第3話 コーム・レーメ

 帝都の東の外縁にあるレター公園の近くには、「クインズ・パッチオ」という名の豪華なアパルトマンが建っている。


 このアパルトマンの名前が広まったのは、この一室にコーム・レーメという女が住んでいたからだった。


 コーム・レーメはある日、突然に帝都に現れて、瞬く間にうわさ好きの都人たちの話題をさらう女になった。


 豊かな金髪に長い睫毛。磨かれた大理石のような冷たくも柔らかい乳白色の肌。流行の薔薇色の口紅で化粧した唇は、そのふくよかなふくらみに煽情的な熱を感じさせる。なによりも目を惹くのは磨き上げられた藍緑石アクアマリンよりも深く澄んだ青い瞳。高い知性を感じさせるその瞳は、一瞥に冷やかさを与えながらも、覗いたものにたぎるような情熱を掻き起こさせた。


 彼女は大きく肩と胸を開いた大胆なドレスで、その肌理きめ細かな白肌を惜しげもなくさらし、帝国の外務大臣ボーモン伯カルドニアンに手を引かれ、宮廷の晩餐会に突如として姿を現した。


 帝都の紳士たちはたちまちにコーム・レーメの虜となった。そしてカルドニアンに嫉妬した。


 こうして都人の耳を楽しませる、狂騒なる饗宴が幕を開ける。


 まず、カルドニアンが失脚した。彼は彼女の美しさを飾るために帝国の外交費に手を付け、それを法務大臣ドゥージェ侯ウルバンに告発されたのだ。そして次の晩餐会にコーム・レーメはウルバンに手を引かれて現れる。


 けれど彼女の手を引くこのウルバンの栄光も長続きはしなかった。気づけば彼の邸宅は銀行王として名が知れる大富豪ルーベンスのものになっていた。コーム・レーメとの蜜月を保つための借金の抵当にしてしまったのだ。そしてその金も尽きた頃には、コーム・レーメの姿はルーベンスの傍らにあった。


 しかしルーベンスの富があっても彼女の居場所は定まらない。ルーベンスと交際のある貴族、顕職、大富豪との間に流れた浮き名は数知れず。多くの男たちが彼女との一夜を夢見て列をなし、そして彼女は彼らを彼らの望むがままに食い潰す。


 男たちから捧げられる錦袍宝玉、銘陶彩磁、美酒珍味の貢物は際限を知らず、与えられた土地や家屋に荘園は数十に上り、彼女の財産は瞬く間に巨万に満ちた。


 後年、ルーベンスは彼女についてこう述懐している。



  彼女のなにが魅力といえば

  彼女はすべてを蕩尽するのだ

  そう、蕩尽だ

  彼女はすべてを奪い尽くし

  そしてなにもかも使い果たす



 彼女の魅力とは何であったのか? それは惜しみなき愛コーム・レーメと呼び名される彼女の振る舞いのためだった。彼女は男たちから与えられた様々を、惜しみなく使い尽くした。


 コーム・レーメは巨万の富を手にしながら、蓄財にも利殖にも興味を示さなかった。彼女は与えられた財貨財宝のすべてを“夜会”を開くことに費やした。


 “夜会”とは帝国の貴族、富豪が贅を尽くして、自らの権勢を誇示してその地位の優劣を競う社交の場である。


 コーム・レーメの開く夜会は、その身をドレス宝石で着飾るだけではなかった。帝都随一の料理人に音楽団、観劇の役者を揃え、最高級の絨毯や壺に燭台、食器などの調度品のみならず使用人の衣装に至るまでのすべてを自らの目で選び、微に入り細を穿つ指示でこれらの素材をまとめ上げ、至高の夜会を開催して帝都中の貴賓を集めた。


 しかし、この夜会の中心に立つのは彼女――コーム・レーメではない。この至高の夜会の主役にして主催者は、その時々に彼女に愛と財貨を与えた愛人たる男たちであった。夜会を開くためのすべてを執り仕切った彼女は、主役たる愛人の傍らに一歩下がって立ち、この男の一夜の栄光を輝かす至高の宝冠を務めるのであった。


