煙草はまだ早いと言うだろうけど(未完)
換気のために開けられた窓のせいでたっぷりの冷えた空気で満たされた廊下を、早足気味に通り抜けて教室に入った。入口近くで屯していた女子のグループと目が合って、一瞬だけ時間が止まる。やがて彼女たちから「おはよう」という挨拶が愛想の良い笑みと共に発せられた。ボクはその優しさと同じだけの朗らかさで挨拶を返して席に着いた。
チャイムが鳴るまでまだ十分はある。もう少し遅い時間に来ても良かったかな、とスカートの下に隠れた膝頭を擦り合わせながら温い息を吐いた。周りを見回せば、ブランケットを膝に掛けたり羽織ったり、スカートのように腰に巻いているクラスメイトが性別を問わず何人かいた。あのように使う気はないけど、彼らが身に着けているブランケットを、羨ましいと思う。
机に突っ伏して眠るのもだらしがない気がして、鞄から参考書を取り出して読んでいるように装って暇を潰していると、やがて朝の読書時間を告げるチャイムが響いた。同時に担任が教室に入って来て、呼応するように廊下や他の教室に散っていたクラスメイトたちも戻り、席に着いた。チャイム一つで、賑やかだった学校全体が静まり返っていく。洒落たブランケットの使い方をしていたクラスメイトもいつの間にか毛布を膝に掛けて、本を読み始めていた。ボクもまた、つまらない参考書の代わりに文庫本を一冊取り出し読み入った
親の役割を放棄した親に苦しむ子供の話。これで何冊目だろうか。ずっと、同じようなテーマの小説を読んでいる。どの物語も子供は親との関係に苦しんでいる点は共通しているけど結末はさまざまで、最後には自ら命を絶ってしまう話があれば、救世主のような人物が現れて救われ幸せになる話もある。確かに、ボクと主人公の境遇には似通っている部分もあるかもしれないけど、別に共感しているわけではなかった。ただ、自分の結末はどのようなものになるのだろう、と考えているだけ。
一日の中で最も静寂に包まれた十分間は、チャイムの音と共に終わりを告げた。途端に、まるで催眠術から解放されたように溜め息や近くの友人に話し掛ける声が聞こえ始める。
世間ではもう大人と同様に扱うべきだと頻りに言われているけど、それは大きな勘違いだ。実際には高校生はまだまだエネルギーに満ち溢れた子供だ。ただ、チャイムと大人の言うことを多少素直に聞くことが出来るだけの判断力が身に着いただけ。だというのに、大人たちは知った風な口を叩いてボクたちを縛り付ける。きっと、子供が自分の思い通りに動かないと気に食わないのだろう。
喧騒に機嫌を損ねたのか、担任が顔を顰めながら教卓の前に立って、「まだ休み時間じゃありませんよ」と厚いファイルで机を叩いた。
不機嫌な大人の声一つで教室は静けさを取り戻し、高校生の一日が始まった。
他の人にとっての学校での一日はきっとかけがえのないもので、毎日が楽しく新しいことばかりなのかもしれないけど、ボクにとっての一日はとても淡々としたものだ。授業ではクラスメイトから反感を買わない程度に教師からの問いに答え、休み時間や移動教室の際は一人で過ごす。友人と呼べるような人はいない。というより、もう作ろうと思わなくなってしまっていた。親の顔を伺わなければ作ることも出来ない関係など、誰が欲しがるのだろうか。ただ、仲睦まじい様子で廊下を歩くクラスメイトとすれ違う度に、眩しく思う。
午前中の授業が終わり、昼食を取る時になってもボクは一人だった。教室は机を合わせて食べる人が多くて、一人で食べるのは居心地が悪い。食堂だって人は多いけど、他にも一人で食べている人がいるから、なんとなく安心して食べられる。食堂の片隅で弁当——白ご飯の上に卵ふりかけ、肉団子やほうれん草の胡麻和えなど、スーパーで買ったものを自分で詰め込んだ——を箸で捉え、口に放る。教室は机を合わせて食べる人がほとんどで、一人で食べるのは居心地が悪い。食堂だって人は多いけど、他にも一人で食べている人がいるから、なんとなく安心して食べられる。
波のように流れてくる周囲の話し声に混じって、どう足掻いても意識に入り込んでしまう内容が聞こえてきた。ボクの座っている席からはだいぶ離れたところに座っている、女子の三人組。確か、同じクラスだったはず。
「捻橋さんって冷たいよね、友達と一緒のところなんか見たことないし……」
「硬いというか暗いというか、関わりにくいよね。優等生サマって感じ」
