2 無花果(フィークス)

第3話 「けっこーさびしかったんだよなー」  (11.13 改稿)


 食堂の入り口を視界におさめるのは、もう習慣だ。

 試験前でなんとなく集まっている、映研の同期と上級生と会話をしながらも目はそこにあらわれる色をチェックしている。


「コーヨーくん、これの試験範囲どこだっけ。現代歌人のところ」


 夏らしいショッキングピンクのサンダル。ちがう。


「んーと、それはこのあたりから……ここまで。代表作と解説はこっちのプリント」


 運動部の茶色にすすけたシューズ。ちがう。


「ああーテストとかめんどくせえー。飲みいこうぜー」


 きれいな、青のスニーカー。

 視界をすっと食堂の入り口からサークルの友人のほうにむける。あえて、顔は絶対そちらに向けないようにした。

 

「おー、やってんなーみんな」


 明るい、僕の、たいせつな人の声がテーブルのメンバーにかけられる。

 ようやくそこでその人のほうを僕は見る。周りが「青葉せんぱい、こんにちわー」「青葉ぁー飲みいこうぜ」と言っているのに混じって「おつかれさまっす」といつも通りに挨拶を返す。

 青葉先輩は二人に軽く手をあげて笑いながら、最後にひたりと僕の目を見つめた。

 短く切りそろえられた髪は先輩の耳がむき出して、落ち着いた赤色が耳朶を飾ってるのがよくわかる。


「コーヨー、横、あいてる?」

「あ、はい」


 左横の椅子に置いておいたカバンをずらす。

 6人掛けのテーブルは、他に空いている席もあったけれど、反対側に同級生の女子と青葉先輩の同期の男子生徒が座っていたから、こっちを選んだだけだ。それだけ。何も変なことはない、と自分に言い聞かせる。

 青葉先輩はそのまま当然のように僕の横に座る。今日の先輩は薄手の黒いパーカーに七分丈のスラックス。テーブルの上に置いた手は、指先の爪が短く切られていて、でも指にはどんなアクセサリーもはまっていない。先輩の短い髪では隠しようもない赤いピアスだけが、やけに主張しているように見える。今日もまた、とくに何の香水の香りはしなかった。

 先輩は先程からテスト対策が進んでいない上級生、ジョージさんに話しかける。


「飲みとか行ってる場合じゃないだろ。後輩の前なんだから、過去問渡すとか、先輩らしいことしてやれよ」

「そういうお前はどうなんだよ。レポート終わったのかよ」

「レポートはゼミの先輩に見せてもらった。ところでコーヨー、月曜の授業のやつなんだけどさあ」

「……先輩らしく、過去問用意するとか、そういうのしてくれないんですか?」

「ぐっ……あの教授、毎年律儀に問題変えてくるんだよ……頼む、ノート見せて!」

「はあ、仕方ないっすねえ」

「さすがコーヨー! あいしてる!」


 その言葉に、鞄からノートを取り出そうとしていた手が止まる。

 青葉先輩は太陽みたく笑ってて、そこに他意はまるでない。僕はほんの少し深呼吸して、手が震えないように気をつけながら、ノートを取り出して青葉先輩の前に置く。


「はやく写しちゃってください」

「青葉ぁー。おまえぜんぜん人のこといえねえーじゃーん。先輩かたなしじゃん」

「うるせえー。コーヨーのノートは俺と違ってめっちゃきれいにまとまってんの」


 先輩は周りの人に普通に返してる。他の人たちもいつも通り。

 さっきの、たった五文字の言葉は、軽くて、軽薄で、軽率で、青葉先輩なら『後輩』に冗談として言うのはまるで不自然じゃなかった。

 実際、青葉先輩にっとて深い意味はなくて、本当に軽口のひとつだったんだろう。

 過剰に反応したほうが変だ。だから僕は、呼吸をとめたまま、「代返のツケとまとめて返してくださいね」とだけ言った。

 心臓は、先輩が軽い気持ちではなった五文字の言葉で、誤作動をおかしたようだ。血流が激しく動き出して、僕は顔が左耳のピアスのように赤くならないか、心配だった。

 癖で左耳のピアスに触れようとして、それを止める。

 なるべく、普段は髪で隠れているピアスは人目にさらしたくなかった。特にこんな風に二人で並んでいる状態なら。

 なんで同じピアスを片方ずつつけてるの、と聞かれたら、困ってしまうから。

 僕たちの関係は、周りには秘密だから。



 

