恋はモルヒネ

 十二月にしては珍しく良く晴れていて、風もあまり吹かず、肌に触れる陽光が暖かく心地良い。あたしは上機嫌で学校に忍び込み、校舎裏の階段で昼食を取っていた。

 チャイムが鳴ってしばらくすると、ドアの開く音がして、誰かが入ってきたことに気付いた。わざわざ振り返らなくても、あたしにはそれが誰か分かった。マイフェイバリットだ。

 「あは。こんにちは、優等生さま」

 「その、優等生さまって呼ぶの、いい加減止めてくれないか……不良少女」

 「えー……いいじゃん、これってあたしとシキちゃんの合言葉みたいなものでしょ? それに、シキちゃんだって結局乗ってるしー」   

優等生さまことシキちゃんは何か言い淀んで、やがて諦めたように溜息を吐き、あたしの横に腰掛けて弁当を食べ始めた。                    

 シキちゃんの弁当はとても簡素なもので、玉子焼きと小さなウインナー、ほうれん草のお浸し。しそご飯の上に梅干しがちょこんと乗っているという感じ。シキちゃんらしいけれど、あたしからすると、模範的過ぎて気持ち悪いくらい。かく言うあたしはどうなのかというと、コンビニで買ったハムチーズサンドイッチだけ。あたしの脳みそはシキちゃんと違って省エネだから、昼食はこれだけでも十分なのだ。

 あたしたちの昼休みはとても静かだ。シキちゃんは黙々と弁当を食べ進めているし、平らげた後も参考書を解いているか、読書をしている。あたしは殆どの場合、彼女よりも先に食べ始めて早々に食べ終えてしまっているから、紫煙を燻らせながら本を読んでいたり、銀色に染めた髪を弄っていたりしている。二人の間に会話なんて殆ど無い。でも、これが結構落ち着くのだ。

 ふと、隣に座るシキちゃんの顔を横目で見てみると、頬にガーゼが貼られていて、目の周りにも痣がある。整ったキュートな顔が台無しだ。しかし、他の生徒と喧嘩した、というわけではないと思う。彼女は学校では優等生で通しているのだ。喧嘩なんて以ての外、バケツにたっぷり入った水を掛けられたって、彼女は平気な顔をしてみせるだろう。だから、生徒や教師はそんな捻橋詩希を気味悪がって透明人間のように扱う。学校が騒ぎになっていないのはそのためだ。なんて、つまらない連中だろう。とにかく、彼女の顔の痣は学校の連中によるものではない。では一体、彼女をこんな目に合わせたのは誰なのか。その犯人のことを、あたしは一度だけシキちゃんから聞いていた。

 それは、彼女の母親だ。

 昼はスーパーのパートでいかにも真面目な人のように働いているけれど、夜は歓楽街に繰り出してホストに貢いでいるらしい。シキちゃんは幼い頃から交友関係を制限されて、テストでは首位以外は最下位と同位だとか言うアイツに暴力を振るわれている。全てはアイツの体面のため。アイツは、自分のことしか見えていない。シキちゃんを自分が輝くための道具としか考えていない。

 それにしても、今回はまたこっ酷くやられたなぁ、と腹立たしく思う。今日は珍しく顔にも傷がある。余程機嫌が悪かったのだろう。

 「ねぇねぇ、シキちゃん」

 「……どうしたんだい」

 「えへ。その顔、どうしたのかなーって思ってさ」

 「これは、その……」

 あえて、聞いてみる。家庭事情について聞くことはシキちゃんにとってタブーな筈だった。でも、これ以上見て見ぬ振りをしていたら、彼女がアイツに殺されてしまいそうな気がしたから。

 いっそ、殺してしまおうかと思う。シキちゃんが一言、「助けて」と言ってくれさえすれば、あたしはすぐにでもアイツをこの世から消し去ってあげるのに。それが可能なことを、彼女も知っているはずだった。

 そんなあたしの気なんてお構いなしに、シキちゃんは言うか言うまいか迷っている様子で眉を顰めながら手を組んで、何処か遠くを見詰めている。その悩んでいる際の表情があんまり幼くて可愛らしいものだから、自然と手が動いてしまって、シキちゃんの髪を緩く撫でていた。すると彼女は、肩を震わせて静かに啜り泣き始めてしまった。あたしは考えるまでもなく、彼女の頭を胸に埋めさせて抱き締めた。

 普段、自分はもう大人だとでも言いたげな顔をしているくせに、抱き締められると途端に子供らしくなる。強がりで、甘え下手な子供。それがシキちゃんだった。

 優秀で居続けることを強いられて、誰にも頼ることの出来ない日々を過ごして、今まで独りぼっちで闘ってきたシキちゃんの心はきっと傷だらけ。二人きりの時くらい、強がらなくていいのに。あたしを頼ってくれていいのに。信用してくれていいのに。

 互いに何も言わないまま、心の内に色々な物を隠したまま、彼女の嗚咽だけが響いている。

 そうしてしばらくの間、シキちゃんを愛でていると、チャイムが鳴って、二人の時間の終わりが迫っていることを告げた。名残惜しいけれど、優等生のシキちゃんを授業に遅刻させる訳にもいかないから、あたしは彼女の背中を軽く叩いて「お姫様でいられる時間はもうお終いだよ、シンデレラちゃん。そろそろ行かないと怒られちゃうよー?」と、普段と変わらない戯けた調子で、しかしそれでも優しく言ってやる。なんだか、母親になったような気分。

 「分かってる。学生の本分は勉強だ、忘れてないよ。……だけど、一つだけ、いいかな」

 「なぁに、シキちゃん」

 首を傾げて訊ねる。

 「今日は塾が無いし、母さんも明日の朝までは帰ってこないと思うんだ。だから、キリコさえ良かったら……放課後、会えないかな……なんて」

 「……わ」

 困った。何に困ったって、あたしを見詰めるシキちゃんの視線に。少年みたいに純粋であどけない瞳。汚れた世界に住んでいる人間にとって、それはあまりに眩しい。

 あたしの住んでいる世界は、悪い大人と傷付きたがりな女の子で溢れている。あたしと同年代くらいの男の子も多少はいるけど、彼らはどちらかというと昔の暴走族の真似をしてバイクを走らせる方が好きみたいで、関わることは滅多に無い。シキちゃんのような純粋な子は希少だ。だから、というわけではないけれど、あたしは優等生であることから解放されて、素直になった時のシキちゃんに弱い。何処までも甘やかしたくなってしまう。

 「……いいよ。じゃあ、十時にシキちゃんのお家に行くね。だからほら、もう行きなよ」

 断れる筈がなく、あたしはそう約束してしまう。でも、どうせ頼むのなら母さんを殺して欲しいって言ってくれたら良かったのになぁ。

 「あぁ、ありがとう。それじゃあ、また後で」

約束だよ、と喜びを隠さずに言うシキちゃんを可愛いな、可愛いな、と想いながら手を振って別れた。

 さて、あたしも行かなければ。今日はシキちゃんから誘ってくれた初めてのデートなのだ。飛び切り可愛い格好をしてシキちゃんの顔を真っ赤に染めてあげよう。シキちゃんはどんな服を着た女の子が好きかな。どんなメイクが好きかな。お揃いのマニキュアを塗ってあげようかな。初めてのキスが煙草臭かったら嫌かな、どうにかしなきゃ。

 今夜の予定を頭の中で組み立てながら、あたしは頬を最大限に綻ばせた。

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