『何色』青葉とコーヨー <連載版>
コトリノことり(旧こやま ことり)
1 沈丁花(ダフニー)
第1話 「コーヨーなら」
大学の食堂のテーブルに一人で座る。教科書を見ているふりをしながら、視界の端は食堂の入り口をおさめてる。
ぼろぼろの茶色の革靴。違う。
ピンク色のパンプス。違う。
くすんだ白の実験用の靴。違う。
きれいなあおのスニーカー。
目線を手元の教科書に移す。三十分ここに座ってて、一ページも進んでない。だけどそんなこと誰も気づかない。適当なペンをもって、ずっと勉強していたふりをする。前から聞こえてくる青空のような明るい笑い声。
「あ、コーヨー!」
その声で呼ばれて、さも今気づいたというように顔を上げる。
「青葉先輩、おつかれっす」
一つ年上、大学三年の三木青葉先輩は「今日お前だけか?」と言いながら向かいの席に座る。
青葉先輩は背が高い。僕と頭一つくらい違う。昔バスケをやってたらしく、六月の初夏によくあっている七分袖のシャツからでもわかるくらいには筋肉がついていて、いかにもスポーツマンらしい。顔も整っていて、クラスに一人いる人気者の好青年。まさにそんな感じだ。
食堂の椅子は小さい、と文句を言って、長い足を組む。そうすると前に座ってる僕の位置からでも先輩、視界の端でとらえた青のスニーカーがよく見える。
「三限、休みなんだっけ」
「そうです。四限も」
この会話をしたのは、もう九回目だ。
金曜日の先輩の講義は三限までで、終わったら大体サークルのメンバーがたむろしてる食堂に寄る。金曜日の午後の授業がない僕は、三限から食堂にいる。今日は先輩と二人しかいないが、サークルの誰かも一緒にいることのほうが多い。だからただのサークルの後輩の僕の授業のコマなんて覚えてなくて当たり前だ。
先輩の講義スケジュールを把握してる僕がおかしいだけだ。
「あ、いまやってんのって月曜の? あとでノート写させてくんない?」
「いいですけど、代返のツケも溜まってますよ。今度、なんか奢ってくださいよ」
「月曜一限の授業なんて行けなくて当たり前だろ ?」
「ノートいらないんですね」
「すみません、コーヨー大明神、この通りです」
そういって先輩はパンと両手を合わせて、僕を拝むようにして頭を下げる。それに僕は笑って、「仕方ない先輩ですね」と返す。
いつも通りの会話。大丈夫、僕はちゃんと後輩をやってる。
「やー、コーヨーはほんっと頼りになるなあ」
くしゃっと先輩が笑う。
目じりに浮かんだ皺に見惚れそうになって、「頼りない先輩を持ったからかもしんないっすね」と返しながら視線を落とす。テーブルに両手をおろした先輩の指が目に入る。大きな手、長い指。バスケットボールを簡単につかめそうな、しっかりとした手。
その指の付け根にはいまは何もはまってない。少し前までそこに我が物顔で鎮座していた、銀色の指輪のかわりは、まだ現れていない。少し骨ばった指先の爪が少し伸びてきている。彼女がいるときはマメに爪を切る人だから、先月別れた彼女の後から新しい恋人はいないらしい。それに安心するのと、そんなことを確認する自分が浅ましくて、癖で左耳を触る。
「コーヨーって長男だっけ」
「そうですよ。三人兄弟で、全員男です」
「コーヨーの弟ならー……名前はコージとか? あ、あえてフユト?」
「……先輩、忘れてるかもしれないですけど、僕の名前はミツヒロですよ」
「あーもう、オレの中で完璧に秋の紅葉で定着してたわ」
「先輩のせいで、他の人にもコウヨウが名前って思われてるんですけど」
うちのサークルは映画研究会という名前だが、その内容は一部をのぞけばだいたい適当だ。映研と称しながらも大体飲みながら映画を観るか、飲み会をするかっていうようなサークル。まあ、大学にいくつもあるサークルの中で、よくあるタイプのサークル。
全員集まることもめったにないし、正式なメンバーが今何人かもわからない。だから、たいていは上の名前だけとか、あだ名で認識されてる。
僕の場合は、「嵐山光洋」と書いた名簿を見た青葉先輩が「あらしやま……こうよう? 京都出身?」と勘違いしたのをきっかけに、そのまま『紅葉』の発音で「コーヨー」と呼ばれ続けてる。