頼んでもいないのに、勝手に人のことを評価しないで欲しい。彼女たちは声を潜めているつもりなのだろうけど、一度耳に入ってしまえばどうしても聞こえてしまう。
別に、好きで他人を避けているわけではないのに。
白米を摘まんだ箸が口許で静止する。この場に留まっていることに耐え切れる気がしなかった。時間を確認するように壁掛け時計を一度見て、まだ中身の残っている弁当箱を鞄に押し込んだ。息を一つ吐いて、素知らぬ顔で彼女たちの横を通り過ぎて食堂を去った。すれ違う瞬間に感じる、背後からの視線が気持ち悪かった。
トイレの個室で弁当の残りを捨てながら、健やかに生きるのは難しいな、などといったことを思う。なるべく他人に目を付けられないように立ち回っていたつもりだったけど、友人がいない——というより、作ることが出来ない問題だけはどうしようもない。つくづく"アイツ"が恨めしい。
白米や肉団子が水溜まりに落ちて、灰色に変わっていく。
結局、午後の授業は上手く集中出来ないまま放課後を迎えた。学校が終われば、次は塾がボクを待つ。
校舎を出る頃には空が青白んでいて、雲の裏から陽光が覗いて薄水色と茜色のグラデーションを作っていた。校門の前で立ち止まっていると、まるで急かすように風に背中を押され、誰もいないはずの背後を軽く睨んで塾へと向かう。
駅前から出ている送迎バスの中で、スマホにイヤホンを繋げて音楽を聴いている。塾に着くまでの僅かな間ではあるけど、悩みや周囲のことを忘れられる貴重な時間。ポップなミュージックなどではなく、集中力や暗記力が上がるからとアイツに昔から聴かされているクラシック、『新世界より』。気に入っているわけではないけど、シャッフル再生にも関わらず最初に流れてくることが多くて曲調も特徴的だから印象に残っているだけの曲だ。流行りの曲なんて、碌に聴いてこなかった。
夜風が頬を掠めて、刃物に切られたように痛んだ。両手で口許を覆って温い息を吐くと痛みは引いていったけど、癒えたところからまた風が沁みていく。遅くまで居残ったことを、意味もなく後悔した。塾の温い部屋が恋しい。弱音や文句を口の中で転がしながら、駅までの送迎バスに乗った。
駅からは歩いて帰る必要があった。タクシーを呼べるほど財布の中は豊かではないし、車で迎えに来てくれるような人もいない。耳にイヤホンを入れて歩き始めた。音楽を聴いていれば、肌寒さも少しは紛れる。
塾に遅くまで残っていたのは勉強のためでもあったけど、ただ、家に帰ったらアイツの不機嫌そうな顔を見ることになるかもしてないと思うと、帰るのが億劫になってしまったからだった。
白い息を一つ吐いて、スマホの通知欄を覗く。届いていたメッセージは一つだけ。
『あんたまだ出掛けてるの? 本当に塾に行ってる? とにかく、寄り道せずに早く帰ってきなさい。』
乱暴に打ち込まれたであろう文章からは苛立ちが滲み出ている。何ということはない、アイツが早く帰って来て、ボクの帰りを催促する時の言葉遣いだ。
『ごめんなさい。気になる部分があったので、塾に居残って勉強をしていました。もうすぐ帰ります。』
文句を言われた際の定型文をかじかんだ手で送信して、スマホを鞄に押し込んだ。
薄いカーディガンでは冬の寒風を防ぐことも碌に出来ない。スカートは膝下までしか守ってくれないうえに、下からの冷気で脚は冷える。制服とは不便なものだと思う。他の女子たちはどうやって寒さを凌いでいるのだろう。聞いてみようかとも考えたけど、彼女らの不気味がる表情を想像して断念した。
アイツからの催促も来たことだし、なるべく急ごうと思った視界の端に、路地裏に続く道が伸びているのが見えた。明かりの少ない薄暗い道に不安は覚えたけど、暗い道を歩くことよりも、これ以上帰りが遅くなってアイツに小言を言われる方がよっぽど堪える。凍える体に鞭打って、路地裏に足を踏み入れた。
一歩足を踏み込んだ瞬間に、肌に触れる空気に背筋が震えた。人の営みの残滓が感じられる表道とはまるで違う、本能的に嫌悪感を覚えるような臭いが鼻腔を刺激してくる。脳に届いた信号が、これ以上進むべきではないと警告を発している。根拠のない危機感に足を止めると、蹴られた小石が転がって影の中へと消えた。小石の転がる音に混じって、靴底が地面を踏み締める音が聞こえてくる。
