第4話 「んじゃ、これ貸すよ」
先輩と約束を交わした日、僕は緊張と幸福で破裂しそうだった。
僕はいつ電話したらいいかわからなくて、夜、寝る前にスマホをずっと眺めていると、『三木 青葉』という名前で着信がかかってきて、慌てすぎてスマホを取り落したりしてしまったりした。
会話はほんとうに他愛ないもので、「明日は何限から?」「読みたい漫画あるんだけど知ってる?」とか、本当に短い会話で、「じゃあ、おやすみ」と先輩が言って終わる。
おやすみ、なんて、普通の言葉。
スマートフォンごしに耳元で聞くそれは、特別優しくささやかれているようで、全然眠る気にならなかった。次の日には寝坊して遅刻しそうになったくらいだ。
そうして短いやり取りを電話でするようになって、数日。
先輩は僕たちのことをちゃんと秘密にしてくれている。こうやって映研のメンバーと話していても、接し方は以前と変わらない。
けど、いわゆる「つきあっている」らしい行為は毎日の電話だけで。本当につきあっているといえるような関係なのか、わからなくなる。それでも、今の僕には、これまでは先輩の授業の時間に合わせて食堂にきて、週に何度か会って話すだけが精いっぱいだったのに、毎日先輩の声を電話越しに聞ける。その甘美な権利があれば、十分だった。
「あ、そうだ青葉。来週の金曜にさあ、看護学部の子との合コンあるんだよ。お前もこない?」
気軽に青葉先輩の同期がはなった言葉は、そんな浮かれ気味だった頭を覚ますにはてきめんだった。
サークルでは青葉先輩の同期、僕の先輩にもあたる三年生のジョージさんは、サークル内でもムードメーカーで、飲み会や、そういった合コンの企画を立てるのが好きなひとだ。もう試験期間が終わる金曜に合コンの予定を立ててるなんて、ほんとうにこの人らしい。同期の女子が「また合コンですかー」なんて茶化してる。
そして、青葉先輩はこういった合コンによく誘われる。先輩は見た目もかっこいいし、女性にたいして優しく接する。これでモテすぎたら逆に呼ばれなくなるんだろうけど、青葉先輩は他の人が狙っている子がいる合コンにいったら積極的にその応援をするから、合コンの面子として最適だ。まあ、青葉先輩も合コンで会った女の子と仲良くなって、そのあと遊んだりすることも、よくあることらしいのも知っている。
書き込んでいたペンを持つ指先から冷えていく。先輩はなんて答えるのか、聞きたいような、聞きたくないような。僕の神経は隣に座っている人へ、左側に集中する。
「んー……いいや、オレはパスで」
「えーなんでだよ。お前、いまフリーだろ? あっちも結構かわいい子集めてるみたいだし」
「来週の金曜は予定があるんだよ。他あたってくれ」
さらっと、ごく自然に、角を立てずにきれいに先輩は断った。
断ってくれたことが、素直に嬉しい。けど。
それ以上に、口から吐き出しそうな罪悪感が襲ってくる。
本当に約束があったのかもしれないし、ただたんに乗り気じゃなかったかもしれない。それでも、先輩は、僕と「浮気はしない」と約束した。
きっと、合コンは、先輩にとって浮気にあたるんだろう。
その約束を守るために、僕との関係を秘密にしたままで、「予定があるから」なんていう嘘をつかせたのかもしれない。少なくとも、僕は先輩から、来週予定があるなんてこと、聞いてない。
僕のせいで、先輩に嘘をつかせたんだとしたら。
自分が嘘をつくよりも、誰かに嘘をつくことを強要するほうが、よっぽどひどい。同性愛を隠すために、その場をうまくとりつくろったり簡単な嘘を吐くことは当たり前のようにしてきた。そうしないとゲイを隠して生活することなんでできないから。だけど、先輩はそうじゃない。先輩が先輩の友人に嘘をつくことになったのは、僕のせいかもしれない。
そう気づいて、いまさら、僕はとんでもない大罪を犯したんじゃないのかと、血の気が引いていく。
もしも、僕のせいで。
先輩は「つきあってる人はいない」と言い続けることになって、こんな風な誘いを嘘をついて断っていかなきゃいけないとしたら。
そんなの、僕は。
「じゃあ、コーヨーは?」
「……っ、え?」
一瞬、誰から何を言われたかわからなかった。
ジョージさんが僕のほうを見てきていた。
話の流れから、青葉先輩に断られたから、僕を合コンに誘っているんだと気づいた。
