第2話 「じゃあ、オレもこれにしよっかな」

 何回目だったかわからないけれど、入学して少し経った頃の宅飲み上映会で、「ブロークバック・マウンテン」を観た。

 他のメンバーは酒が回った状態で見るには静かな映画過ぎて、途中から眠りこけていた。

 その時には自分がゲイだと自覚していた僕は、この映画のことを知っていたし、初めて見た時は号泣した。だけど、同性愛者を隠して生きる年数が長くなっていくにつれて、映画の中でさえ、周りから祝福されて結ばれるというありきたりなハッピーエンドも与えられないことが多い同性愛の映画を見るのが辛かった。映画の内容がいいだけに、余計に苦しかった。

 暗くした部屋で、体育座りでぼんやりと眺めてた。青葉先輩はソファに寄りかかってビールを飲みながら、静かに観ていた。

 やがて映画が終わってエンドロールが流れる。僕も先輩もエンドロールは最後まで見るタイプだった。

 でもその時は、エンドロールの最中に、珍しく先輩がポツリとつぶやいた。


「こういう悲しいの、なんか、やだな」


 その声は薄暗い部屋と流れてくエンドロールに紛れて消えて、僕は何も言えなかった。

 先輩もそのままなにも言わず、ただビールを口に含んでいるだけだった。その時の先輩の薬指には細い金色の指輪がはまっていた。お揃いの指輪をしているのは、先輩の同級生で、ふわっとしたパーマがかわいい女子生徒だというのは知っていた。

 それでも、僕にとって先輩が、ただの先輩じゃなくなったのは、この時だった。

 一年経った今でも、それはまるで変わらない。むしろ、磨けば磨くほど輝く宝石のように、その特別さは凝縮されて、僕の心を支配していた。



 目の前に並べられてるピアッサー。透明なプラスチックの包装から見えるそれは、白の長方形で、耳たぶを挟めるように片側だけあいていて、そこから針の先端がのぞいている。

 「針だけ売ってるのかと思ってた」という先輩に「それじゃただの安ピンで開けるのと変わりないじゃないっすか」と返す。

 ピアッサーなんてただの分厚いホチキスみたいなものだ。ホチキス側のピアッサーにはファーストピアスがはまってて、押し込むだけ。それで、穴がふさがらないようにファーストピアスは一か月くらい外さない。消毒とかちゃんとしたほうがいいんだろうけど、そこらへんは適当でもなんとかなった。


「開けたらすぐに好きなピアスつけられるんだと思ってた」

「ファーストピアスは普通のピアスよりちょっと太めなんですよ。すぐ外したりしたらふさがっちゃうかもしんないです。ピアスホール完成までの我慢です」

「ふーん。まあ適当なのでいっか」


 ピアッサーは大体シンプルなものが多い。先端が丸いだけのシルバーピアス。目立たないようにするための透明なピアス。それらを見て先輩は面白そうに笑った。


「誕生石ピアスって何これ」


 その中でも同じデザインだけど、色だけが違うピアスに先輩は目を止めた。

 同じデザインだけど、それぞれ色が違うファッションピアス。ただ、誕生石を模した色がついただけの、それっぽくカットされたガラス石。僕は左耳を触る。


「オレは7月生まれだからー……これか、ルビー」

「赤とか先輩似合わなさそう」

「失礼なやつだな、お前何月生まれ」

「え? 9月ですけど」

「じゃあこれか、サファイア。だからよく青のピアスつけてんのか」

「まあ、そんな感じで」

「お前はどれにしたの?」

「え? あー……僕も、誕生石から、選びました」

「そうなんだ。じゃあ、オレもこれにしよっかな」


 そういって先輩が片手に収めたのは、7月の赤色じゃなくて9月の青色。


「自分の誕生石じゃなくていいんすか」

「んー、まあルビーって柄でもないし。青だし、それにこれ、お前の誕生石なんだろ? ならこっちのほうがいいかな」


 え、とその言葉を飲み込めないでいるうちに、先輩はすたすたとレジに向かう。

 呆然として足を止めていて、ようやく動き出せたのは先輩が会計を終わらせたところだった。



 変哲もない学生用アパートの部屋。窓側にベッドを置いて、中古で買ったソファとテーブルがあって、向かいにはもらいもののテレビとDVDプレイヤー。教科書と漫画をごっちゃにして床に置いてある、普通のワンルーム。

