3 菖蒲(アイリス)
第5話 「次はオレが起こしてあげるよ」
朝。
目覚ましは六時半にセットして、ちゃんと寝たはずなのに。深層心理はだいぶ緊張していたのか、六時に目が覚めた。
床に座って、スマホをじっと見つめる。
『三木 青葉』という文字列が表示された画面。
その文字列を見て、時間を見て、ということを何度も繰り返す。
早く7時になってほしいような、なってほしくないような。一分が一時間に感じるような。
それでも時は過ぎていって、時計は「6:57」を示している。
何度も何度も深呼吸を繰り返し、スマホを握りしめる。
大丈夫、これは先輩にお願いされた電話だから、自分から電話しても大丈夫。
朝だから、先輩は寝ぼけて、モーニングコールの約束も忘れて、機嫌悪そうに出るかもしれないけど、起きてさえくれれば約束は達成できる。
もしも、一度の電話で出てもらえなかったら。
二、三度は出るまでかけなおすべきだろうか。もしこれで先輩が寝坊して試験に間に合わあなかったら、まずい。だけど起きるまでかけつづけたらそれはそれで迷惑になるんじゃ。
ぐるぐると悪い考えが浮かんでは、また新しい不安が浮かんでくる。止まらないマイナスの連鎖反応に、決心が鈍りそうになる。
もう一度深く息を吸って、左耳のピアスを触る。耳たぶから血がでそうなくらい力を込めて。
時計が「7:00」を表示する。
僕は『三木 青葉』という名前を押した。
軽快なメロディがスマホを当てた右耳から聞こえる。
1コール目。
左耳のピアスは握り込んだまま。
2コール目。
楽し気な呼び出し音の音楽が気持ちとあわない。
3コール目。
先輩は電話に気づかないんじゃないか。このまま鳴らしても意味がないんじゃないか。
4コール、5コールと軽快な呼出音が無感情に鳴るだけ。7コール目になってもでないなら一度切ろう。先輩が気づかないなら意味がない。6コール目。ふう、と息を吐いて、ずっと左耳を握りしめていた指を離す。7コール目。
ぴ、とメロディが途切れた。
「………んー……はい」
かすれて、くぐもった声。
ほとんど吐息と一緒にだされた声に、全身が硬直する。
一度も聞いたことのない、無防備で、気だるげな声音。でも、絶対聞き間違えることのない声。
その声は右耳を侵して、そのまま脳を侵食して、正常な思考を止めてくる。
どうしよう、なにか言わなきゃ。あいさつ。朝のあいさつ、なんて言うんだっけ。ああ、その前に、名前を言わなきゃ。きっと画面も確認しないまま、半分寝ている状態で電話をとったんだろう。だから、まず名前と、それから。それから。
完璧にフリーズした頭と体は何一つ自由がきかない。まるで人形になったみたいだ。
ああ、どうしよう、このままじゃ先輩また寝ちゃうんじゃないか。なんとか、起こさなきゃ。なにか言わなきゃ、言わないと。
何を言うべきかわからないまま口を開こうとして、また止まった。
「……みつひろ?」
開こうとした口も、自分の周りの世界も、心臓も、絶対に、今、完全に止まった。
なんで、いま、その四文字。
疑問形だから、やっぱり、着信画面なんて見てないんだろう。誰からの電話かなんて、きっとわかってないはずなのに。
なんで、それで、そんな声で、いつも呼んでる名前のほうじゃなくて、そっちで。
「……んー、みつひろ?」
「は、い」
「なんだよー……はやく返事しろよー……あぁー…いま、何時?」
「しちじ、です」
「はや……あー、そうだ、起こすの頼んでたんだっけ。ありがとーな……やべえ、また寝そう。なんかしゃべって」
「……せんぱい、おきてください」
「はは、なにそれちょうてきとー」
「また寝ないでくださいよ。ほら、体おこしてください」
「んんー……わかったよ」
「……先輩」
「ん?」
「……なんで僕って、わかったんですか」
この言い方じゃ、何が言いたいか先輩に伝わらないに決まってる。
名前を呼ばれた衝撃からまだ頭は立ち直ってない。しかも先輩の寝起きの声は、不機嫌どころか、やさしくて、こどもっぽくて、それなのにささやくようにゆっくりと話すから、右耳から脳へ心臓へ身体中へ甘いシロップみたく侵蝕していく。
ああ、ちゃんと言わなきゃ、というかそんなこと聞いてどうするんだ。撤回しよう。そうしよう。
「あの、」
「ん? そんなの、みつひろからの電話なら、わかるよ」
撤回しようとした言葉は紡げないまま、僕は間抜けに口を開きっぱなしになったまま固まった。
まるで理由になっていない理由。
言葉の意味は理解できないまま、右耳からじわじわと、頭を侵していって、僕の思考を止めさせる。
電話の向こうで、くすくすと、たのしそうに笑っているのが聞こえる。
「あー、朝から声聞けるってのもいいなあ。癖になるかも」
「……まいにち、モーニングコール頼む気ですか?」
「ツケもっとたまっちゃうなー。次はオレが起こしてあげるよ」
「……朝は強いので、大丈夫です」
先輩からのモーニングコールなんて、もしされるならきっと徹夜して待ってしまうだろう。緊張して眠れるわけなんかない。
もし起き抜けに先輩の声を聞いたりなんかしたら、いらないことを口走ってしまいそうだ。今でさえ、どの言葉を出すのが正しいのかわからなくて、ふわふわとしてぐるぐるしてる頭の中で、必死に単語をつかもうとしてるのに。