数合わせのための合コンなら何度か行ったことはある。当たり前だけど、彼女を作るなんていう気はさらさらなかったから、いつも無難に終わらせていた。
どうしよう、と左にいる先輩の顔を見たくなって、我慢する。ここで先輩の様子をうかがうなんて、そんなのおかしい。大体、先輩が断ったんだから、僕だってはっきり断るべきだ。
答えるべき選択肢は決まっているのに、僕はさっきの動揺からすぐに戻ってこれず、うまく口がまわらない。
「あ、え、っと。ぼく、は」
「コーヨーはダメ」
どうやってうまく断ろうかと逡巡していたら、左側からはっきりした拒否の言葉がした。
え、と思わず我慢していた左を見てしまう。青葉先輩は、頬杖をつきながら僕が渡したノートに目を落としているだけで、僕のことも合コンを誘ってくる三年生のほうも見てない。
「えー。なんでコーヨーの予定を青葉がダメっていうんだよ」
「その日、オレがコーヨーと飲みいくって約束してんの。だからオレもコーヨーもパス」
そんな約束していない。
先輩はくるくると右手でペンを回して、もうその話題に興味がない、という様子だった。
「予定って、コーヨーとの飲みだったらそう言えよな。じゃあ二人一緒にくればいいじゃん」
「そうやって誘ってくるってわかってたから言いたくなかったんだよ。オレはコーヨー大明神にたまりにたまった代返のツケと、このノートのお礼をしなきゃいけないんだよ」
「合コン代をお前持ちにすればいいじゃーん」
「あのな、オレが大明神にどれだけツケ溜まってると思ってんだよ、合コン代じゃ釣り合わねーの」
「いや、どんだけ後輩にツケためてんのよ」
「そりゃもう、夏季休講はじまる前に返しとかないと、後期でツケる予定の分で破産しそうなくらい」
「今から後期のツケの予定あんのかよ! コーヨー、お前、めちゃくちゃ高いもん奢ってもらえよ?」
「え? あ、はい。やっぱ回らない寿司がいいかなー、って考えてるんですけど」
「え、うそ、待って、コーヨー。やっぱツケさあ、分割払いできない?」
先輩はいたずらっ子のようにこちらを見てくる。無邪気な、悪ガキみたいな顔。
合コンを誘ってきたジョージさんも、もうそのことはいいようで、楽しそうに笑っている。
約束なんてしてない。奢らせる気なんかまるでない。ツケ、なんていつも先輩とのやりとりのお決まりのネタっていうだけだ。
だからこれはぜんぶ嘘でしかなくて。なのにみんな楽しそうにしてて。ああ、こんな風に、自然に、みんなの雰囲気を楽しくさせる先輩が。
青空に目がくらんだように、太陽の光から目を守るように目線をそらす。
「分割払いしてたら利子がたまりますよ?」
「利子制度あったのかよ。もう破産決定したわ」
先輩がいうと他の人も笑う。
「つーか試験後の話よりも、まず試験対策しなきゃいけねーだろ」「食堂でまともに勉強できるかよ」「それもそうだな」と、話題はすっかり変わる。
そんな中、僕は追従して顔は笑っているけど、胸のあたりに熱いなにかと、冷たすぎるものが二つ同時に存在していて、外面を装うのに必死だ。
ピアスを触ろうとした手を、反対の手で止める。指先は本当に冷えていて、思わずさすってしまう。
「ん、コーヨー、寒いの?」
「え」
まさかそれを見とがめられるとは思わなくて、また返事ができなかった。ああ、先輩に嘘までつかせてるんだから、僕は、僕はもっと、平気なふりをしないと。ちゃんと、ただの後輩をやらないと。
「今日、思ってたより涼しくって。薄着にしすぎました」
「あ、わかるー。昨日まで暑かったのにねー。暑いの続くのもイヤだけど、いきなり気温下がるの困る」
「そうそう、しかもさっきの教室でクーラーあたるとこにいちゃって、余計冷えたみたいで」
同期の女子の相槌に乗っかる。確かに昨日より冷えてるけど、我慢できないほど寒いわけじゃない。というか、さっきから動揺が激しくて、暑いのか寒いのか、正直わからない。
あたたかいものなんか頼もうかな、と言おうとして、止まる。
ぱさっと、横から、ぬくもりがかけられて。
「んじゃ、これ貸すよ」
肩にかけられてたのは、左隣の人がさっきまで着ていた、薄手の黒のパーカー。
