第6話 「二人がいいんだけど」


 先輩のバイトは夕方からだというから、塾と大学の間くらいにあるチェーン店のカフェに入った。


「ここと同じとこだったよな、コーヨーのバイト先」

「そうです。南門側にあるほうですよ。こっちはあんまりきたことないですよね」


 選んだところはバイト先と同じ系列のカフェ。とはいっても、南門側は学生の利用多いのに対して、予備校や塾、オフィスビルが多いこのあたりのこの店は意外と学生が少ない。正直、知り合いに会う可能性が低いというのもあってここを選んだというのもある。

 先輩は新商品を一度は試したがりで、甘いものが好きでも苦手でもないのに、夏限定新商品のキャラメルナッツのアイスが乗っかったアイスカプチーノのストローをくわえてる。


「もうすぐで休みだなー。コーヨーは実家帰ったりするの?」

「あーうちは……飛行機じゃなきゃ帰れないし、なんもない田舎なんで。正月に帰ったから、今年はいいかなあって」

「ふーん。まあオレも電車で2時間くらいだからなあ。お盆に一日か二日帰るくらいだな」

「先輩の家ってそんな離れてないんですっけ」

「まあ実家から通うってなったらきついから、こっちで一人暮らししてるけど。医学部の従兄弟も一人暮らしだしなあ」


 「あー、従兄弟にも帰省いつにするか確認しないとなあ」とぼやく先輩に、僕は固くなりそうな顔を気づかれないようにとりつくろう。

 ほんとうは実家に帰りたくない理由は遠いとかそういうのだけではない。

 家族にはゲイということを隠している。自分が長男であることや、何気ない両親の期待や、小さな町のなかでゲイを隠して生きていくことは息苦しくて、帰りたくないだけだ。大学進学を理由に故郷を離れたのも逃げたのに近い。

 けどそんなことを正直に話すのは、自分の重たさを背負わせるようだから、誤魔化してアイスコーヒーを飲む。


「んじゃあ休み中の予定は?」

「えーと、今のところ、8月のはじめの集中講義……くらいっす」

「ガチ班の合宿は?」

「まだ返事してなくて。青葉先輩は今年も行くんですか?」


 ガチ班、というのは映研の中で真面目な活動――といっても本当に弱小サークルの真面目の範囲内だが、映研らしく自主映画を作るひとたちのことだ。

 カメラや機材を自分たちで用意して、夏季休暇に海や山の近くのコテージを借りて自主映画を撮影するという、一週間くらいの合宿を毎年行っている。コテージとか撮影所は、だいたいガチ班の親戚やOBのコネで格安で借りれるらしい。

 ガチ班以外のひとも『合宿』という響きと夜の飲み会目当てに、臨時の手伝い役として合宿に行くひとも何人かいる。同じ映研の中で臨時の手伝い、という言い方が正しいのかはわらかないけれども。


 去年は、僕は行かなかった。


 本当は映研のガチ班の班長には誘われていた。もともと映研に入った理由は高校で放送局だったからというのもある。音響や動画編集なんかの知識がただの素人よりはあったし、それを見込まれてガチ班から誘いがあった。

 ただ、合宿は邪魔さえしなければ映研以外の人間も参加できる。

 去年、僕が一年生の時、青葉先輩は当時付き合っていた彼女と一緒に合宿に参加すると聞いたから、僕は合宿に行かなかった。

 元々、空気を読んだり気のきく先輩はガチ班から手伝い役として重宝されてる。だから今年も青葉先輩は行くんだろうな、となんとなく思っていた。


「んー、オレはコーヨーが行くなら行くかな」

「え?」

「え? いや、オレべつに特別撮影が好きとかじゃないし、頼まれたから行ったりするけど、恋人放って行くほどでもないし。それならコーヨーとどっかに遊びにいったりしたい」


 ものすごく、なに当たり前のことを言わせてるんだ、というような顔でこちらを見る青葉先輩の顔をまじまじと眺めてしまった。

 ひとことひとこと、遅れて頭の中で組み立てて、単語の意味を脳内辞書で照らし合わせて。意味に気づいていくほど、心臓がじわじわと口から飛び出そうだった。

 つまり、先輩は夏の予定を、僕とあわせて、過ごそうとしてて。

 というか、最初から休みの予定を聞いていたのは、そういう意味だったかもしれなくて。

 それよりも何よりも。

 さらり。と。当たり前のように。自然に。なんの重さもなく放たれたけれど。

 恋人、と。

 青葉先輩は、はっきりと、そう口にして。

 

