一軒家。建売住宅の並ぶ区画。
そして、アパートが二軒続き、その先の角に……。
「私の家が、ない!?」
小さな交差点の角。そこに天音の家があるはずだった。
そこまでの道程は、間違えようがない。
建ち並ぶ家も表札だって知っているものばかり。
それなのに、天音の家だけが存在しなかった。
まさかと思い、今度は暦ちゃんの家――マンションへ行く。
途中、天音が初めて『異世界跳躍』を使ったあの交差点だってそのままだった。
坂を上ると、マンションはあった。
その事に一応ホッとして、暦ちゃんの部屋を探す。
三階の角部屋。三〇一号室が暦ちゃん――いや、月永さんの家だった。
「……嘘……」
三〇一号室の表札には太川(たがわ)と書かれていた。
インターホンを押して、確かめる気にもならない。
というより、違う人が住んでいるのだろうと確信さえあった。
それを事実として見たくなかった。
何を間違えたのだろう。
この世界は、一体どこなのか。
知っているはずなのに、まったく知らない。気持ちの悪さだけが、沸いてくる。
得体の知れない恐怖心が天音に襲いかかった。
暦ちゃんの心配していた通り『異世界跳躍』の能力はみだりに使って良いものではなかったのだろうか。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます