彼女が眠りに落ちる頃、ボクは目覚める

 ぱ、と勢いよく目蓋が開いて目が覚める。胸に手を当てなくとも伝わってくるほどに動悸が激しく、あぁ、きっと悪夢を見たのだなと納得して溜め息を吐いた。肝心の悪夢の内容はさっぱり思い出せないのだから質が悪い。

 カーテンの隙間から漏れる光が部屋を照らして、白い天井が青白くする。寝直すには空が明る過ぎる。しかし起き上がるのも億劫で、どうしたものかと天井に差し込む光芒を数えていると、不意にコイルの軋む音がした。安物のマットレスが僅かに傾く。

 緩く首を回すと、当たり前のように左隣でキリコが寝息を立てていた。彼女がそこにいるのがあまりにも自然で、今まで意識の外だった。

「さぶ……」

 呻き声とともに横から手が伸びてきて、ボクの寝間着を掴んで引き込もうとしてくる。布団か何かだと勘違いしているんだ。

「布団はこっちだよ、キリコ」

 器用にボタンの隙間に指を引っ掛てくるキリコの手を掴んで制し、求めている温い布団を掛けてやる。布団に包まると彼女は背を丸めて微睡みの中に戻っていった。

 雀の鳴き声が窓を叩き始めたけれど、彼女が起きる気配はない。これでも今日は普段よりも帰りが早い方だろう。

 キリコは夜に生きている。ネオンの輝く眩しい夜の街に生きていて、その明かりが消える頃に帰ってくる。灰色に染められた艶のない髪は彼女の汚れを表している、と出会った頃から思っていた。

 右手を伸ばして髪を梳いてやると、吸い寄せられるように頭を擦り付けてくる。ごわついた髪を撫でていると、まるで犬に触れているような感覚を覚える。ケアを怠ったせいで毛並みの悪くなった犬。

 ようやく帰る家が出来たというのに、キリコはまだ野良犬のように振る舞っていて、それを少しだけ寂しく思う。

「シキちゃ」

 ぐい、と手首を掴んで引き寄せられる。強引に寝返りを打つ形になってしまって、ボクの右手は布団の中で頬に押し付けられていた。そのまま指で頬をなぞり口許に近付けると、静かな寝息が指腹に触れて、キリコがまだ眠ったままだということを伝えてくれる。寝惚けているのか夢でも見ているのか、寝言でボクを呼んだだけのようだった。

 唇の隅から垂れつつあった涎を指先で拭いてやると、キリコは擽ったそうに笑みを溢した。

 眠っている時のキリコは普段見せる姿よりもずっと幼くて、どんなに汚れているように見えたとしても、彼女もボクと同じ子供なのだと感じさせられる。

「シキちゃ」

「なんだい、キリコ」

 会話が成立するはずもないけれど、返事をしてみせた。子供をあやすように、母親の真似事をするような声で。

 手の密着している頬がもにょもにょと動く。深く沈んだ意識の中で言葉を発しようともがいているのだろうか。何か読み取れないかと指先を唇に触れさせてみる。

 漏れる息に耳を澄ませて、唇の動きを感覚で捉える。定まらない動きは次第に一定になって、同じ動きを繰り返すようになった。

 う、い。う、い。唇を軽く尖らせて、脱力するように綻ばせる。連なって漏れる息とともに吐き出される声は、

「す、き」

 と、繰り返し唱えていた。

「あぁ、」

 喉元が締め付けられるような感覚とともに、思わず声が漏れた。胸から溢れる感情に導かれるように体が動いて、気が付けば彼女を抱き締め胸元に押し付けていた。

 どうか、このままキリコが目を覚ましてしまわないように、などということを考えてしまう。深い夢の中で多幸感に包まれていて欲しい。

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