第2話
オネショの後始末を父に見つからないように済ませて登校しました。かなり不安です。もともと私は目立っています。十歳まで父の都合で海外にいることが多かったので英語が堪能ですが、その分だけ日本語の適応に難があり、バカ丁寧と級友に言われます。私に言わせれば、あなた方の英会話こそ発音が拙いのは目を瞑るとしても文法的な正しさばかりに目を向けて、もって回ったバカ丁寧な英語になっていますから、お互い様なのです。それに私の話し方は母から習ったものですから変えたくありません。海外育ちで英語ができて、他の教科も上位ということで目立っていますから、あの交通事故について何か言われるかもしれないと心づもりしていましたが、女子たちがヒソヒソと噂している気配はあっても、直接に言われることはありませんでした。昼休みまでは。
「おい、石橋」
一度も会話したことが無いクラスメートの男子が食欲がなくて甘い紅茶を飲んでいた私へ失礼な態度で声をかけてきました。
「何ですか?」
「お前のオヤジ、石橋昭一郎教授なのか?」
「…そうです」
「お! じゃあ、お前の爺さんか! あの事故を起こしたのは!」
「っ、違います! 祖父は亡くなっています!」
「けど、ネットで言われてるぞ!」
「インターネットの情報なんて…」
正確には祖父の弟です。けれど、説明する気になれません。言っても事態を悪化させるだけという気がします。沈黙は金、父の言葉を思い出してもう黙ります。黙る私にしつこく何人かの男子が訊いてきます。毅然として無視しているつもりなのに、座っている私の膝が震えてきました。気分が悪い。泣きそう、でも、泣けば認めたと思われます。
「おい、石橋、どうなんだよ?!」
「院長の孫なんだろ?!」
「お前も頭はいいしな!」
「……」
「なんとか言えよ、卑怯者!」
「っ…」
悔しい……被害者と無関係のあなた方に………昭平さんだって起こしたくて起こした事故ではないはずなのに………亡くなった人、その家族の痛みが大きいのは私だって癌で母を亡くしたから……でも、母には最期の時間が半年あった……事故は一瞬で即死………苦しまないにしてもお別れの言葉も言えない……残された人はどれほど悲しいか……いっそ自分も死にたくなるのに……胃が痛い………夕べから紅茶くらいしか口にしてないのに……吐きそう……目がかすむ……教室は明るいのに暗く見える……ああ……もう死にたい……お母さん……
キンコンカンコーン♪
私を責め立てる人たちから救ってくれたのは昼休みが終わるチャイムでした。けれど、周りが静かになっても私の膝は震えたまま、胃もずっと痛い。
「次、石橋」
「……」
「おい、石橋、ここから次の段落まで読め」
「……」
「聴いてるか! 石橋!」
「は、はい? 何ですか? 先生」
「教科書も開いてないな。学年トップ層のお前がそんなことでいいと思ってるのか! テストで点さえ取れれば授業は無視か?」
「い、いえ…すみません」
「さっさと93ページを読め!」
「はい。生活水準が上昇する中で、出生率と死亡率は急激に低下した。平均寿命が伸び、女性が一生に産む子供の数が減って、人口の少子高齢化が進んでいる。戦後社会では夫婦と子供からなる核家族が増え、3世帯同居の割合は低下し…」
読んでいる唇と舌が震えて息が詰まるのを感じます。朗読のために立ち上がった私をクラスの人たちが可笑しそうに見ている気がします。膝が震えて、まともに立てない。クスクスと笑われている気がして、読みながら何を読んでいるかわからなくなり、どこを読んでいるかもわからなくて、グラグラと足元が不安定になって、おしっこを漏らしてしまっているような生温かさが下着の中に拡がって、そんなはずはないと思いたいのに、スーッと両脚まで濡れたような感触があって、パシャパシャと上靴にかかる感覚……そんなはず……ない……おもらし……したなんて……高校生の私が……オネショだって中学で治ったはず……一時的な……一時的な……
「先生! 石橋さんが、おしっこを漏らしてます!」
隣の女子が叫んで周りも騒ぎ始めました。
「ホントだ、漏らしてる!」
「え、マジで?」
「かわいそぉ♪」
「高校生になって、おもらしするかよ」
「男子が昼休みに囲んでイジメてたじゃん。トイレ行けなかったんだよ! かわいそ♪」
「おい、保健委員は誰だ?」
「はーい」
「石橋を保健室に連れて行ってやれ」
「はい。ほら、行くよ。おもら詩音」
「…うっ…うぐっ…」
泣きたくないのに、涙が止まらなくて、より激しい感情が胸の奥から喉に込み上げてきて、開けたくないのに口が大きく開いて、嘔吐するような抵抗できない勢いで私は大声で泣き出してしまった。
「うわああーーんあんあんうわあああん!」
「はいはい、泣かなくていいでちゅよ。次からトイレでシーシーしましょうね。おもらしの音をみんなに聴かせるから、おもら詩音かな?」
「だはははは!」
「きゃはっはははは!」
「うわああーーんあうああうあうあああん!」
「いいから行くよ。おしっこ臭いし」
保健室に連れて行かれても私はしばらく泣き続けました。
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