 ルーベンスの先の述懐は最後にこう続く。



  けれど虚栄だけは満たされる――。



 これは虚栄であった。


 だが栄光でもあった。


 栄光があれば男たちは彼女を求めてそのすべてを捧げ、彼女はそれに求められるまま惜しみない愛コーム・レーメを――男たちの虚栄心を満たし続けた。


 この享愛の狂騒に、帝都の口さがないうわさ好きの人々は、次の詩を彼女の作ったものとして、帝都はおろか帝国の隅々にまでまことしやかに囁きあった。



  わたくしのまなざしが欲しいなら

  あなたの瞳を捧げなさい


  わたくしの言葉が欲しいなら

  あなたの舌を捧げなさい


  盲目の人、沈黙の人


  わたくしの愛が欲しいなら

  あなたのすべてを捧げなさい


  この世ならぬ幸福を

  あなたに与えることでしょう――



 そんな彼女の傍らに、最後に立った男が帝国の皇太子ドゥルク・エルト・カストゥールだった。


 長く世継ぎを得なかった当代の皇帝バンドゥナ五世が、五十代を過ぎてようやく手にした唯一正当なる後継者は、厳格なる帝王教育を受け、歴史ある偉大な皇帝家の末裔としての自負心を、君主たるもの臣下臣民に劣ることがあってはならないという強烈で尊大な虚栄心として成長させていた。


 そんな彼は当然に、臣下臣民を賑やかす帝国最高の美女を自分のものへと所望した。


 皇太子がコーム・レーメを引見したときの会話を、皇太子の側近は後世にこう書き伝えている。


「コーム・レーメ。お前は男のなにもかもを奪うと言うが、この私からはなにをどれほど奪えるか?」


「お与えになればわかること。わたくしは、それに惜しみなき愛コーム・レーメを与えましょう」


 これで皇太子がコーム・レーメにどれほどの富と財産を与えたのかは定かではない。皇室の財政を傾けるほどの金品をという批判は当時からあったが、後世の研究では彼女の開く夜会の回数は多数の愛人を相手にしていた時よりも少なくなっており、総額としての夜会費用はむしろ減少していたとされている。多少の贅沢品の浪費はあったであろうが、彼女に使われた費用よりも建設趣味のあった皇太子主導による当時の帝都改造事業の費用の方が遥かに多額であったとするのが大方の見方である。しかし、その事業の建築物に彼女の通り名であるコーム・レーメや本名のナターシャの名を刻んだものが複数あったことにより、庶民に浪費家としての彼女の悪名が広まったというのも通説となっている。


 ともかく彼女は皇太子の愛人として皇宮住まいに変わり、彼の建てた建築物に名前を捧げられるほどの愛を与えられるだけの存在となった。そうなれば彼女を通して皇太子に目通しを願うものの来訪が引きを切らなくなるようになる。コーム・レーメの元にはかつてのように様々な貢物が集まった。


 しかし彼女はそれらのすべてを断ったという。疑問に思った侍女の質問に答えた彼女の言葉が残っている。


「わたくしへの愛は、わたくしの愛でお返しすることができるでしょう。けれど彼への想いの代弁は、わたくしの愛では返せない。だから受け取る権利がないのです」


 そんな彼女は欲しいものを愛人に自ら所望することはほとんどなかったという。けれどこの彼女が一度だけ、強く皇太子に願い出たことがあった。


「コルレッタに会いたいと?」


 それは皇太子がコーム・レーメを処刑場見物に誘った翌日のことと記録されている。


「はい。できれば二人きりで」


「しかし、あれは不浄の一族だ」


 処刑人コルレーネの一族パリスト家は、かつて帝国が戦争の戦利品として南方から連れてきた奴隷の末裔であった。これが彼らの褐色の肌の理由であると同時に、この肌の色を帝国へ連れてこられてから二百年以上が経過して当時にあっても保ち続けていたのは、帝国の人々から混血を忌避され、同族同士での婚姻を続けてきたという証でもあった。


 パリスト家は皇帝家の直臣であり中級貴族と同等の家禄を与えられ、その身分も貴族待遇を保証されていた。しかし処刑という役目が負う不浄の印象は、パリスト家の紋章に法の象徴である天秤と皇権の象徴である剣をあしらいながら、そこにかしずく犬を彼らパリスト家の人々をあらわす姿として描いていることに端的に表れていた。彼らを不可触の被差別民として扱う意識は、厳然と存在した。


 それはコルレッタ・パリストが歴代のパリスト家の処刑人コルレーネの中でも最も美しく首を斬る、首斬りの名手として多くの帝国臣民から絶大な人気を誇っていたとしても変わらない認識であった。


「知って、それを望むのです」


 しかし、与えられたものを拒むことはなかったが、自らなにかを求めることなどほとんどなかったコーム・レーメの願いは、この尊大な皇太子であっても拒絶することなどできなかった。

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