雨は降る夜(未完)

 微睡みから帰ってくると、まず、口から入ってきた重く湿った空気に眉を顰めた。それからゆっくりと瞼を開き、首を横に傾けると、今にものしかかってきそうな低く厚い雲が窓から覗いていた。鼠色の空だ。その鼠色の空から大きな雫が飛んできて、助けを求めるように窓ガラスを強く叩いている。

 ベッドの横に置かれた目覚まし時計には午後十時と表示されていて、彼是二時間眠っていたのだと気付く。今日は塾が無く、”あいつ”も外に出掛けているから気が緩んでしまっていた。

 ベッドから起き上がり、開けっ放しになっていたカーテンを閉めようとして、窓の向こうに一人の少女を捉えた。

 誰もが外出することを躊躇うような雨の中で、少女は雨具を何一つ身に着けていなかった。それでいて焦る様子も無く、申し訳程度にフードを被って踊るように歩みを進めていた。時折メリーゴーラウンドのようにくるくると回る際に見える顔は良く整っていて、未だ幼さを残している。

 少女はやがて踊りを止め、ボクの家の前で立ち止まった。

 視線をあちこちにやって、閉じたカーテンに僅かに空いた隙間を見つけると、じぃ、と目を凝らす。

 二階、自分の部屋の窓から外を覗いていたボクと、目が合う。

 にぃ、と小悪魔のような微笑を少女が見せた。

 雨の降る、夜十時。"あいつ"のいない家に、キリコはやってくる。


 ぴんぽん。

 インターホンが鳴る。それを無視していると、ぴんぽんぴんぽんぴんぽんぴんぴんぴんぴぴぴぴぴ……と、何度もしつこく鳴らされた。それはスーパーで駄々をこねる子供の甲高い声のようで、無視をしようと思っても頭蓋に響いてどうしようもない。

 彼女が来たら、出迎える以外の選択肢はないのだ。

 溜め息を一つ吐くと、わざとらしく不機嫌そうに大股で、足音が家中に響くよう力強く階段をを踏みしめて降りてみた。すると気分が若干晴れたような気がしたけれど、同時により大きな不快感を覚え、すぐさま止めた。ボクの大嫌いな"あいつ"の歩き方と同じだったから。

 首を横に振って余計な思考を払い、フェイスタオルを携え玄関へと急ぐ。

 玄関扉を四分の一ほどだけ開けて、顔だけを出すと、びっしょりと濡れた、捨て犬のようなキリコが眼前にいた。

 「シーキちゃんっ! あは、来ちゃった」

 「うるさい。何もあんなに鳴らさなくたって良いじゃないか」

 「押したら楽しくなっちゃって。良い音鳴るからさ」

 濡れた髪を指で弄りながら、悪びれずに彼女が笑う。あっけらかんとした態度に、毎度のことながら呆れてしまう。

 「あぁもう、びしょ濡れじゃないか。風邪を引いてしまう前に早く」

 玄関前で突っ立ったままのキリコの腕を引っ張り、家に入れる。持ってきたタオルで彼女の頭や顔を拭いてやる。やや乱暴に拭くと、首をすくめて目を細める様を見て、やはり犬だと思った。泥遊びが好きな、やんちゃな子犬。

 「シャワーを借りるにしても、こんなに濡れていたら廊下まで水浸しになるし、風邪ひくだろ」

 雨に濡れたパーカーはスポンジのように水気を含んでいて、軽く握ると忽ち水が滴り落ちてくる。一体どれほどの間、キリコは雨曝しになっていたのだろう。ここで聞いたとしても、平気な顔をして分かり切った答えが返ってくるだけだ。安定した住居を持たない彼女にとってはこれが日常茶飯事。だから、彼女は雨の夜にボクの家を訪れる。雨を凌ぐために。

 

 

 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る