 

 紅葉色のピアスを受け取って、さんざん泣いて、泣いた後。

 授業の関係もあっていったん離れて、あとで僕の家で会うことにした。

 衝撃や、嬉しさや、確かにある耳にはまったピアスを鏡で見て遅れてやってきた実感をかみしめた後。

 一気に冷静になった。

 そのあと、ひたすら頭を回転して考え続けた。授業のあと、嬉しそうに僕の家をたずねてきた先輩が、ドアを開けた僕の顔を見るなり不審そうな顔をするくらいには、僕は真面目腐った顔をしていただろう。

 先輩にふたつ、お願いをした。


「つきあっている、というのは周りに秘密にすること」

「好きな人ができたらすぐに言うこと」


 青葉先輩は眉を寄せて、明らかに納得がいかないような顔をしていた。

 だけど、これだけは僕は譲れなかった。

 青葉先輩が僕と「つきあってくれ」と言ってくれた。それはとても嬉しい。今更、僕のほうから「やっぱりなかったことにしてください」なんて言えないくらい、僕の浅ましい心はこの機会を逃したくない。青葉先輩の気まぐれややさしさにつけこむような形であろうと。


 でも、僕と先輩は、男同士だ。


 僕はまだいい。僕は同性愛者の自覚がある。僕はクローズドだから周りにはゲイであることを言っていないし大学で知っているひとはいないけれど、もしバレたとしてもその時はその時だ。

 だけど先輩は違う。先輩はずっと異性愛者で、これまでつきあってきた人も全員女性だ。みんなかわいかったりきれいだったり、おしゃれが好きな、普通の女の子。

 先輩と僕は、違う。同性愛者のためのいろいろな制度ができたりしたとしても、男同士でつきあうなんてこと、周りの目には奇異にうつる。

 きっと周りの人たちは「同性愛? 別にいいんじゃない?」というだろう。けどそれは、目の前に、自分の友人に、そういう人がいないと最初から思い込んでる。どこか遠い世界の話。画面越しに見る話。

 もしも大学で、先輩の友人のひとたちに、先輩が男とつきあってるなんてことが知られたら。しかも特別な美人だとか、珍しい取り柄があるわけでもない、平凡な後輩が相手だなんて。

 そんなことは避けなきゃいけない。だって、先輩は、僕と違って異性愛者だ。

 いつか、いつか先輩は、きっと、『普通』に戻るんだろうから。

 その時、先輩の不利にならないよう。だから、周りに知られちゃいけない。絶対に。


「……お前が周りに隠したいっていうんなら、それはいいけど」


 全然納得してない顔で、先輩は自分の髪をぐしゃりとつかむ。

 先輩は彼女ができたとき、特に広めることも、隠すこともしなかった。普通に大学で一緒にいたり、友人とあいさつしたり、仲いい人たち同士で遊んだり。だから「あのひと、青葉先輩の新しい彼女だって」「そうなんだ」くらいの感じで、みんな何となく知ってる、そんな状態だった。

 その人が同じ大学の人なのか、どこの学部で何のサークルをしているのか、どこで先輩と知り合ったか、なんていうのを、さりげなさを装って先輩の同期に聞いたりしてたから、僕は細かく知っているけど。

 そんな先輩だから、わざわざ付き合いを隠すという行為は慣れていない、発想したこともないだろう。


「けど、『好きな人が出たら言うこと』って、なに」


 不機嫌そうな、細められた目で見つめられて、体がすくみそうになるのを抑えた。


「コーヨーは、オレ以外に好きなひとがいるとか、できる予定あるの?」

「そ、んなのないです。僕じゃなくて、それは」

「僕じゃなくて、なに?」


 せんぱいにすきなひとができたときのはなしです。


 正直にそう言うには、眉間にしわを寄せて腕を組んで、いかにも不機嫌にしている先輩を見るとできなかった。

 そのまま言葉がつむげなくて、僕は沈黙を選ぶ。

 それは先輩をこれ以上怒らせたくない、というのもある。いつか、先輩が『普通』に戻るだろうと、できるはずだと、今の先輩を信じてないということを告白するようなことを言いたくないというのもある。