「せんぱい、準備、しなくていいんですか」
「ん、おかげで大分頭起きてきた。まじでありがとな。また後で連絡する」
逃げるような返事をすると、だいぶいつもの声音に戻ってきた先輩は答える。
「ああ、そうだ。あと、おはよ。コーヨー」
「……おはようございます」
あとでな、と言って、電話は切れた。
時間を見ると、5分ほどしかたってない。
へなへなと、腰が抜けて床に崩れ落ちる。
身体中の熱があつまってるくらいに熱すぎる頬にあたる冷たい床がきもちいい。
でも、この熱は簡単に消えてくれそうにない。
「……さすがに、これは、ずるすぎる」
たった5分。でも、その5分は、あまりにもあまくて、ずるくて。
誰からの電話なんて、寝てたらわかるわけないのに。モーニングコールを頼んでたことも忘れてたくせに。
なのに、ぼくからの電話ならわかるなんて、そんなことあるはずないのに。
しかも、名前を、呼んで、そんなこと。
それに、おはよう、なんて。
おやすみとはまた違う、あたりまえの挨拶が、特別なものになって。
「……朝からこんなふうになるの、やばすぎる」
声にならないうめき声をあげながら、寝ぼけた先輩の声を反芻していたら、案の定、自分が遅刻しそうになった。
◆
今日はレポート提出だけだったので、なんとか平常心を装えた。筆記試験の授業があったら単位を落としていたかもしれない。
暑くなってきたので、先輩のパーカーは着ていない。かわりに先輩のキャップはかぶっている。
一度恥ずかしくて身に着けていかなかったら、それを見た先輩が不満そうな顔をしたのでなるべくキャップはかぶるようにしている。
そういえば、今朝の電話、録音しておけばよかったな、なんて不真面目なことを考えながら授業に出席をしている最中に先輩からメッセージがきて、思わず席から落ちそうになった。ふらちな考えを見透かされたのかと、必要以上に焦ってしまった。
『朝はさんきゅー。おかげさまでちゃんとテスト間に合いました。こっちは三限終わり。バイト夕方からなんだけど、なんもなければそれまでどっか行かない? 朝のお礼でおごる』
五回くらい読み直してから、『こっちも三限で終わりです。お腹減ってないんで、正門前のカフェとかどうですか』と送った。お腹が減ってないのは朝から胸がいっぱいすぎて、本当に食欲がないからだ。あと、本気でツケの奢りなんて求めてないから、安くすませたほうがいい。
『わかった。終わったら正門のとこで待ってる』
待ってる。先輩が僕のことを待つ。なんだそれ。というかこれは待ち合わせ、というものか。
いつも食堂でなんとなく顔を合わせる、くらいしかしてなかったからこんなの初めてだ。
十回くらい読み返してから、『わかりました』とだけ返した。
四限の授業はあったけど、課題のレポートだけ先に提出してサボることにした。
◆
三限が終わって、ほとんど走るようにして正門へ向かう。
ああ、こんなことなら三限もサボればよかった。どうせレポートを提出して終わりだろうと思ったのに、先生の話があんなに長くなるなんて予想外だった。
先輩を待たせていたらどうしよう。もしも待たせて、退屈させてたら。そんなことになったら三限担当の退官間近のあの教授にカラスの糞にあたる呪いでもかけようか。
もうすっかり夏の中、走るから汗が流れる。
心臓がバクバクしているのは暑さと走ってるせいだ。
遠目からでもわかる。晴天の空の下、門にもたれかかって、涼し気な白の半袖に薄水色のクロップドパンツ。
急がなきゃ、と足を加速させる。
「――せんぱいっ!」
スマホを見ながら音楽を聞いてた青葉先輩は、イヤホンを耳から外して顔をあげる。
そして僕を見て、いつもの夏のような笑顔をする。
「お、コーヨー。そんな急がなくてもよかったのに」
「…っ、すみませ、授業終わるの、遅くなって……」
「いーって。あーもー暑い中そんな走って。なんかふくもんあったかなー。あ、これ使えよ」
先輩がバッグから出したのは、まだ透明な包装紙に包まれたままの、有名キャラクターの顔がついたタオル地のハンカチ。明らかにサンプル品のような安っぽいそれは、道で配られてたか、なにか買った時のおまけでついてきたのだろう。
汗だくというほどでもないが、顔や首がじんわり汗ばんでいる。ありがたくそれを受け取った。新品未開封のおまけ、というのが受け取るハードルが低くなる。
じわりとした肌を、ざらついたタオルで素早くふく。
「すみません。汗臭くなってるかも」
「んー? そんなことないと思うけど。どれ」
そういって、急に先輩は身をかがめた。
僕の顔の横に、青葉先輩の頭が近づく。
その距離は拳一つ分も離れていなくて。ぴきり、と僕は固まる。
先輩は僕の耳と、首あたりを、すん、とにおいをかいでから、頭を上げる。
「コーヨーのにおいしかしないよ」
かろやかに笑って、「じゃあ行くか」と先輩は身をひるがえす。
僕はあぜんとしてから、慌てて追いかけた。
もらったタオルで顔をふくふりをしながら、顔の赤さを隠そうとした。
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