この薄暗闇の中に、人がいる。それも複数。途端に顔から血の気が引いて、明かりの下へと逃げようと足が動いた。しかしその動きは子供の人形劇のようにぎこちなく、三歩踏み出した辺りで足が絡んで躓いてしまった。ボクが間抜けなことをしている間にも足音は近付いて、とうとう息遣いまでが聞こえてきた。何者かどうかも分からなかった気配は近付くにつれて明瞭になって、振り返らずともシルエットが浮かび上がってきた。大人の、男だ。
「よう、お嬢ちゃん」
低い声が震えて、自分に向けられる。まるで人を見て品定めでもしているような粘つく声。彼らが何処を見ているのか、まるで肌に直接触れられているように実感出来る。不快感は恐怖となって、背筋を冷たい汗が這う。
「待てって、親切心で声掛けてんだぜこっちは」
男に構わず表道を目指そうとしたボクの肩に、大きな手が触れる。獲物を捕らえた獣のように指を食い込ませて、逃げても無駄だと本能に訴えている。片手で強引に振り向かされ、男と向き合う。男はボクの爪先から顔までを遠慮なく見ながら口許を歪めていた。
あまりに下品な表情に、唇を噛む。
「うん、合格! 俺らと今から……」
風船が割れるような音が男の言葉を遮った。
衝動的だった。この男の話をこれ以上聞いていられない、と思った時には体が動いてしまっていた。男の左頬は赤く染まり、何が起こったのか分からない、とでも言いたげな表情で固まっている。食われるだけの獲物から反撃を受けるなんて、思ってもいなかったのだろう。
叩いた手の方が余程腫れている。手に残った感触にまるで爽快感はなく、ただただ不快だった。アイツにぶたれた時の記憶が一瞬過ぎったが、首を振ってかき消した。
「……ってぇな」
怯んでいた男が低く唸る。アイツがヒステリーを起こした時の甲高い声とは真逆、だが、肌を刺すような怒りが伝わってくる点は同じだ。降り上げられた拳を見て、これから起こることを予感すると同時に、世界が白く光った。
平衡感覚を失った体が地面に倒れ、冷たいアスファルトが頬に触れる。立ち上がろうとしても、地面に張り付いたように体が動かない。理不尽な暴力に打ち負かされて、体が、本能が怯えている。心だってそうだ。
逃げたい。逃げ出したい。
言葉は声にならず、嗚咽だけが漏れる。
サイレンのような頭痛の向こうで、男とその取り巻きが後ろでゲラゲラと笑っている。喉が締まり、彼らを拒む声も助けを求める声も堰き止められてしまう。
荒れた硬い手が小腿に触れる。握り潰す気なのではないかと錯覚してしまうほどに力強く、思わずか細い声が漏れる。蚊の鳴くような声も彼らにとっては湿り気を帯びた嬌声に聞こえるのか、興奮した荒い息が耳に触れた。酒臭い空気が頬を伝って、鼻に届く。気持ちが悪い。興奮する暴漢たちも、何の抵抗も出来ずにアスファルトを見詰めているだけの自分自身も。
岩のような手は足を這うように撫で、スカートの中に触れた。体は強張るけど、男は意に介さず乱暴に尻を握った。痛みと羞恥に歯を食いしばる。後はただ凌辱されていくだけだった。
男たちの欲望に満ちた笑いと息だけが聞こえる中で、ふと、足音が耳に入る。まるでステップでも刻んでいるかのような軽快な響き。きっと、恐怖を紛らわせるために心が生み出した幻だ。
楽し気な足取りはやがて止まり、幻も消えたかと思ったのも束の間、突然、暴漢の一人が獣のような呻き声をあげた。悲鳴のような呻きが一つあがる度に体に触れていた手が離れていく。何が起きているのだろう、という疑問が怯えて硬直していた体の芯を溶かし、ボクは後ろを振り返った。
夢か幻でも見ているようだった。
少女が男にナイフを突き立て、蹴り倒している。周囲にはつい先ほどまでボクを凌辱しようとしていたはずの男が小石のように転がっていた。蹲る体からは血がとめどなく流れ出ていて、水溜まりが出来そうだった。他の男たちは、突如現れ自分たちを蹂躙した少女に怯えていた。少女は男たちよりも遥かに小柄で、にも関わらず一方的に打ち倒されているのだから。危機から救われているはずのボクでさえ、これが現実に起きていることだとは思えなかった。
燃え尽きた灰のような髪は腰まで伸びていて、身軽に動く度にマントのように翻る。笑みを浮かべながらナイフを振るう様は狂気的な一方で、空想の存在のような美しさがあった。
強がるように吠えながら立ち向かっていく男たちには目もくれず、少女はボクに向かって声には出さずに「大丈夫」と唇を動かした。そのたった一言で、体中を走っていた恐怖や怯えが溶けてなくなるような、優しい声。