 でも、それ以上に。

 僕自身が、いま、先輩の『好きな人』にはいっている自信がなかったからだ。


 重たい空気が訪れる。先輩の顔をまともに見るのが怖くて、組んだ腕の指先を見ていた。大きな、長い指。触ってみたくて、そのたびに諦めて。今の僕は、それに何の理由もなしに触ることを許されているんだろうかなんて、プラスなのかマイナスなのかわからない思考が巡っていく。

 はあ、と大きなため息の声が聞こえた。


「……それで、コーヨーが納得するならいいよ。そのお願いって、お互いに有効なんだよな?」

「は、はい」

「じゃあ、俺からもつきあうにあたっての約束事、お願いしてもいい?」


 組んだ腕がとかれて、僕はそのまま顔をあげる。

 もう眉を寄せてはいなかったけど、先輩は悩まし気に顎に手を当てて考えている。「どうすっかなあ…」と独り言をつぶやいて、少し逡巡したのちに、僕の顔をまっすぐ見る。


「そうだなー……毎日、一度は電話すること」

「え?」

「時間はいつでもいいけど……うーん、大体バイト終わりとか、寝る前かな」

「僕は……いいです、けど」


 先輩と話す時間が少しでも増えるなんて、素直にうれしい。

 寝る前に先輩の声が聞ける。ただの先輩と後輩だったら、絶対できないような約束。もうそれだけで、こうふくすぎて溺死しそうだ。

 日に一度、先輩の声を聞ける権利。ああ、もったいなくて、そんな権利を僕は自分から使えるだろうか。


「……いいの? オレから言っといてなんだけど、束縛されてるみたいでイヤじゃない?」


 自分で言い出しながらも、どこか不思議そうに首をかしげる先輩に僕のほうが首をかしげたくなる。

 束縛。先輩が、僕を束縛?

 その言葉の羅列のイメージがピンとこない。そういえば、友人が「毎日連絡してっていう彼女がめんどくさい」みたいな話をしていたことがある。

 だけど僕からしたら、普通の後輩なら用事もなく先輩に電話するなんてことできないことで。それこそ降ってわいた幸運みたいなものというイメージで。


「僕は別に……先輩のほうが大変じゃないですか。毎日電話なんて」

「1時間でも30秒でもいいし。ホントはなんかあったら連絡もらえたらそれでいいんだけど」


 それに、と先輩はつけくわえる。


「なんかあっても、コーヨー、一人で我慢しそうだから。実際、オレ三週間も避けられたし?」


 首をかしげて意地悪そうに笑われて、声が詰まる。

 あのピアスを開けた日から、実際サークルにもよりつかないで連絡も無視していた身としては何も反論ができない。


「あれオレけっこーさびしかったんだよなー」

「それは……その、すみませんでした」

「だから、この約束は保険。コーヨーは一人で悩むと抱え込みそうだし」


 その言葉も否定できなくて、ぐう、と声にならない。三週間、誰にも相談しないで、忘れられようとしていたことは事実だったから。

 うう、と声にならないうなりを上げる僕を見て、先輩がぷっと噴き出す。


「わかった?」

「……わかりました」

「うん、じゃあ今はそんなとこかな。あ、あともう一個」


 先輩の指が伸びて、長い指の先だけで、僕の左耳にそっと触れる。

 左耳の、小さな、先輩とお揃いの石に。


「……浮気はダメ」

 

 いい?と小首をかしげるその姿はどこかあどけなくて、なのに目も声も、僕の知らない、艶やかさがあって。

 僕は無意識のうちのコクリ、と頷くしかできなかった。


「じゃあ、この約束をお互い守ること。電話は今日からな」


 なんとか声を絞り出して「はい」と答えると、先輩は「よくできました」というように満足そうに笑って、僕の頭をくしゃくしゃと撫でた。

 今日の電話を迎える前に、僕は呼吸がとまって死んでしまうんじゃないんだろうか。


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