melt in dark

詩希 彩

路地裏・いつかの話

 玄関の扉を開けると、濃厚な血の臭いがボクの全身を覆った。微かに煙草の臭いもする。

 一度だけ、この臭いを嗅いだことがある。血の臭い。死の臭いが脳を刺激して、記憶を呼び覚ます。

 運命が捻じ曲げられた夜。ある少女と出逢ってしまった夜を、ボクは想起する。



 その夜、ボクは塾に遅くまで残っていた。十二月に入ったばかりで、まだ冬の寒さに慣れていない頃。羽織っているボアブルゾンが心許なくて、暖を取るために買ったココアもすっかり冷め切ってしまっていた。

 居残っていたのは勉強のためではあったけれど、家に帰らない口実を作るためでもあった。母さんに会いたくないから。

 母さんと父さんは、ボクが幼い頃に離婚してしまっていた。そのことについて尋ねると母さんに叩かれるから、詳しい理由は知らない。父さんと母さんがどのような仲だったのかも、離婚してしまった訳も知らないけれど、大人に抱き締められた時の温もりだけはぼんやりと覚えている。幼い頃のボクは、きっと両親に愛されていたのだろう。

 離婚してから、母さんは豹変してしまったのだと思う。母さんは昼の間はスーパーでパートとして如何にも勤勉なシングルマザーの顔をして働いているけれど、夜な夜な歓楽街に繰り出してはホストに貢いでいる。朝まで帰ってこないことが殆どだけど、ホストに振られたのか早い時間に帰ってくることがある。その場合が最悪で、母さんは八つ当たりとしてボクに暴力を振るって、やがて疲れ切ると眠りに就くのだった。

 ボクを殴る時、母さんは体面を保つために目立たない、他人から見えない部分ばかりを狙う。そして、誰にも言ってはいけないとボクに言い聞かせる。周りの人間に自分の本性が露呈しないように。

 塾からの帰りが遅いのは、母さんの帰りが早い場合に機嫌を損ねないようにするため。勉強のために居残っていたと言われれば、母さんも文句は言えないだろう。

 とはいえ、今夜は帰りが些か遅くなり過ぎた。もうすぐ日付が変わる頃だ。だからと言って何かがある訳でもなかったけれど、何と無しに帰路を急いでいた。近道として、普段は使わない路地裏を通ろうとした時、嫌な気配を感じて立ち止まった。

 陰には男が屯していた。暗がりの中には煙草の臭いが立ち込めていて、彼らはボクを見ると瞬く間に組み伏せて乱暴しようとする。ボクは恐ろしくて、何一つ抵抗出来なかった。辛うじて出た助けを求める声はか細く、誰にも届きそうにない。ボクは凌辱されるのを、ただ声を殺して待つばかりだった。

 そこに一人の少女がやってきた。彼女は気が付くと暴漢たちの背後に立っていて、その中の一人にナイフを突き立てていた。少女は痛みに喚く男を蹴り倒すと、懐から新たなナイフを取り出し、狼狽していた男の喉笛を振り返りざまに切り裂いた。

 少女は強かった。腰の辺りまで伸ばした燃え尽きた灰のようなグレーの髪をマントのように翻しながら、巧みにナイフを振るう彼女は、さながらファンタジーに出てくるキャラクターのようだった。

 五分と経たないうちに、夜は静けさを取り戻した。少女は横たわる男たちの屍を踏みつけ、あは、と演技っぽく笑った。

 「ダメだよ。こんな場所、こんな時間に一人で歩いてちゃ。キミみたいな可愛い女の子は狙われやすいんだから」

 未だ怯えたまま蹲るボクに、彼女は優しく微笑んで声を掛けてくれた。その表情にさっきまでの殺人者の影は無く、寧ろ慈悲深い女神に思えた。

 「さようなら。もう迷い込んじゃダメだよ」

 少女は黙ったままのボクに紙切れを握らせると、煙草を燻らせながら去っていった。

 少女が去ってしばらく経ってから、ボクは手の中でくしゃくしゃになっている紙を広げてみた。そこにはメールアドレスと、カタカナが三文字記されていた。

 「き、り、こ……。キリコ……」

 ボクはその言葉を、何度も繰り返し唱えた。キリコ、それが自分を救ってくれた少女の名前であるような気がした。

 悪臭が鼻孔を刺激し、振り返ると少女に蹴散らされた男たちが転がっていて、茫然と意識の中で警察に通報をした。

 「通り魔、だと思います……あの男の人たちと同じくらいの背丈でした。……顔はよく見えませんでした。でも、二十代の男のように感じました」

 駆け付けた警察官に事の顛末を語っている間も、ボクの意識は深い海の底にあった。中年の男は穏やかな態度で話を聞いてくれたけれど、ボクは真実を語る気にはならなかった。男たちは死んでしまっていたから、彼女――キリコのことを知っているのはボクだけ。暴漢と殺人者、どちらも法罪を犯した者ではあるけれど、ボクには死んだ男たちよりも、キリコの方がよっぽど尊い存在に思えた。

 


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