唐揚げ

 天水なずなとの邂逅かいこうから、八日が経った。


 どういう訳か、天水さんはあの奇行の日以降も、毎日大体十八時頃にインターホンを鳴らした。俺も、恐らく天水さんだろうと分かっていたが、配達の可能性も考慮して、一応窓から確認はした。その度、やはりあの女は俺の方に視線を向けてきた。


 今日で既に、進学に必要な出席日数を稼ぐための猶予が、残り一日か二日となっている。今日か明日には決めなければ、流石に進学出来ないなどという迷惑は、家族のためにも掛けられない。


「……自殺も一つの手、か」


 今日まで結局、何も変わらなかった。変わろうとしてなかった、という理由もあるが。


 時刻は午後四時。今日は部活がないらしい日暮は、そろそろ帰ってくる頃だ。


「ただいまー」


 玄関の方から声がした。日暮の声だ。それと同時に、固定電話から音楽が鳴り響く。どこかから電話がかかってきたらしい。すぐに鳴り止んだため、日暮が出たのだろう。


 寝転んでいたベッドから起き上がる。立ち上がると視界がくらりと歪み、目の奥が抉られるかのような痛みが走る。立ちくらみのようだ。


 よくあるのだが、今回のはいつもより酷い。膝を着いて、棚に体重を預けてしばらく耐える。目を閉じてこめかみを押さえて一分ほど待つ。そうすると、やっと痛みが引いた。


「……ったく、なんなんだよ」


 かなり勢いよく棚に倒れたので、痛む右腕を振って痛みを和らげる。


 足元で何かが光って、それを拾う。黒い小さな剣のキーホルダーだ。どうやら、さっき倒れ込んだ衝撃で落ちてしまったらしい。


 胸に僅かに痛みが走り、しばらく耐える。さっきから痛みに耐えてばかりだ。


「ふぅ……治まったか」


 今度は数秒で痛みは引き、キーホルダーを棚の上に置いて、立ち上がる。


 部屋の中の明かりは、カーテンの隙間からの夕日だけだ。


 窓に近付き、カーテンを少し開けて外を眺める。南向きの窓からは、まだギリギリ太陽が望めた。しかし、すぐに太陽は落ちて空は赤くなり、暗くなるだろう。


 俺と日暮の名前の由来は、もちろん夕方からだ。理由は、父さんがプロポーズしたのが夕方だったから、というのもあるらしいが、もうひとつあるらしい。


 それが、一日のうち僅かな時間しかないが故に多くの人を感動させる夕方のように、小さな力で誰かを助けることの出来る人になれ、というものだった。


 小学生の頃の宿題で聞いたものだから、多少の差異はあるだろうが、ほぼこんな感じだったはずだ。


 そんな意味で付けてくれた名前だったが、今の俺は真逆な人間だろう。誰かの助けになるどころか、大勢の人に迷惑ばかり掛けて、どうしてこの名前にそぐえるような人間だと言えるだろうか。


「お兄ちゃん、学校から電話掛かってきたよ。これ以上休み続けると、進級が危ういって」


 日暮が扉の外からそう告げる。遂にその通告が来たか、という感想だった。別に、それ以上もそれ以下もない。分かっていたことだ。


 しばらく沈黙が続く。俺は日暮に返答もせず黙ったままだ。日暮も、何も言わず動かずで、扉の前にいるのだろう。


「そうそう! 晩御飯、唐揚げとハンバーグ、どっちがいいかな?」


 露骨に話を切り替えてきた。でも、俺も学校関係の話はあまり好ましくないので、正直ありがたい。


「唐揚げにする」


「さっすがお兄ちゃん、いい選択をしたね」


「は? どういうことだ?」


 扉の向こうから、謎にテンションの高い日暮の言葉に疑問が浮かぶ。唐揚げとハンバーグで、一体何の差があるのだろうか。いつものように、冷凍かレトルトのものではないのだろうか。