青葉先輩はその親しみやすさからか、上級生や同期から「青葉」と下の名前で呼ばれていて、後輩たちもそのまま「青葉先輩」と呼んでいる。きっと先輩の苗字が「三木」であることを覚えている後輩は少ないだろう。
「連絡先もコーヨーで登録してるから、忘れちゃうんだよなあ。もうめんどくさいからさあ、改名しろよ」
改名ときいて、ふっと先輩の名字から、連想してしまった。
みきみつひろ。
「結婚したら改名できるかもしんないですね」
あ、まずい、変なこと言った。
改名と聞いて結婚を思い浮かべる男なんてそうそういない。しかも目の前の同性の先輩の名字を思い浮かべながら考えるなんて、そんなこと普通の後輩はしない。
胃がひゅうっと冷える気持ちと、左耳を抑える力が強くなった。
「何言ってんの、名字変わってもコーヨーになんねえじゃん」
「……ははっ、そうですね」
「でも名字なあ。お前の嵐山ってかっこいいよな。嵐山青葉、ってなんか和風でいいな」
「へっ?」
よかった、先輩に変に思われなかった、と安心したところの先輩の発言に思わず変な声が出た。
あらしやまあおば。
その魅惑的な音の羅列に、くらりと酔ったような感覚になる。
「……なんか、嵐山の夏の観光名所っぽいですね」
声は震えてないだろうか、笑えてるだろうか。
「で、お前がコーヨーだから、秋の観光名所だな」
無邪気に返す先輩に、心臓を素手でぎゅっとつかまれたみたくなる。
なにそれ。二人そろって嵐山の観光名所になるとか。さいこう。もう春と冬はなくていい。夏と秋だけでいい。
どうしよう、顔は赤くなってないだろうか。左耳を触るついでに顔の温度を確かめる。
「あれ、コーヨー。それ新しいピアス?」
触るときに髪をかきあげたせいで先輩に見えたのだろう。僕は髪を伸ばしているわけではないけど、サイドの髪は少し長いから、普通にしたら見えない耳たぶにあるもの。
買ったばかりの、小さな青の宝石紛いがついたシンプルなピアス。
「そうです。いい色じゃないっすか?」
「うん、すげーきれいな青。いいなあ、それ」
僕は左耳にだけピアスを開けている。
ピアスを開けたきっかけは今から考えたらあまりにも馬鹿げている。でもその時は本当につらくて、なにかしたくてたまらなかった。
大体今から一年前くらい。入学して映研に入って数か月たって、何度も何度も「どうしようもない」「のぞみはない」「あきらめろ」と自分にどれだけ言い聞かせても目の前の人への感情が溢れて、溢れて、止まらなくなって。それでも必死に気づかれないように、先輩の前でただの後輩でいるために、取り繕って。
感情を隠して黙ったまま過ごすには辛くて、吐き気と苛立ちから衝動的に開けたピアス。
開けた時に「何馬鹿なことしてるんだろ」と冷静になってもう片方を開ける気が起きなかったから、穴が開いてるのは左耳だけだ。
でもそれから、お守りがわりのようにピアスを触る癖がついた。
「先輩、ほんとに青好きっすよね」
「名前が青葉だから、なんか癖になってんだよ。だけどそのピアスほんといい色だなあ、好きだな」
すきだな。その言葉がたとえピアスに向けられたものだとしても、単純な自分の胸がざわつく。
青が好きなのは知っている。今日のスニーカーも、この間バイト代で買ったレザーのトットバッグも、適当に何か買うときに選ぶのなら青だってことも。
真夏の青空のような人だけど、どちらかというと少し深みのある、見ていたら吸い込まれそうな青が好きなのも知っている。
このピアスも、もしかしたら先輩が好きな色かな、と選んで買った。気づいてもらえたのが嬉しい。でもそんなことは表には出さない。
「僕も、このピアスの色、好きなんですよ。一目惚れで、買っちゃいました」
「あーいいもの見つけた時にコレだ! ってなるのあるよなー。あーでもほんといいなーそれ」
「先輩もピアス開ければいいじゃないですか」
「ピアスなあ。オレ、針が怖いんだよなあ」
「ピアッサーで、ガシャンってやるだけっすよ」
「うーん……あれ、そういえばお前って片方だけなんだな」
「あー……自分で開けたんで、反対側も同じ位置に開けられる自信なくって。左右で位置ずれてたらかっこ悪いじゃないっすか。だから、そのまま」
「自分で開けたの? すげえな」