そこからは、ただ惨劇を見ているだけだった。アルコールの回った男たちは、すばしっこく動き回る少女にひたすら翻弄され続け、為すすべもなく倒されていった。瞬く間に辺りは静まり返り、余韻を味わうように少女はその場に立ち尽くしていた。男から奪った煙草を吸いながら首を回し、思い出したように背後のボクを見遣った。紫煙が風に運ばれ、血の臭いと混ざって噎せてしまいそうになる。
「ダメだよ、こんな場所に来ちゃ」
芝居じみているようにも聞こえる、幼く悪戯っぽい声。甘ったるいデザートが言葉を話せるのなら、きっとこんな声で喋るのだろう。少女の性質を表しているようにも感じたけど、暴漢を圧倒した勇ましい姿を思い返し、心の中で首を横に振った。そもそも、別に少女はボクを助けに来た訳ではないだろう。救世主というより、偶然通り掛かっただけの殺人鬼だと判断するのが正しい。そう考えるべきなのに、微笑みながら歩み寄る少女を、まるで女神でも見るような目で仰いでしまっていた。
未だ座り込んで返事もしないボクに、少女が手を伸ばす。頬に指を触れさせ、「大丈夫? 」と気遣うように声を掛けてくれる。返事をしたくても、声が出ないのだった。衝撃的な出来事が立て続けに起きてしまったから、怯えているんだ。
困ったように眉尻を下げた少女は、不意にハンカチを取り出した。柔らかなコットン生地は彼女の髪と同じ灰色で柄の無いシンプルなデザイン。
「これ、あげる。汚い臭いなんか忘れて、キミが元の世界に戻れるようにするお守り」
まるで酸素マスクでも装着させるような仕草で、ハンカチを鼻に押し当てられた。決して甘過ぎない、気持ちの良い石鹸の香りが肺に落ちる。口から息を吐けば先程まで肺に満ちていた血の臭いが追い出されていく。そうしてしばらくの間、寝付きの悪い子供をあやすように背中を擦られていた。この得体の知れない少女に慰められるのは不思議な感覚ではあったけど、決して悪い気分ではなかった。呼吸のタイミングに合わせて彼女も息を吐いてくれる様はまるで母親にあやされているようで……。
すっかり気分の落ち着いた頃に、少女もそれを察して立ち上がった。押し当てていたハンカチを取り上げると、ボクの手を取って握らせた。
「さようなら。もう迷い込んじゃダメだよ」
最後に一度だけ微笑んで、少女は煙草を燻らせながら去って行く。暗がりの奥に消えていく背中を、ただ黙って見詰めていることしかボクには出来なかった。
茫然としていた意識に濃厚な悪臭が割り込んで、血塗れの男たちに囲まれていることを思い出させる。自分を犯そうとした下衆のために警察を呼ぶのは御免だとは思ったけど、このまま見て見ぬ振りをして逃げ出せるほど薄情にもなれなかった。
「通り魔、だと思います。あの人たち……被害者と同じくらいの背丈でした。……顔はよく見えませんでした。でも、二十代くらいの男のように感じました」
駆け付けた警官に対しては、ほとんど真実を語らなかった。ボクは暴漢に襲われ、偶然通り掛かった通り魔が男たちを刺して逃げて行った。ボクだけが怪我をしていないことを多少不審には感じただろうけど、これ以上の聞き取りは精神状態に障ると考えたのか、特に追及されることもなく解放された。
念の為にと、家までパトカーで送ってもらうことを提案され、すっかり草臥れていたので快く了承した。乗り込む前に、すぐ近くに停まっている救急車に目を遣ると、意識を取り戻した男――ボクを殴った男だ――が大声で喚いていた。声からは錯乱した様子が窺えて、頻りに自分は襲われたんだ、と叫んでいる。警察が男たちよりボクの証言を信じてくれることを祈りながら、パトカーに乗り込んだ。
ボクを気遣ってか、車内で話し掛けられるようなことはなかった。窓から入り込む月明かりが僅かに膝元を照らすのを凝っと見詰めていると、男たちに触れられた時の不快な感触が吐き気と共に甦ってくる。喉元までせり上がってきた吐き気に耐えながら、少女に渡されたハンカチを取り出して口許に押し当てた。彼女のくれたお守りは見事に役割を果たし、優しい香りで記憶を上書きした。目蓋を閉じて思い出すのは、あの時優しく微笑み掛けてくれた名も知らない少女の顔だ。
月明かりの届く窓際にハンカチを寄せて見詰めていると、刺繍が施されていることに気が付いた。少女に渡された時には見えなかったものだ。
"Kilico"
キリコ、と読むのだろうか。きりこ、キリコ……。丁寧に縫われた刺繍を見詰めながら、心の中で繰り返し唱える。それが、ボクを救ってくれた少女の名だという不思議な確信があった。
