虚実の女
吾妻栄子
虚実の女
今日はわざわざこちらまでお越しいただき有り難う御座います。
東京からは随分遠かったのでは。
あら、新幹線で二時間ですか? 今は便利になったんですね。
私はもう東京には何年も出ておりませんで。テレビでよく映りますけれど、昔とはまるで別の街ですわね。
一度焼かれて灰になってしまったから、元の形に建て直すというより、また新しく築いたのが今の東京でしょう。
名前は一緒でも、もう昔と同じ姿ではありませんわ。
お茶、宜しければどうぞ。
*****
さて、本題に入りますと、私とあの方に関しましては、あの方が上海にいらした二年少しの間に女中としてお仕えしただけの関わりでした。
私個人としては大変お世話になりましたが、人様にお話してご本に載せるようなお話など出来そうにはありません。
そもそもお忙しい
上海で起こした事件についてですか?
あの方が外でなさるお仕事について、私のような者につまびらかにお話されることは有り得ませんよ。
女学校も途中で
両親を相次いで亡くしまして、あの方に拾われたようなものです。
お茶はもう一杯、いかがですか?
******
あの方はお宅では書斎でゆっくり本を読まれるのがお好きでした。
ええ、人前だけでなくお宅でも男物の服をお召しでした。
――和服でも、
良くそう仰っていましたわ。
今は日本も、中国も、随分楽になった洋装が主ですけれど、それでも、女物の服は男物ほど実用的に出来てはいませんわ。
ええ、私のこの服も男物です。少し大きいですけれど、女物より不自由しません。こんな田舎で独り暮らしのお婆さんですから、自分の着たい物を着ています。
*****
あの方がどういった本を読まれたかですか?
それは様々ですわ。
小説が多かったですけれど、日本や中国、それから私には読めない西洋の本もありました。
全部原書でしたわ。あの方は英語もお出来になったのです。
――翻訳は訳した人間の嘘や誤解、作為が入るから嫌だ。
良くそう仰っていました。
小説の手法で読み手に嘘や誤解を与える語り手を「信頼できない語り手」と言うそうですわね。
――他人が異なる言葉に訳した物語などその時点で伝言ゲーム、完全には信頼できない語り手から聞く話だ。
それがあの方の持論でした。
私ですか?
女学校を途中で退した頭ですから、本と言えば、文字を追うのが精一杯ですわ。
この通り、もう老眼ですから、今は読む物と言えば新聞くらいです。
ああ、確かにこの梨の段ボール箱の下に敷いてあるのは台湾の新聞ですね。
去年、ご近所の老人会で
あちらは本土のような略字の漢字ではなく昔ながらの漢字ですから、戦前の大陸育ちの年寄りには却って読みやすいですわ。
台湾は暖かくて良いところですね。
でも、日本は戦争に負けるまで台湾をずっと踏みつけにして言いなりにさせていたんですから、今の日本人もそれを忘れてはいけませんわ。
*****
上海のお宅にどのような人たちが出入りしていたかですか?
それは、本当に多士済々ですわ。
日本人、
何せ租界ですからね。
ご職業も軍人や実業家、学者の他に作家や役者といった人たちもおりました。
私としてはどの方もお客様として少しでもおくつろぎいただけるようにお迎えするだけでしたけれど。
あの方はどこにいらしてもすぐに注目され、多種多様な人たちを引き付けたのですわ。
その中で愛人関係にあった男性たちですか?
あの方本人はそうした話を好んで他人に喋り散らすことはありませんでした。
加えてその頃の私は本当に子供でしたから、やってくるお客様一人一人とあの方の本当の間柄を察する力もありませんでしたわ。
*****
ええ、棚のレコードは
ご存知の通り、昔は
まあ、年を取ると、若い人は綺麗でも皆、似通ったお人形さんみたいに見えて名前もなかなか覚えられなくなりますけれど、この人は今、見ても綺麗な方だと思いますわ。
あの方も良く仰っていました。
――“男装の麗人”などと言われているが、それは軍服の王女という物珍しさからスフィンクスのような一種のモンスター扱いでそう呼ばれているだけで、僕は実際のところ、一族の中でも不器量なくらいだ。
――“美人”というのは亡くなった母様やヨシコちゃんのような人を言うんだ。
とね。
ただ、この方は美しくても決して日本的な美ではありませんね。
「
それにしても、戦時中は日本軍の慰問歌手として大陸を歌い歩いた渡辺はま子にはアメリカ人の血が入っていて、李香蘭は純粋な日本人だったなんて、本当に皮肉ですわね。
二人とも形は異なるにせよ、いつも日本を忠誠を尽くすべき祖国として選ばなければ許さないような、踏み絵をさせられていたのではありませんか?
*****
おや、このお写真は?
あの方の
お
若い頃はそれほど似てなくても、年を取ると親族はやはり似るものですね。
どちらも今は
祖国の一人民として平穏に暮らしているのなら、それが一番幸せでしょうね。
滅びた王朝の王女として生きることがいかに悲惨かはあの方を見ても分かりますわ。
おや、もう一枚は……そうですか、あの方が現在まで生き延びた顔を予想したモンタージュですか。
今はそんな技術があるんですね。
どうして、私があの方の妹御や姪御の今の顔に似ている、そして何よりそのモンタージュにそっくりなのかですって?
私が今、名乗っているはずの人物は実際には戦時中の上海で行方不明、恐らくは
あはは、ここに来るまで随分突き止めたもんですね。
でも、私は川島芳子ではありません。
彼女はもう何十年も前に先勝国になった中国で処刑にされたんですよ。
滅びた清朝の王女が
そんな愚かなピエロは老残の姿で生き返ったりせず、往時の姿のまま死なせておく方が世の人にとっても万事都合が宜しいのではありませんか?
(了)
虚実の女 吾妻栄子 @gaoqiao412
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