 先輩は床に直接座って、テーブルに置いた鏡をのぞき込んでる。


「印つけるのって、こんな感じでいいの?」


 先輩の右耳には水性ペンで付けた小さな黒の点がある。


「大丈夫ですよ」


 僕は声を震わせないようしながらピアッサーの封を解く。それは重たい気持ちと裏腹にやけに軽くて、アンバランスだった。


「そういえば、片耳だけでよかったんですか」

「だってお前から余ってるピアスもらうのに、両耳開けたら一個足りなくなるじゃん」


 あ、ちゃんとお礼するよ、飯奢るし、なんて先輩は言う。

 ピアッサーの使い方は簡単だ。耳たぶを挟むようにピアッサーを構えて、針と耳たぶが垂直になるように印に合わせる。そして針とは反対の受け皿側のキャッチが入ってる四角い底を勢いよく押し込むだけ。


「あー緊張するー」

「僕だって責任重大だから、緊張してるんですよ」

「ごめんごめん。でもオレやっぱその針見るだけでも怖いもん」


 先輩が笑ってる。僕のことを無邪気に信じてくれてる先輩。

 座ってる先輩の横に膝立ちになる。いつもより近づいて、先輩がつけてる香水の香りが強まる。柑橘系と少しスパイシーな香り。前の前の彼女からもらった香水を先輩はそのまま惰性でつけている。その香水にまぎれて、ほんの少しだけ先輩自身の汗の匂いがする。

 ピアッサーを構えて、銀色の針の先端を耳たぶの印に合わせる。

 その時、骨ばった薄い耳の、ひやりとした肌の感覚が触れて、僕の指は止まる。

 まっさらな、傷一つない耳。そこに今から、針を通して、穴を開ける。僕の手で。

 その想像だけで身体がぞくぞくと熱くなる。

 だけど、先輩は僕のことをただ信じてくれていて、僕が先輩の耳に少し触れただけで呼吸が止まりそうなことなんて知らない。先輩にとっては何でもないことでも、僕にだけ許してくれた特別な行為に思えて薄暗い愉悦を感じてるなんて知らない。

 どこまでも深くて広い青空そのもののような先輩に対して、僕自身がひどく汚れているように思えて、ピアッサーを構えた手が震える。


「ちょ、コーヨー。大丈夫? 手、震えてるじゃん」

「……大丈夫です、すんません、人にするのって、やっぱ、緊張しちゃって」


 震えてるだけじゃなくて、呼吸もままならない。でも、変に息を荒げたらおかしく思われる。だからそのまま息を止める。


「思い切って、やっちゃってよ」


 酸欠で苦しい頭に先輩の声だけが聞こえる。

 僕は息を止めたまま、震える手でぴたりと針の先端を当てて、思いっきり力をいれた。

 ガシャン、と音がする。


「っつう……! やっぱちょっと痛いな……でも思ったより平気だったな。なあ、ちゃんとついたか? コーヨー……」


 たった今、つけられたばかりのピアスを触って、先輩が僕を見上げる。その先輩の目が真ん丸に見開かれる。


「えっ……どうしたんだよ、コーヨー」


 先輩が何に驚いてるかわからなかった。「なんで泣いてるんだ」その先輩の言葉で、僕はようやく自分の顔に触れて、目から涙がぽろぽろぽろ零れてることに気づいた。

 驚いて固まってる先輩の顔。右耳に青のガラス玉がついたピアス。

 ああ、僕は。


「……すんません、なんでもないっす。あの、やっぱ、余ってるのあげるの申し訳ないんで、まだ使ってないピアスあるから、それ、あげるんで」


 腕で顔を拭って、テーブルの端にあった百均のプラケースを先輩の前に置く。それは僕のピアス入れで、未使用のピアスや、余ってるピアス、もう使わないピアスをそこに突っ込んでおくだけのケース。


「あ、でも、それなら、両耳あけたほうがいいかもしんないですね、僕の時のピアッサー余って……いや、新しいの買ったほうがいいっすね、すみません、僕、やっぱ人の、あけるの、こわいから、次は、他の人に頼んでもらっていいですか。すみません、お詫びに、これも、このピアスも、使ってないから、あげるんで、すみません、すみません」