 ああそうか、つきあう、って、こいびとどうしになるっていう、いみだったっけ。


 たぶん、ずっと、それを、イコールで結びつける考えを、きっと無意識にさけていた。

 恐れ多いような、それを認識するには自分があまりにも不釣り合いすぎて、あえて考えないように誤魔化して、その単語から、逃げていた。

 でもいま、先輩はさらっとその言葉を使って。


 夏季休講の予定を合わせたり、電話していいのも、そういうものは、先輩にとって『恋人』への当たり前なんだと。

 そういうことをしてもいいんだよ、と先輩が許して僕に与えてくれるもので。


 いろんなことが結びついて、体温が一度上昇した気がする。いや、絶対熱がでてる。

 からからになった口内を誤魔化すためにアイスコーヒーを飲む。味はまったくわからなかった。


「まあけど合宿はけっこー楽しいよ。ガチ班の熱意につきあうのは疲れるけど」

「そ、ですね。せっかくだから、合宿、行きます」

「お、ほんと? コーヨーと一緒の合宿ならすっげえ楽しいだろうな」


 てらいなく笑う先輩は、海の上で光る太陽みたいで。

 その笑顔だけで、夏の気配を感じてしまう。

 僕が参加したって、合宿ですることなんて特に変わりはない。撮影の手伝い、バーべーキュー、朝までの飲み会、あとはたぶん花火だとか肝試しとか、そんなところだろう。

 なのに。そんな夏そのもののような笑顔をするから。


「あーそれと、次の金曜。コーヨーあいてる? 試験終わりだろ?」

「え、はい。バイトは一応、来週からのシフトにしてもらってるんで」

「オレは、合コン断る口実だけじゃなくて、ほんとにコーヨーとどっかに飯食いにいきたいんだけど、どう?」


 あの時。合コンに誘われた先輩がついた嘘。

 それを本当にしようと、先輩は笑う。


「あ。もちろんオレが奢るから」


 そんなことをするから、言うから。僕はどんどん勘違いしてしまいそうになる。


「……回らない寿司ですか?」

「それはまじで破産するから許して。デパ地下の寿司とかじゃダメ? あ、そうだ。なんならデパ地下いろいろ買って、オレの家で飲む?」


 名案、とでもいうように提案する先輩の言葉に、熱くなっていた身体がすっと冷える。

 ああ、何を浮かれていたんだろう。


「……別に、寿司じゃなくてもいいですけど」


 先輩の家には何度か行ったことがある。もちろん映研のメンバーと一緒だったけど。

 訪れた部屋の間取りは鮮明に思い出せる。少し大学から離れている分、家賃がそこまで高くなくて、うちよりも新しくて広いアパートの1DKの部屋。

 大学生らしく、多少ものは散らかっているけど、ふしぎと落ち着けるくらいの部屋。紺色のラグ、青のファブリックソファ。差し色は若葉みたいな緑のクッション。そんなに大きくないテレビがあって、シンプルなデスクの上に教科書が積まれて、ノートパソコンがおいてあって。

 リビングにはいってすぐのところに、背の低い、立方体を組み合わせたような棚があって、その上に先輩は鍵や郵便を置いていて。

 その四角い棚の一段に、香水や、オシャレなアロマポットが、腕時計が、用途の統一性がなにもなく置かれていて。その隅に、シンプルな蓋つきのアクセサリーケースがあって。

 きっと他の人だったら、詳しく聞かなければただのインテリアだと思って気にも留めないだろう。

 だけど、見た時に、すぐわかった。ああ、これが、って。

 あの棚の、あの立方体につめられた空間が、まだあるなら、僕は。


「居酒屋とかでもいいですよ、焼肉とか、先輩、肉好きじゃないですか」

「んー、まあ好きだけど。コーヨーはそんなに食べるタイプじゃないだろ? 酒は結構強いけど」


 確かに先輩がいる飲みで、我を忘れるような飲み方はしたことはない。

 多少強いのもあるけれど、それ以上に先輩の前で醜態をさらしたときに何を言い出すかわからない怖さがわからなかったからだ。


「一度コーヨーと本気で飲み比べしたかったんだよな。それなら家のほうがいいだろ?」

「それなら、僕の家のほうがいいんじゃないですか?」

「うーん……」


 珍しく端切れの悪い様子だけど、僕はどうにか先輩の家に行くのを回避したかった。

 ずっと頭の中で再生されている、先輩の棚の一角。

 柑橘系の香りのする香水。先輩自身じゃ絶対買わないようなアロマポット。隅におかれたアクセサリーケース。

 香水は前の前の彼女からもらったもの。アロマポットは前の彼女。アクセサリーケースには、歴代の彼女からもらった腕輪や指輪がそこにいれられているのを知っている。

 それが、いまだ前の彼女たちに未練があるだとかそういうものではないってわかっている。

 ただたんに捨てるのが面倒で、先輩にとってはわざわざ捨てるまでもなくて。だから、あの棚の一角に無造作に詰め込まれている。今まで先輩がつきあった『恋人』たちからもらったモノたち。

先輩にとっては、ただ置いているだけにすぎない。

 だけど、あの棚の一角を見る度に、先輩がいままでつきあってきた、横に並んできた女の人を思い出して。

 止めようもない、暗い暗い燃えるような衝動に突き動かされて。

 だって絶対にそこに自分は立つことはないと思っていたから。諦めていたから。そこに立つことができた人たちがいたことを見せつけられているようでだから先輩の部屋に行きたくなかった。