警官に真実を語る気にならなかった理由が、ようやく言葉になった。きっと、あの男たちよりも、キリコの方がよっぽど尊い存在に思ったからだ。
家に着いて玄関扉を開けると、家中に響くような大きな音を立てて誰かが階段を降りてくる。こんなにわざとらしい形で不機嫌であることを示す人間なんて、アイツしか……母さんしかいない。
「こんな時間に帰って来て、一体何してたのよあんた、は……」
ボクに浴びせられるはずだった怒声は半ばで止まることになった。背後に立つ警官に気付いたからだ。ボクが口を開くよりも早く警官が警察手帳を見せて、事情を説明した。相手が警官だと分かった途端に先程までの不機嫌な様子は消え失せ、何処にでもいるような、我が子を大事に想う母親の顔を見せた。
母さんと警官が話している間に、ボクは自室へと戻らせてもらった。扉を開けると、制服のままベッドに倒れ込む。そのまま眠りに落ちてしまおうと思ったのも束の間、二階に上がってきた母さんが扉の前で「明日、学校休まないわよね? 」と言った。
一瞬、耳を疑った。あんな体験をして、たった一日でも心を落ち着かせることすら叶わないのか。しかし、母さんならそう言うだろうな、とすんなり納得も出来てしまった。
「……いつも通り、登校します。これからは帰り道には気を付けます。ごめんなさい、母さん」
ボクの返事に満足したように鼻を鳴らして、母さんは自分の寝室に戻って行った。多少は同情してくれたのか、珍しく叱られることはなかった。
母さんが去ってようやく、緊張の糸が切れた。息を一度だけ深く吐くと、それだけで意識は微睡みに沈んだ。
まるで蝋で固められたように重い体を起こして、さざ波の音で目覚めさせてくれたアラームを止める。カーテンを開いた途端に目に入ったのは気分の晴れるような朝の光……ではなく、空一帯に低く垂れ込める灰色の雲だった。外から取り込まれる光も暗く、心まで同じ色に染まってしまいそうだ。
母さんを起こさないように静かに階段を降りて、昨日から着ていた制服を脱いでシャワーを浴びた。朝食は冷蔵庫にあった納豆を食べ、雨の予報を伝えるテレビを聞き流しながら入念に歯を磨く。自室の鏡の前に立って、髪型を整える。整えると言っても、肩まで伸びた黒髪を一つ結びにするだけの作業だ。
鏡に映るボクは、不機嫌そうなしかめっ面をしている。悪天候だとか気圧だとかのせいではない。母さんからは無愛想だから直しなさい、といったようなことを言われるけど、どう直せと言うのか。母さんのように他人に媚びるような笑顔を作れば良いのか。溜め息が落ちる。
スカートのポケットに手を入れて、少女キリコから貰ったハンカチが入っていることを確かめる。柔らかな感触が、苛立ちを僅かに薄れさせた。
昨晩の出来事など無かったように、日常が戻った。学校に行き、挨拶をしてくれるクラスメイトに最低限の礼儀で返し、授業では教師からの質問には程々に答える。昼食を一人で取る。友人はいない。母さんの眼鏡に叶うような人以外と友人になってはいけないから。そんな関係を欲しいとは思わない。だから、一人で良いんだ。
元通りに戻った日常の中でも、頭の片隅ではあの少女、キリコのことを考えていた。不意に甦る昨晩の記憶に苛まれる度に、灰色のハンカチから香る石鹸の匂いがボクを元の世界に帰してくれた。彼女は何者で、どうして見ず知らずのボクを助けてくれたのか、気になることは山ほどあるけど、何よりあの時言えなかったお礼を言いたかった。それに、助けられただけで、お礼も言えずに二度と会うこともないというのは気分が良くない。
曇り空は一層濃く、重く沈んでいく。雫が一粒、窓を叩いたのを合図に雨が降り始めた。紙を破くような雨音は、ボクを急かしているようだった。
今は鮮明に思い出せるキリコの姿も、いつかは暗い灰色をした雲のように靄が掛かってしまう。
あの甘ったるい声も、降りしきる雨音のようにノイズに塗れて忘れてしまう。
そう、訴えられているような気がする。
彼女を、キリコを探しに行こう。忘れてしまう前に。
意気込んだは良いものの、ボクは正門を出た所から動けずにいた。
何しろ、手掛かりと呼べる物が刺繍の入ったハンカチしかないのだから。他に情報は無いかハンカチを広げてみたけど、"Kilico"と縫われている以外には何の特徴すら無い。
頼れる物といえば、もう記憶くらいだ。目蓋を閉じて、ハンカチを鼻に押し当てて記憶を辿る。思い出すのはあの夜の不快な出来事ではなく、ボクを救ってくれた少女の姿だけ。