 先輩の顔を見たくなくて僕の顔を見られたくなくて、ケースから新品のピアスをただただ取り出していく。僕がピアスを開けた時、使わないでいたままの未開封のピアッサーだけは隠そうと手を伸ばしたところを、上から先輩の手で押さえつけられた。


「せん、ぱっ……」

「おまえ、これ……」


 先輩は僕の手元にある使われないままのピアッサーのパッケージを見てる。

 そして未開封のピアッサーを確認してから、先輩はケースの中を探り出して、見つけてしまう。

 ピアスホールが完成してからはもう無用で、ゴミでしかないのに、捨てきれなかった、普通のピアスより少し太い針を持つ、僕がはじめて開けたファーストピアス

 それは、シンプルなシルバーのピアスや水色や青ばかりのピアスの中で、異質な、赤色のピアス。

 安っぽい、下品なまでに剥き出しな、赤。

 そしてさっき先輩が見てしまった、右耳に使う予定だった未開封のピアッサーにはっきりと書かれている。七月の誕生石。ルビー。

 先輩の、誕生石のピアス。

 ああ、終わった。

 先輩は馬鹿じゃない。ただの後輩が、先輩にピアスを開けるだけで泣き出したりしない。青のピアスを集めてるのは、まだ、自分の誕生石がサファイアだからって誤魔化せた。だけど、僕のファーストピアスは、誤魔化せないくらいにその赤さを、僕の気持ちを主張していて。

 左耳が熱くなる。先輩の溢れる思いを封じるためのピアスなのに、わざわざ先輩の誕生石のピアスを選んだ。

 そして今も、先輩の初めてのピアスを開けられたことに、僕が選んだピアスをつけてくれるという喜びと、それを隠して触れている自分の醜悪さに我慢しきれなくて、ピアスのお守り程度じゃ堰き止められなかったぐるぐるしたものが涙になって溢れてる。

