どうすれば

 夕は歯が砕けるんじゃないか、というくらいに歯を食いしばっている。見ているだけで、私まで辛くなってきそうなくらいだ。


 鋭く細めた目を私に一度向けて、定期券を改札に当てて駅に入り、駅内のベンチに腰を下ろした。スマホを触ることも無く、夕は俯きがちに虚空を眺めていた。


 今話し掛けるのは逆効果なことは、私にも分かる。手提げカバンから財布を取り出し、切符販売機で四百十円分の切符を購入して、410円と書かれた紙切れを手に取る。財布のカード入れに挟み、夕から少し距離を開けたところに座った。


 程なくして、高松築港方面の電車が駅に入ってくる。左側に座っていた夕は音もなく立ち上がり、目の前で開いた扉の中に入っていく。私も続いて入ると、他に客はいないらしくすぐに後ろでプシューと音を立てて、自動的に扉がスライドして閉まる。


 行きと同じように、夕は座席の端に座って、手すりに寄りかかっている。私は再び、夕から少し距離をとって座る。


 私には、夕が今何を考えているのか、頭の中に何を思い浮かべているのか分からない。分かったなら、苦労はしないだろう。


 ──ねぇ、私はどうしたらいいのかな。あなたは、今までどうやって夕を助けてきたの。どうすれば、夕の心の扉を開けるの?


 心の中で、今はいないに尋ねる。しかし、その答えは返って来ない。そして、その答えを教えてくれることも二度とないだろう。私が探すしかない。


 チラリと、夕に視線を向ける。変わらず、彼は俯きがちに見えない何かを見詰めていた。


 整備があまりなされていないのか、揺れの大きい車体が進んでいく音だけが響いた。



 太田駅に着いた。俺は天水さんに視線をくれもせず、定期券を使って改札を通る。後ろで天水さんが車掌に切符を渡して、俺の後を追ってくる。


 足取りが重い。


 さっき、電車に乗る前のことのせいで、俺は少し自分が揺らいでしまっていた。いないと思っていたのに、天水さんがあたかも俺を心配していたかのように……いや、あれは多分俺を心配していたんだろう。


 そのせいで、今までの四ヶ月間の俺が、ぐらついてしまっていた。


 いや、その方がいいのだろう。そうすれば俺はかつての生活に戻れるのだから。


 でも、俺はまだ自分が許せないでいた。涼は、俺を許してくれないだろう。そう思って、ずっと塞ぎ込んでいる。実際、俺は誰かと関わりを持つことが、誰かと絆を作ることが怖くなっている。


 誰とも仲良くならなければ、失うことも無い。悲しむことも無い。その考えが、今日一日俺の天水さんに対する態度に現れていただろう。仲良くならないために、突き放す。


 だが、何故だ。どうしてこの女は執拗に俺を心配する。こいつが俺の何を知っている。俺がどうしてこうなったのか知っているはずもないくせに。


 家が近付く。天水さんは隣に住んでいると言うのだから、家の敷地に入るまでは同じ道だ。もちろん、今も後ろを着いてきている。


 家の目の前に立つ。庭への入口の扉に付いたノブに手をかけ、捻る。建ててから二十五年以上経っているらしい、金属の塗装も剥がれ、錆びているのかギギィと音が鳴った。


 蝶番の擦れる音を聞きながら、俺は庭の中に入った。直後、ずっと黙っていた天水さんが俺に呼び掛けてくる。


「今日、楽しかったね! また遊ぼうよ! それと、学校でも会おうね!」


 ポケットに突っ込んでいた右手に、不意に力が篭もる。昔から謎で今も原因は分からないが、握った拳からパキパキと弾けるような音が鳴る。


 閉じた入口の方に振り向き、睨むような目付きのまま告げる。


「……金輪際、俺に関わるな」


「え……?」


 俺の言葉に、天水さんは元から大きい目をさらに大きくして、驚きの表情を見せた。


「お前と関わることは二度とない。もう一度言う、金輪際俺に関わるな」


 天水さんが扉の奥で動かなくなる中、俺は玄関への扉を開けて家に入り、ガチャリという音を立てて扉を閉めた。そのガチャリという音は、俺の中で世間との隔絶を意味していた。


