ナイトクラブ
キリコによって扉が押し開かれると、一面に知らない世界が広がった。ボクらを真っ先に出迎えたのは、けたたましく鳴る電子音楽と、目の眩むような赤、青、緑、黄の光線。暗いフロアの床には白と黒のタイルが入れ違いに並べられていて、その上では若い男女が混ざり合い、抱き合ったり奇妙な色をした液体を飲んだりしている。情報量の多い空間だが、とにかく……
「うるさい……」
鳴り響く電子音と重低音は耳に休む暇を与えず、心臓にまで届く。耐え切れず耳を手で覆うボクに、キリコは「シキちゃん、そんなの意味ないよ」と音楽に負けない大きな声で言う。
確かに、小さな手の平は防音性能を全くと言っていいほどに発揮していなかった。
「ここが、不良少女の楽園?」
皮肉を込めて言ったつもりだったが、音の壁に阻まれてキリコの耳には届かなかった。彼女が首を傾けてきたので、ボクは口を大きく開けて「こーこーがーキーリーコーのーらーくーえーんー?」と耳元で叫んでやった。
キリコは大袈裟に耳を押さえると、ボクを軽く睨んだ。しかし口元は綻んでいて、すぐに演技だと分かった。
「そう、ここがあたしの居場所。一番輝ける場所! シキちゃんにも知ってほしくて誘ったんだ、今夜は」
芝居じみた話し方と身振りをしながらキリコが語る。学校に通っていないくせに、今年の生徒会長よりもよっぽど話し方が上手で驚くとともに、勿体ないと思った。
それから、キリコはクラブのあちこちを案内してくれた。滑らかな声は針に糸を通すように耳に入っていく。しかし、その合間合間に騒がしい音楽が拳骨のように叩き付けてくる。
光の明滅と体の芯まで響く音楽に耐えきれず、立ち止まった時、握られていたはずのキリコの手は無くなっていた。逸れてしまったのだと気付いて、目が眩みながらも壁にもたれた。
キリコの楽園、ナイトクラブはまさに別世界で、若者たちの熱気を肌に浴びているだけでも溶けてしまいそうだ。
顔を上げると、いくつもの不快な視線が自分に向けられていることに気が付いた。ボクがこの空間の中でただ一人、浮いている存在だからだ。誰もがラフな格好や安っぽいドレスなどを身に纏っている中で、健全な少女の証であるセーラー服は酷く目立つ。一刻も早く着替えたいところだったが、当然ドレスなんて持っていない。ボクは視線を避けるように俯いた。
肩に触れられ、キリコが見つけてくれたのかと顔を上げた。これだけ目立つ格好をしているのだ、彼女も見つけやすいだろう。
「どうしたミカ、具合でも悪いの?」
アルコールの臭い。煙草の臭い。男の人の臭い。キリコではないとすぐに分かって、首筋が震えた。
「あ、あの、人違い、です……」
この男の誤解を解いて、早くどこかに行ってもらおう。そう考えて声を出すと、彼は表情を変えた。
上手く伝わったか……と安堵の溜め息を吐いたところで、男はもう一度ボクの肩に触れた。先程よりも気持ちの悪い、愛撫するかのような手つきで。
「ふぅん。まぁ、いいや。具合悪いんでしょ? 肩貸すからさ、一緒に外の空気吸いに行こうよ」
そう言いながらも、男はボクの体を舐めまわすように見ていた。それは得物の品定めをする獣のようで、気分が悪い。
(いや……っ)
出さなければならないはずの声は喉元でせき止められ、か弱い小さな悲鳴となって漏れ出た。不意に出てしまった女の声に気分を良くした男は、ボクの手首を握って連れて行こうとした。
その手を振り払おうと思ったが、上手く力が入らない。寒気が体の動きを鈍らせている上に、男の力が強い。助けを求めようと辺りを見回したが、若者たちは皆この男を止めるどころか、好奇の目を向けていた。誰もが笑っている。これがキリコの、不良少女の日常? でも、笑う若者たちの中にはボクとそう変わらない年齢に見える女もいるじゃないか。
男に腕を引っ張られ、ナイトクラブの外に連れ出されようとする最中、ふっと腕に込められていた力が消え、その場に座り込んでしまった。何が起きたのだろうと思い、顔を上げると、男が腕を押さえて跪いていた。その傍らには灰色の髪を肩まで伸ばした少女、キリコが小さなナイフを手に持ち、男を睨み付けていた。その気迫は、とても演技だとは思えなかった。
「この子、あたしの女なんだけど」
キリコは器用にナイフを手元で弄びながら、喚く男の顔面を蹴り上げた。それきり男の声は聞こえなくなった。
先程までボクを笑っていたはずの若者たちはそれを見て口笛を吹いたり、賞賛を浴びせたりしている。
「シキちゃん、平気? 怖い思いをさせちゃったね」
キリコはそう言って、腰が抜けて立ち上がれないボクに手を差し伸べてくれる。
その手を握りながら、ボクは彼女と自分の間にある決定的な差を理解した。それは優等生と不良少女という記号ではない。ボクは弱者で、キリコは強者なのだ。精神的にも肉体的にも、彼女はボクよりもずっと逞しい。
惨めな気持ちになり、涙を流し始めたボクを、キリコは抱擁してくれる。これまでに触れてきた肌の中で、最も温かく、そして優しい。
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