持ち主を見ると、羽織っていたはずのパーカーはなくて、半袖になっていた、自分にかかっているパーカーはまだ暖かくて、ほんの少しだけ、先輩のにおいがして。先輩がよく着ているパーカーは、シンプルだけど、身長の高い先輩のスタイルがきれいに見えて、とてもよく似合ってるなと、何度も見ているもので。
それが今、肩にかかっていて。
え、え、と頭が回らない、回るわけない。
「青葉さん、そういうところ優しいですよねー」
「そうか? まあ、これでちょっとツケの分割払い許してもらえたりしないかなあ、って思ってるけどさ」
「下心ありありじゃん!」
「せんぱ、い。ダメですよ、先輩が寒くなっちゃいますよ」
「うん? オレはへーき。コーヨーは風邪ひかないようにちゃんとそれ着ろよ。ああ、結構長いこと着てるやつだし、別に返さなくていいから」
少しの抵抗を試みたけど、先輩の笑顔がすべて封殺して。
「お前、いらなくなった服を後輩に押し付けてるだけじゃねーの?」「そんなことしねーっての」なんていうやり取りを聞きながら、僕なんとか「ツケ代でいただきます、ありがとうございます」という声をひねり出して、先輩のパーカーを改めて羽織った、
先輩のぬくもりと、匂いが包んでくるようで。
僕は顔を見られたくなくて、周りから視界を遮ろうと、パーカーのフードを被った。
そうすると、余計に、香水の香りもなにもない、先輩だけの匂いが僕の全部包むようだった。
◆
それから青葉先輩はなにかにつけて自分のおさがりを僕にくれるようになった。
例えばそれは、日差しがまぶしい日に。
「今日太陽めっちゃまぶしいなー」
「あーそうですね。そういえばなんか帽子買おっかなあ……」
「ん? コーヨー、帽子買うの?」
「僕あんまりそういうの持ってないんですけど、寝ぐせ隠せるし便利そうだなーって…」
「じゃーこれれやるよ」
そういって、いままさに自分がかぶっていたキャップを僕の頭にのせたりして。
例えば、本当にたまたま、提出用のプリントに名前を書こうとしてペンのインクが切れた時に。
「あ、インクきれた。生協で買ってこなきゃ」
「これ使えよ」
「あ、ありがとうございます。……書き終わったんで、先輩、これ」
「あーいーよそのまま持ってて。ペンないと不便だろ」
そうやって返すことを許されず、結局借りっぱなしになったただのボールペンとか。
このあいだは、たまたまずっと先輩のバッグにつけっぱなしだったピンバッジをほとんど無理やり僕のバッグにつけたりしてきた。
だいたいそうやって先輩の持ち物をもらうときは、周りに映研のメンバーがいて、「青葉、またそうやってツケ払ってるのか」「あとどれくらいツケ残ってるの?」と、だいたいがツケの支払いのネタとして笑ってる。
少しずつ増えていく、先輩の持ち物だったものに、さすがに僕も先輩は何を考えてるんだろうと思って。けれど、最近は食堂も試験前で人がいてなかなか聞けない。
電話で聞いてみようかとも考えた。
でも、僕からはまだ一度も電話をかけたことがない。
先輩と約束してから10日経つ。僕はいつも先輩の名前をスマホに表示することまではできても、そこから電話をかけることも、なんならメッセージひとついれることもできなかった。
一人、部屋の中でスマホをじっと眺めて、先輩から電話がくるのを待っているだけ。
それは、先輩もまだ試験期間中で、いつ手が空いてるかわからないとか、もしかしたら他の人と一緒にいるかもしれないとか、そういう理由もあるけれど。
僕からの電話で、もし先輩を煩わせたら。考えただけで左耳のピアスが痛みを覚える。
シャワ―を浴びて、夕食を食べて。スマホを横に置きながら自分の課題を解いていたら、もう時間は23時50分になっていた。
先輩の電話は、いつもだいたい21時とか、22時とか、そういう時間帯が多い。決して日付がこしてから電話がくることはなかった。
今日はなにかあって先輩も電話できないのかもしれない。
もしかして事故とか、という考えもよぎったけど。きっと、試験の気分転換に飲み会に行って酔ってしまったとか、そういうことだろう。
一日一回電話すること、と約束したのは先輩だ。このまま酔って電話がなかったら、連続十日間の電話記録が途切れてしまう。そうすると、先輩は意外とマメな性格だから自分で自分の失敗に落ち込むかもしれない。
それなら僕から電話をかけて、ワンコールで電話をきれば着信は残る。一応電話をかけたということにはなる。そうしたら、先輩も明日には「出られなくて悪かったな」と笑って終わらすかもしれない。