「おかえり、お兄ちゃん。遅かったね」


「……ちょっと遠出してた。晩飯は後で食うから、冷蔵庫にでも入れておいてくれ。眠いから寝る」


「分かった。お風呂、先に入っておくね」


 親の帰りはいつも遅い。そもそも、父親は単身赴任でほとんど家にいない。母親は教師をしている。教師の親は面倒だと思われそうだが、公務員で収入も安定し、むしろ多くの子供と関わっているから、人にもよるだろうが我が子への視野も広い。おかげで、俺は今日まで引きこもりを続けてこられた。


 日暮を残してリビングを抜け、階段を上がって二階の奥にある俺の部屋に入る。電気のついていない暗い部屋に入り、カーテンを少しだけ開けて玄関口を見る。


 まだ、天水さんは棒立ちになっていた。


 いや、すぐにそのまま座り込んだ。少しやり過ぎたか、と反省するが、俺の態度に文句一つ言わなかった向こうも悪いだろう。気にしないことにする。


 タオルケットだけが乗っているベッドに倒れ込み、右手で視界を封じる。


 ──もし……もし、天水さんが俺を心配してくれていたのなら、それはどういう意図なのか。どうして、俺を構ったのか。いや、そもそも、何故今日俺を遊びに連れ出したのか。


 あの女は分からないところだらけだ。正直、名前と隣に住んでいることしか俺は知らないと言っても過言ではないだろう。


「……気にする事はないか。ただの他人だ」


 そう自分に言い聞かせるように呟く。過剰な期待は、裏切られた時に辛くなるだけだと、知っているから。


 元々疲れていたせいか、横になってすぐに眠りに落ちたことは、今の俺にとってありがたかった。無駄なことを考えなくて済むから。



 夕の家の前でうずくまる。悔しくて、悲しくて、自分が情けなくて、蹲る。


 今日、私は親友の死で心を塞いでしまった夕を、少しでも元気づけようと外に連れ出した。その結果が、私に対する拒絶だった。私は、彼にとって救いでもなんでもなく、ただの他人であり邪魔者であり、無理矢理に扉を開けようとする部外者でしかなかった。いや、実際そうだ。


「……私には、夕に手を差し伸べる資格なんて、ないのかな。ねえ、教えてよ、りょーにい……」


 手に握った小さなキーホルダーを強く握りしめる。剣の形をしたそれは、私の手に喰い込んで赤い痕を残した。


 いつまでもいては迷惑だろうと思い、心のもやもやを取り除けないまま、私は隣の家へと帰った。


 そして、頭の中を訳の分からないものがグルグルと回る中、それがルーティンでもあるかのように、手を洗いうがいをして、私はリビングに隣接した居間にある、小さな仏壇の前に正座した。


 仏壇には、今の夏の季節に沿った供え物が置かれていて、その中央に眠る人の遺影が置かれている。誰かと肩を組んだようなポーズの少年。明るめの茶髪で、困ったような笑顔を浮かべている。


 私にとって、年に数度しか会えないけど、唯一信じれた家族。同い歳の、家族。


「……ごめんね。私じゃ、無理なのかもしれない」


 コトンと音を立てて、手に持っていたキーホルダーを置く。白色の剣をかたどったそれは、対になるもう一つのキーホルダーと組み合わせることの出来るものだ。遺影に写っている少年が、かつて私に嬉しそうに見せてくれたもの。


 夕に掛けられた言葉は、最初から全部突き放すようなものばかりだった。別に、最初から覚悟していたから、辛くはなかった。でも、それ以上に、救いの手すら取ってもらえなかったことが、悔しかった。この少年に、顔向け出来ない。


「……諦めないよね、あなたなら、ここで。私も、もうちょっとだけ、頑張ってみるよ」


 仏壇に語りかけて、私は目を瞑って手を合わせた。この決意を、見届けてくださいと、あの人に伝わるように。

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