燃え尽きた灰のような長髪。小柄な体。甘ったるいデザートのような声……。
『ダメだよ、こんな場所に来ちゃ』
『これ、あげる。汚い臭いなんか忘れて、キミが元の世界に戻れるようにするお守り』
『さようなら。もう迷い込んじゃダメだよ』
彼女に掛けられた言葉は僅かだけど、どれも強く記憶に刻まれている。
キリコは、きっと”汚い臭い”のする世界にいる。ボクの知らない世界に。
そんな世界の噂を、少しだけ聞いたことがあった。市の中心街から少し外れた所にある歓楽街。そこにはキャバクラやホストクラブのような大人のための店が並んでいるけど、不良や家出した中高生の集まる犯罪の温床になっているという。学生は決して近付いてはいけない場所。
危険な場所ではあるけど、キリコがいるとしたら、きっとその歓楽街だ。
目的地が決まれば、体は軽やかに動き始めた。躊躇いは無いけど、恐怖はある。もうあんな酷い目に遭うのは御免だ。
だから、暗くなる前に帰ろう、と小学生のようなことを考えた。
視界に広がる色の多さで、一目で噂の歓楽街だと理解出来た。まだ明かりが点いていないのに、眩しさを覚えてしまうほどに鮮やかな色をした看板が並んでいる。雨が降っているからか人気はまだ少ないけど、街の活気というものを感じられる。
ただ、通りを歩く人の顔が違う。煙を吐きながら路地裏で話をしている少年たち、大人の男と腕を組んで歩く少女。大人もいるけど、ボクとそう年の変わらない子供が目立つ。
彼らからは、あの夜の男たちと同じ臭いがする。アルコールや煙草、そして生々しい性の臭い。”汚い臭い”だ。
ここにキリコがいる。そう確信して、歓楽街に一歩踏み込んだ。
慣れない通りを歩きながらキリコの姿を探す。こうして歩いていると、視界に入る人間全てが怪しげに見えてしまう。明るい看板とは裏腹に街全体を負の空気が薄い膜のように覆っているような感覚。
傘を傾けて空を見上げてみれば、雲がさらに暗く、長い間放置された埃のように沈んでいた。肩が震えて、日没が近いことを肌で感じる。
キリコの影がようやく見えてきたところだったけど、歓楽街が活気付く時間になれば探すのは困難になるし、危険も増える。仕方なくまた別の日に出直そうとした途端、ぐらり、と体勢が崩れた。濡れたアスファルトに膝が触れて僅かに痛む。体が強張って躓いたのだろうか。つくづく、上手くいかない。
膝を手で払って歩き出した背中に、「あの……」と声が浴びせられた。人違いだろうと思いつつ振り返ると、スーツ姿の男が財布を差し出した。カーディガンのポケットに入っていたボクの財布だ。
「あの、落としましたよ。ごめんなさい、ぼけっとしてたらぶつかっちゃったみたいで」
予想外に親切な声と、財布を拾われたことに驚いて返事が遅れた自分を恥じた。危うい雰囲気の漂う街にいるからといって、必ずしも悪人だとは限らないのに。それに、躓いたのは余所見をしていたボクが原因なのは明白だった。
「いえ、こちらこそ。ぶつかったのに何も言わず、申し訳ないです。財布も、ありがとうございます」
一瞬にして湧いた後悔を一旦後回しにして、財布を受け取り礼をした。スーツの男は軽く会釈をして歩いていく。ボクもまた歩き始めると、すぐに背後から野太い悲鳴があがった。驚きと共に、期待とも呼べる予感が僅かに脳裏をよぎった。
振り返ったボクの目に映ったのは、雨に濡れた野良犬のような少女だった。雨の中、傘も差さないで男を押し倒してひたすらに顔を殴り付ける姿は異様ではあったけど、なにより痛々しい。それは殴られている男ではなく、拳を振るっている少女に対して抱いた感情だ。どうして、こんなことを思うのだろう。
小柄な体に、腰まで乱雑に伸びた灰色の髪。聞いただけで胃もたれを起こしてしまいそうな、甘ったるいデザートのような声。目の前の少女を視界に捉えて、記憶と重ねる。
「……キリコ」
迷いなく確信して、何度も心の中で唱えた名前を口にした。
「はいはい、なんでしょ」
呼び掛けに応じた少女は拳を止め、立ち上がって微笑んで見せた。
「えっと、その……」
いざ対面して、言葉が詰まる。ここに来た目的は目の前の少女を探すためで、その少女――キリコを探そうと思ったのは、
「ハンカチ、返そうと思ったんだ。ずっと持っているのも悪いから」
なんとか言葉を絞り出すと、キリコは何故か首を傾げた。まるで難問にでも直面しているかのように目を細めて唸っている様は奇妙だ。
これじゃ、ボクが変なことを言ってしまったみたいじゃないか。