「えっとね。ハンバーグを選んだら、コンビニのレトルトにしようと思ってたんだけど、唐揚げを選んだら、久々に手作りしようと思ってたんだ。今日部活もなくて、時間あるし!」


「……だったら、ハンバーグでいいよ。お前も疲れてるだろ、楽すればいい」


「えー、なんでそんなこと言うの。せっかくやる気出てるのにー」


 料理なんて、高校に入ってから一度もしていないから、唐揚げの作り方など忘れかけているが、やはりレトルトと較べればかなり手間がかかる。


 俺の家には、鶏肉に含まれている脂で唐揚げにする、などという便利な調理器具はないので、味付けから揚げるところまで、全て手作業だ。日暮も毎日学校に部活で疲れているだろうに、そんな手間のかかることやらせたくはない。


「今日は唐揚げ、決定ね! 拒否権はお兄ちゃんにはないよ、選んだのもお兄ちゃんだし。それに、ほら、お兄ちゃん私の唐揚げ好きでしょ? よく一緒に食べたよね」


「っ……」


 日暮の「一緒に」というのは、俺と日暮の二人のことではない。俺と日暮、そして涼も含まれている。その意味を理解した瞬間、胸に痛みが走る。


「じゃあ、準備するから、お兄ちゃんは出来るまでゆっくりしてて」


 そう言って、日暮は階段で一階へと降りていった。俺に、胸の痛みと日暮への良心の呵責を残して。


 胸の痛みは、そう長く続かなかった。十秒もすれば治まり、扉へと近付く。


「……伝えておこうか、日暮には」


 そう思ってドアノブに手を掛けた瞬間、玄関からがちゃりと音がした。日暮が材料でも買いに出掛けたのだろうか。なんとも、タイミングのよろしくない。


「……後でいいか」


 パソコンの置いてある机の前の椅子に座り、電源をつける。しばらくしてパソコンが立ち上がり、マウスでいつもやっているゲームへとカーソルを移動させる。


 ダブルクリックで開こうとしたが、不意にやる気が失せて椅子へと倒れ込む。


「……本当に、何やってんだろう、俺」


 暗い部屋の中、カーテンから差し込む赤い光と、パソコンの画面から漏れ出る白い光だけが、俺の周りを照らした。


 僅かに開いたカーテンの隙間から、椅子に座ったまま外を眺める。向かいの家の屋根と、紺と赤のグラデーションがかかった空。夕方、または日暮れとも言う時間。俺ら兄妹の名前の基になった時間。


 外の気温は下がり、夏場ではあるものの少し寒さすら感じる、即ち涼しくもなる時間。


「……いつまで、人生無駄にする気なのかな、俺は。いつ、立ち上がればいいんだ、涼」


 返事はない。家の前を通る車の音だけが、鼓膜を揺らした。


「……死ぬか」


 ずっと考えていたが、何故か手を出せなかった結論。しかし、不意にその案へと手が届いた。理由は分からない。でも、そうすることがいいように思えた。


 マウスでカーソルを動かし、検索用のアプリを開く。そして、自殺の方法を探した。


 正直言えば、街中歩いてて事故に遭ったり通り魔に刺されたりして死ぬほうが、罪悪感もなく死ねるのかもしれない。


 ただ、そんな事件に巻き込まれるような確率は、そう簡単に望んで引けるようなものではないだろう。


「……日暮にくらいは、伝えておくか」


 今まで迷惑ばかり掛けてきたのだ。最期くらい、心の準備が出来るようにしてあげた方が、いいのかもしれない。それが、自殺する者としての、優しさなのかもしれない。


「……そっか。遺書も書いた方がいいか」


 パソコンをホーム画面に戻し、文書作成用のアプリを開く。そこに、ずっと小説を書いていたお陰で、慣れた手つきで文字を連ねていく。


「……結局、天水なずなって、何だったんだろう」


 自殺するにおいて、この疑問だけが一番の心残りになりそうだった。

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