「すごくないっすよ。まあ片耳だけだと、ピアスって大体二つセットだから、なくしてももう片方を予備に持っておけるんで便利ですよ」
「なにそのずぼら。でも確かに便利そう」
「……このピアス、片方余ってますから、先輩が開けるならあげましょうか?」
思わず口について出た言葉に自分が一番驚く。
変だったか? 後輩が言うセリフじゃないか? いや、話の流れはそこまでおかしくない。先輩と同じピアスを付けられるかもしれない、なんて、そんな下心に気づかれなかったら、おかしくない。大丈夫、きっと大丈夫。大体、こんなこと先輩だって、本気にしないだろう。
「え、ほんとに? いいの? じゃあ開けよっかな。でも自分で開けるのこえーから、コーヨーが開けてくれない?」
「えっ?」
あ、だめだ。普通の後輩らしく、適度にノリよく、ちょっとふざけた返答ができるように常に心がけてたのに。
間抜けな声をだした僕の頭は働かない。普通の後輩ならなんていうべきか、考えて見つけなきゃいけないのに。いつもはその思考が癖づいてて、すぐに答えを導き出すのに、今の僕の頭は働かない。
親しい先輩に、自分のピアスをあげて、しかもファーストピアスを開けてという頼みに、普通の後輩ならなんて返すべきなんだ。
先輩は特に変わらない様子で、少し首をかしげる。その時に先輩の短くカットされた黒髪が揺れて、まだ何も穴も傷もついていな薄い耳が目にとまる。
「迷惑だったらいいけど」
「あっ、いやっ、そんな、ことは」
食い気味に否定してしまう。僕の醜い下心はどれだけ素直なんだろう。焦らないように、慎重に、声を絞り出す。
「僕でいいなら、開けますよ」
「マジでいいの? 穴開けんのは怖いけど、コーヨーなら安心して任せられるわ」
「……ちょっとズレたりしても、怒んないでくださいね」
心臓がバクバクさっきからうるさい。主張が激しい。気持ちはわかるけど、先輩の声が聞こえなくなりそうだから、今は活動を停止してほしい。
「ピアス開けるのになんか準備いる?」
「ドラッグストアでピアッサー買うくらいですよ」
「へー。コーヨーってこのあと授業は?」
「ないです、けど」
「じゃあなんもなければ、今から行かない?」
「え」
思考のフリーズは今日二回目だ。だけどさすがに二回目ともなれば、立て直すのだって早い。
「ピアッサー買いに、ですか」
「そうそう。そんでお前ん家行って、そのまま開けちゃいたくて」
フリーズ三回目。僕は気づかれないように深呼吸する。
「……行動めっちゃ早いですね」
「いやだって、こういうのって勢いだろ。決めたらガッとやりたいじゃん」
僕が借りているアパートは大学から徒歩10分程度で、サークルの宅飲みに使われやすい。そんなに広くはないけれど、立地がいいのと、上級生がわざわざDVDとブルーレイディスクのプレイヤーを持ち込んできたので、少人数でだらだらと映画を観る環境が整っている。
その宅飲みに青葉先輩も何度も僕の部屋にきたことはあるし、こんな風に簡単に僕の家に気軽に来ようとする程度には、先輩とは仲がいい。
だけど先輩が一人で僕の部屋にきたことなんて、ない。
しかも理由が、僕が、先輩の耳にピアスの穴をあけるため。先輩のことを考えながら選んだ、ピアスを、つけるために。
彼の薄い耳たぶに、僕の手が触れて、針を通す。
その光景を思い浮かべただけで、失神しそうだ。
「それもそっすね。じゃあ、行きましょうか」
頭の中はさっき見た先輩のきれいなままの耳と、それを傷つけるための針の映像が繰り返し再生されている。
なのに僕の身体は平静を装ったまま、口は勝手に動く。手が勝手に教科書を片付けはじめる。
期待と高揚で血管が沸騰したみたいに熱い。だけど裏腹に自分勝手な欲望の醜さに吐き気がして、背筋は凍るように寒い。
それでも、僕は後輩の顔をつけたまま先輩と連れ立って食堂を出る。一番近くのドラッグストア、どこだっけ。僕の家の近くにありますよ。そんな何でもない会話をして。思考がキャパオーバーすると肉体と心はこんなにも乖離するのか、と僕は何となく思った。
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