悩ましげに唸るキリコからの返事を待ちながら、傍らに倒れる男を恐る恐る覗いた。痣の出来た顔は見覚えのある顔で……。
「待ってくれ、その人は」
「財布を拾ってくれた、親切な人?」
慌てて駆け寄ろうとしたボクに、キリコは笑みを浮かべたまま何かを差し出した。
「捻橋詩希さん、キミの学生証でしょ」
首を傾げたボクに、当たり前のことのように言ってみせる。心なしか、キリコの表情は不満げに見えた
「こんな街に一人で来て、財布を上着のポケットなんかに入れちゃう危なっかしいお間抜けさんを見つけたから、わざとぶつかりに行ったんろうね。学生証を抜き取ったのは財布を拾った時。お金を取らなかったのは、たぶんね……」
一瞬だけ言い淀んだ後に、愛嬌たっぷりに目を細めてボクを見た。
「キミが可愛かったからだよ。捻橋詩希さん」
は―――。
明らかに動揺させるために発せられた言葉に、息を呑んだ。間抜けに口を開いたボクを見て、キリコが満足げにくすり、と笑う。弄ばれているような気分だ。
「ま、実際のところは無防備で騙されやすそうな女の子がいたから後で利用してやろうと考えたんだろうね。学生証には名前も住所も載ってるし。ほら、顔写真も」
写真映りは悪いんだねぇ、などと好き勝手言いながら学生証を見せつける。それを取り返そうと手を伸ばすと、キリコは抵抗することなく渡してしまった。呆気なさに困惑しながら、忘れないように礼を言った。
「……ありがとう、取り返してくれて。忠告も。」
言いながら、もっと上手く伝えられたら良いのに、と思う。キリコに揶揄われて調子が狂ったとはいえ。やはり、他人に礼を言うのは慣れない。
溜め息を一つ吐くと。学生証の礼を伝えて、ようやく流れが出来たことに気付いた。スカートのポケットに入った布に触り、そこにあることを確かめる。あの夜に彼女から渡された、元の世界に戻れるようにするお守り。お守りのハンカチを返そうとして、ふと、周囲の喧騒が耳に入った。同時にすぐ傍で倒れている男を見て、状況を理解した。
このままでは、キリコは警察に逮捕されてしまうんじゃないか。
暴漢を蹂躙した時は夜遅くで、人通りの少ない場所だったけど、今は夕方の歓楽街で、目撃者もいる。そもそも、キリコと一緒にいれば、ボクも警察と同行しなければいけなくなるかもしれない。そうなれば、母さんにも連絡が行くだろう。自分の娘が歓楽街にいた、と。
急いで立ち去るべきだと考えたところで、目の前にいる少女のことが気に掛かった。全身を雨で濡らしながら、周囲の騒ぎ声など意に介さずボクを見詰めている。何か思惑があるわけではなく、ただ見たいからそうしているのだろう。そういう性質なのだ、きっと。
「……キリコ」
「なぁに」
首を傾げて様子を窺う仕草は気品のある猫のように見える。野良犬になったり上品な猫になったり、忙しい。
一刻も早くここから去らなければいけないことも、彼女と一緒にいてはいけないことも理解していた。
キリコを置いて逃げてしまったら、一生後悔することになる。それだけは確信出来る。
しかし、キリコをここから連れ出す理由だとか言い訳だとか、そういったものがまるで思いつかないのが問題だった。ただ黙って連れて行くのは怪しいし、それでは彼女がついてきてくれるかも分からない。
キリコはボクから発せられる言葉をただ待っていた。その雨に濡れた姿と自分の手元を見て、慌てて傍に寄った。既にびしょ濡れの彼女を今更傘に入れても手遅れかもしれないけど、何もしないよりは良い。
「どうして傘を差さないんだ」
「傘は持ち歩かない主義なの」
あは、とキリコは悪戯に笑う。理由なんてないことは分かっている。ただ、彼女の自暴自棄にも思える行動の数々に腹が立ってきただけ。雨に濡れても平然としていることも、殴りかかってまでボクの学生証を取り返したことも、あの夜、ボクを暴漢から救ってくれたことも。警察に逮捕されたとしても、きっと彼女は気にしないんじゃないかとさえ思う。
一体何がキリコをそうさせるのか、聞きたいと思った。
「だったら、せめてシャワーくらい浴びて行ってくれよ。そんなにびしょ濡れじゃ見ていられない」
ぶっきらぼうながらに、稚拙な誘い文句を吐き出した。途端にキリコはボクの手を取って走り出した。
「どうしたんだい、急に」
「シャワー、浴びさせてくれるんでしょ! それならまずは逃げなきゃ」
逃げ走る中でも、キリコは絶えず笑っていた。何度聞いてもはぐらかされるだけだったけど、一度だけ「シャワーの後でね」と言ったことを覚えている。