ワンコール。それで切るだけ。着信画面に僕の名前が残ればいい。それだけ。
そう、着信を残せばいいだけ。
本当は、先輩の声が聞きたい、なんて、欲張りな心はあっちゃいけない。
毎日電話をしていたせいで、毎日先輩の声が聞けるしあわせに慣れ切って、僕の心はもっとあさましくなってしまったようだ。
声が聞けなくて、さみしい、なんて。
僕がそんなこと思っていいはずないのに。
深呼吸して、ピアスを触る。その感触を確かめながらスマホを見つめる。23時54分。もう日付が変わってしまう。スマホの画面に表示される『三木 青葉』の名前を見つめる。
先輩の名前を押して、つながったら、切る。それだけ。ふうっと息を吸って。息を止めたまま、指を動かそうとして。
スマホが音を立てた。
反射的に画面に触る。
「――っあぁー……まにあった? まだひづけ、かわってない? こーよー」
いつもよりくぐもった、どこか幼いしゃべり方をした青葉先輩の声がスマホ越しに聞こえる。
「ごめん、レポート書いてたら、寝落ち、しちゃって。いまおきて……いそいで、でんわした。んんー…こーよー? きこえてる?」
「は、はい、先輩」
「おれ、まにあった?」
「……はい、ギリギリ、日付変わる5分前です」
「そっかあー……あぁーよかったあ。うん、こーよーのこえ、ちゃんと今日も、聞けてよかった」
本当に寝起きなんだろう。間延びして、あくびをかみ殺したような声音。向こうでガサガサいってるのは、レポートを片付けてるのかもしれない。
こんな風な、無防備な先輩の声なんて聞いたことがないから、僕の心臓はいやがおうにでも跳ね回る。
「まじでぎりぎりじゃん……あー寝すぎた。やべえ、明日の一限テストなのに……レポート終わってないし……こーよーが早く電話してくれたら、それで起きれたかもしんなかったのになー」
「……夜にモーニングコールとか、そんなこと思いつかないじゃないですか。飲みにでも行ってるのかと思ったんですよ」
「んんー? 飲み行くときは、こーよーに連絡するよ。あたりまえじゃん」
あたりまえ。それはあたりまえなのか。
先輩が誰かとどこか行くとき、前もって教えてくれる。それが、今の僕の、あたりまえ? それはなんで。
「あーでもほんとやべえ……ちょっとシャワーはいって頭さましてくるわ。とりあえずレポート終わらせなきゃいけないし……明日、早く起きてテスト準備だけやんなきゃなあ。起きれるかなあ」
「はは、頑張ってくださいよ。それか本当にモーニングコールしましょうか?」
「え、いいの? まじ? お願いしたいんだけど」
頭がふわふわしていて、先輩の声は子供っぽくてかわいくて、いつもなら言わないような冗談を言ってしまっただけなのに、先輩はとてもとてもうれしそうな声で。
「……僕も起きれるかわかんないですけどね。何時ですか」
「んー……六時半……は、さすがに起きれないなあ。七時とか」
「それくらいなら自分で起きれるんじゃないんですか?」
「いやあーレポート片付けるのにあと二時間以上はかかるし、朝苦手なんだよ。目覚ましセットしても気づかないし」
「それ、僕が電話しても気づかないんじゃないんですか」
「んー? コーヨーの電話なら、起きるに決まってるじゃん」
さらりと。本当に自然に言うから。
それがどんな意味で、どうしてそんな根拠があるのか、聞きたくても聞けないくらいで。
電話越しに先輩のあくびが聞こえる。
「ああーまじでやばい。とりあえずシャワーいってくるわ。明日の朝、ほんとにお願いしていい?」
「……いいですよ」
「んじゃ頼んだ。それじゃおやすみ、コーヨー」
「……おやすみなさい」
電話の終わりに必ずかわす、おやすみ、という言葉を交わして電話をきる。
鏡を見なくても、触らなくてもわかる。
きっと僕の顔は、いまピアスに負けないくらい真っ赤に染まってるだろう。
明日の朝、僕はちゃんと普通に電話をかけられるだろうか。
たった7時間しかない。徹夜して7時になったらモーニングコールしようか、なんてバカなことを考えるくらいには、こうふくと緊張と不安でいっぱいいっぱいだった。
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