 その棚は、僕の願いは絶対かなうことはないのだという、おそろしいものの象徴だった。

 それは、たとえ今でも。


「コーヨーの家だと、他のやつらがくるかもしんないじゃん」

「ああ……まあ、たまにきますね」


 よく宅飲みの場所に使われている僕の家は、そこで雑魚寝して泊っていく友人や映研のメンバーも多い。その気安さからか、終電を逃したり酔った友人たちが突然訪れることはままあった。先輩の家は少し遠いから、そういった気安い使われ方はしない。

 それがどうしたのか。

 ぐるぐると頭の中でノイズのように走る棚の映像から、逃げるようにいつの間にかうつむいていた顔を先輩のほうを見る。

 そして息が止まる。


「……オレはコーヨーと二人がいいんだけど」


 照れくさそうに、大きな手で口元を隠して。

 うかがうようにこちらを見てくるから。

 さっきまで支配していた記憶の映像は消え去って。その顔から眼が離せなくて。


「……わかりました。先輩の部屋で、いいですよ」

「……いいの?」


 こくん、と頷けば。先輩は嬉しそうに目を細めて。

 ああ、本当に。

 先輩から、そんなことを言われてどうして僕が断れるだろう。

 そもそも二人で過ごすとか、家がどうのの問題以前に今日の待ち合わせであれほど心臓が破裂しそうだったのに僕は大丈夫なのだろうか。『恋人』という関係になったうえで。でも、今更撤回できなくて。

 誤魔化したくて、氷がとけて薄くなっているアイスコーヒーを握りしめて、別の話題を探す。

 頭を冷やしたい。青葉先輩が、僕みたく、恋人の家で二人で過ごすのが嬉しいなんて、本当に思ってるかなんてわからない。

 だから、浮かれた頭にもっと水をさしてほしい。先輩から現実を教えてほしい。 


「あの、青葉先輩」

「んー?」


 アイスとカプチーノが混ざって、全然別のものになってるものを飲みながら先輩が首をかしげる。

 

「最近、なんで僕にいろんなものくれるんですか?」

「あー……それなあ……」


 少し目線を漂わせて、くるくるとストローを回して、「んー…」と言葉を探してるようだった。


「なんつーのかなあ……んんー……マーキング?」

「……え?」

「だってさ、周りに秘密にしてくれっていうから。じゃあ、せめてオレのものをコーヨーが身に着けてくれたら、ちょっとは他のヤツらに、コーヨーはオレの、って、伝わんないかなあって」

「は」

「あとはー……純粋に、恋人への独占欲? コーヨーが身につけるのが、オレのものとか、オレが選んだものばっかになったら嬉しいなーって」


 「な?」と少し意地悪気に笑うけど、わざと恥ずかしさを隠すような笑い方で。

 おかしい。僕は。体温を下げたくて。浮かれた頭をもとに戻したくて。

 きっと、適当な理由だろう、深い理由なんてないだろうと、思ったから、聞いたのに。


「でも俺の服じゃサイズあわないだろうから、今度一緒に服選びにいこ」


 口元にあてた大きな掌の隙間から、少しだけ紅くなってる頬が見える。

 ああ、ずるい。


「いいです、けど」


 僕は顔を隠すほど大きい手はないから、せめてもの抵抗で顔を横に向けて、右手で自分の左耳を触ってかばうしかない。

 でもきっと、そうやってさらけ出された左耳は、先輩からもらったピアスと同じくらい赤いに決まっている。

 なんで、ああ、こんな簡単に、僕の熱も、思考も、全部、かんたんにおかしくされるのだろう。


「……コーヨーは、ないの」


 沈黙をやぶる声に、目だけをそちらに向ける。

 こちらの意思をうかがうような探るような目線が一瞬だけ、僕をまっすぐ射貫く。


「コーヨーは、オレにつけてほしいものとか、持っててほしいものとかは、ないの」


 けれど、すぐにいつもの青葉先輩になって、わざと拗ねたような声を出して、からかうように笑う。

 そんなことを言われても、僕は、今この左耳にあるピアスが。目の前の人が剥き出しにして身に着けている同じ色と形のピアスをしているだけで、それだけで嬉しくて。

 もしかしたら僕のもう一つの心臓はこの左耳にあるかもしれないなんて本気で思うくらいなのに。

 それ以上、僕のものを身に着けてほしいなんて浮かばない。

 そしてなにより。


「先輩、おしゃれだから、僕があげられるものなんて思いつかないですよ」


 香水やアロマポットや指輪のように。


「なんだ。なんか思いついたら言ってよ」


 いつか、終わったものとして、今までの彼女たちと同じ場所に仕舞われるのか。それとも、それすらもなく。


「はは、わかりました」


 それが知ることが怖くて。

 自分から何かあげるなんてこと、怖くてできない。

 手元のアイスコーヒーは氷がとけて、ただの水になっていた。

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