駅までは近道があると言うからキリコに従って、それからは電車に最寄り駅まで揺られた。
キリコにシャワーを浴びることが出来る場所を探そうと思った時、唯一思い浮かんだのが、ボクの家だった。彼女のような見るからに不良少女な人間を家に連れ込もうとすれば、当然母さんの怒号が飛ぶのは分かっている。しかし、今夜は母さんがいないことをボクは知っていた。
びしょ濡れのキリコと電車に揺られる中で、スマホの通知が一つ来ているのを確認した。
『朝まで帰らないので、晩御飯は自分で作るように。』
文面から不機嫌な表情が容易に想像出来てしまい、思わず鼻を鳴らす。
キリコは静かに立っていたけど、さっきからボクをじぃっと見ては口角を上げて微笑んでいる。顔におかしなものでも付いているのか。
「今夜は誰もいないから、ボクの家で良いよ。せっかくだから服も洗濯してしまえばいい」
わざわざ鼻を近付けなくても伝わってくる。雨に濡れたパーカーは雑巾のような臭いを放っていて、スポンジのように水分を含んでいる。体臭の方はさらに酷い、汗と雨の臭いが混ざっているのか噎せてしまいそうな重い臭いがする。
この悪臭がそのまま、キリコという少女の日常を表しているように感じた。
キリコは上機嫌に「はーい」とだけ言って、またボクを見詰める遊びに戻った。
車窓から外を覗くと雨粒の描く線は見えなくなっていて、帰り道に傘を差す必要はないな、と安堵した。二人で同じ傘に入るのは、気まずいから。
「ねぇねぇ、捻橋詩希さん」
電車を降りて家まで歩く道中、キリコに話し掛けられた。これまで自分から話し掛けることはなかったのに、妙だと思ったけど、それよりも妙なことが気に掛かった。
「その変な呼び方、やめてくれないか」
「えー。じゃあなんて呼ぼうかな。シキさん? お間抜けさん? それとも優等生さま?」
キリコが次々に新しい、失礼な呼び方の候補を並べていく。相変わらず、人を揶揄うように。暴力で他人を捻じ伏せたと思ったら、今度は言葉で他人を揶揄う無邪気な側面を見せる。不思議な人。
「お前に人を苗字で呼ぶという文化はないのかい」
「やだよ、そんな他人ぎょーぎ」
菓子を買ってもらえなかった子供のように唇を尖らせる。やはり、よくわからない。
「なら詩希でいい」
「じゃあシキちゃんって呼ぼー」
ちゃんは無いだろう、という言葉を吞み込んで、代わりに溜め息を吐いた。キリコに飽きれたから、というより、慣れないことをしてばかりで疲れたからだ。
この二日間、非日常を浴び過ぎた。体は何より、心が草臥れているのを感じる。
だというのに、横を歩く少女は。
「シキちゃんって、ヘンテコな人だよねぇ」
「何が」
「あたしみたいな危ない人を、自分の家に入れてシャワーを浴びせようって言うんだもん」
気を遣う素振りもなく、そんなことを聞いてくる。爪をこちらに向けて恐竜の真似事をしている様は子供っぽく、とても危険な人だとは思えない。暴漢をナイフで蹂躙し、他人の学生証を取り返すために男に殴り掛かった少女とはまるで別人だ。先程まで男を殴りつけていた拳も綺麗で、傷一つ見当たらない。
「あのまま放って一人で逃げる方がよっぽど気分が悪いだろ。それに、最低限の恩は返さないと」
「それも、そうしないと気分が良くないから?」
そうやって、キリコは突き放すような言い方をしてみせる。心を見透かしているように。
別に、自分の機嫌を取るために人助けをしているつもりはない。そもそも、人助けだとも思っていない。キリコを置いて逃げるのが、何となく嫌だっただけ。その”なんとなく”の正体を、上手く言語化出来ずにいる。腹の底から泡のように上がってきた苛立ちを、静かに唇を噛んで潰す。
動機と呼べるものと言えば、スカートのポケットに入っているハンカチくらいだ。元はと言えば、このハンカチをキリコに返すために歓楽街まで赴いたのだった。
「まぁいいや、おかげでシャワーも洗濯も出来るわけだし」
シキちゃん様様だー、とご機嫌にスキップをして前を歩く。そうして信号まで一人で進んだと思えば、振り返って困った顔をした。
「シキちゃん! どっちに曲がるのー?」
一呼吸する度に顔を変える少女のことを、やっぱりよく分からない、と思う。
キリコの背後で点滅する赤信号が眩しくて、目を細めた。
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