 僕は「ごめんなさい、ごめんなさい」と繰り返した。先輩の顔も見れない。

 だけど先輩の手の動きだけは見えた。

 その手は、少し汚れた、もう何にも使えない、赤いファーストピアスをそっと握りこんだ。


「今日は、これだけ貰ってく」


 その言葉とともに、ぐいっと身体が引っ張られる。

 先輩は僕の顔を自分の肩に押し付けてた。そして、ピアスを握ってないほうの空いた手で、僕の頭をゆっくり撫でる。


「ずっと気づいてあげられてなくて、ごめんな」

「ちが、ぼくが、わるくて、ごめんなさ、」

「いいから、もう謝らなくて。コーヨーはお兄ちゃんだから、こんなになるまで我慢してたんだなあ。オレもすっかり甘えちゃってたなあ。ごめんな」


 ゆっくりと、だけどしっかりと、先輩の大きな手が僕の頭を撫でていく。

 先輩の肩に自分の顔を押し付けて、ひくっ、と変な声を出しながら泣いた。


「お前、泣くの、下手だなあ」


 「甘えるの下手なんだな」と笑い混じりの優しい声で告げて、「お前はいい子だよ」と先輩は僕をあやす。

 撫でる手は優しくて、甘やかすようにゆっくりゆっくり、何度も僕の頭を撫でる。

 僕はひたすら、先輩の肩を濡らして、下手な泣き声をあげていた。



 それから。

 泣き止んだ僕はひたすら慌てた。先輩は驚いたような顔をしてたけど、ろくな言葉も出せないまま、無理やり追い払うように帰した。そして一人になってまた泣いた。

 次の日からはなるべく先輩に会わないように、サークルの集まりにも、食堂にも行かなかった。唯一被っている授業は友達に代返を頼んでさぼった。

 先輩から何度か連絡がきたけど、何も返さず、三週間経った。

 このまま会わずに、変な後輩のことなんて先輩の記憶からなくなってくれないかな、と食堂脇の道を歩いてた時に、いくつかの靴に紛れた青のスニーカーが目に入った。


「あれ、青葉、ピアスあけたの?」

「いいだろ」

「似合ってるよ。でも青じゃないんだあ、なんか意外」


 顔を上げられなかった。青じゃないピアス。ファーストピアスは外して、新しいピアスを手に入れたのか、自分で買ったのか、誰かからもらったのか。

 確かめるのが怖くて、何より会うのが怖くて、縫いつけられたように足が止まった。


「あ、コーヨー!」


 だけど、青色の靴は僕に近づいてきて、大きな手が僕の腕をとる。

 恐る恐る顔をあげると、いつものように、いや、どこか拗ねたような顔をした青葉先輩が僕を見ていた。


「こっちきて」


 ずるずると先輩の引きずられるまま僕は歩く。僕の感覚がおかしくなったのか、周りの音がよく聞こえない。いつもつけてる先輩の香水の香りもしない。ただ感じるのは、手首を握る先輩の手の熱さ。

 食堂を通り過ぎて、近くの学部棟の裏手側に連れてかれる。「ここでいいかな」と呟いて、やっと先輩は立ち止まる。

 授業時間はもう始まっていて、周りに人の気配はない。二人きりの空間は、僕にとっては処刑場のように感じた。

 「コーヨー」と呼ばれて、のろのろと顔を上げる。

 いつもの無邪気な笑顔ではなくて、少し困ったような、ちょっと照れた顔で笑ってる先輩がいる。そして、その右耳には。


「せんぱい、そのピアス……」

「あ、うん。ピアスホール、ちょっと早いけどできたみたいだったから、待ちきれなくて自分でつけちゃったんだよね。ほんとは返事聞いてからにしようかと思ったんだけど、フライング」


 先輩の言っている意味はよくわからなかったけど、右耳を飾っているのは、小指の爪先の半分もないほど小さい、なめらかに、まるく磨かれたもので。

 そして、先輩の好きな青でも、ましてやあの剥き出しの赤とも違う、少しくすんだ、深めの赤い色だった。


「コレ、っていうのなくて、すっごい探したんだ。紅葉みたいな色。綺麗だろ」


 くすぐったそうに、自慢げに言う。僕はよくわからなかった。

 それは確かにきれいな落ち着いた赤色で、秋の紅葉の色をしていた。こうよう。


「あれから、ずっとお前の泣き顔ばっかり浮かんで。もしかして一人で泣いてんじゃないのかな、とか。しかもお前、オレのこと避けてるし。もっと気になって」


 先輩の声を聞きながら、僕は先輩の右耳の小さな、暗褐色の宝石から目が離せなかった。

 深みのある、落ち着いた赤。

 小さな宝石はくるりとシルバーの金台に支えられて、不思議と先輩に似合っていた。


「もし泣いてるんなら、オレが甘やかしたいなとか。他のヤツの前で泣いてんだったら、なんかイヤだなぁとか。オレの前だけで泣いてくんないかな、とか、そればっか考えててさあ。でも、そういうことするのは、ただのサークルの先輩じゃあできないだろ。だから、どうしたらいいのかなって、考えたんだけどさ」


 ポケットをごそごそ探って、先輩は小さな箱を取り出す。そしてそれを開けて見せた。

 その小箱の中にあったのは、片割れがあったであろう場所はなくなって、片方だけが残されたピアス。先輩のつけているのと、同じ色の。


「これからいうことに、お前がうなずいてくれたら、つけてくれないか」


 ゆるゆると、ピアスから先輩の顔を見る。その顔は、ピアスに負けないくらい赤くなってて。


「お前の泣き顔を見るのも、甘やかすのも、オレだけができる権利がほしい。オレと、つきあってくれ。ミツヒロ」


 その言葉はやけにゆっくりと頭の中に届いて、何度か頭の中で再生して、意味を理解したとき、僕は我慢しきれなくて泣いた。

 必死に首を縦に振る。

 差し出されたピアスを、先輩の手ごとぎゅっと握る。

 僕の目からは壊れたように出て、息継ぎがうまくできない。

 先輩は困った声で「ホント泣くの下手だなあ」と言いながら僕の左耳に触る。慎重に、優しい手つきで、ずっと僕の手では外せなかった青色のピアスを外して、かわりに紅葉色のピアスをつける。


「やっぱ似合うな。コーヨーの色だよ」


 そういってくしゃりと笑う先輩に、僕はぐちゃぐちゃの泣き顔のまま、「すきです」と言った。

 先輩は嬉しそうに笑った。左耳と、先輩に抱きしめられた部分が、熱かった。

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