4分12秒のその先

朝倉神社

第1話 4分12秒のその先

 電車がブレーキをかけて駅のホームに入っていく。徐々に速度を下げていく車両に体がほんの少し左に傾く。私と美奈と拓真の三人はいつも同じ電車に乗って学校から帰るけど、降りる駅はそれぞれ違う。最初に美奈がおりて隣の駅で私が、そして三つ先の駅で拓真は降りる。


「っと、ついちゃったね、ほいじゃあ、またね」

「うん。また明日」

「じゃあな」

 

 一足先に下車する美奈に手を振って、プシューっとエアーが噴出して扉が閉まる。私はそのまま閉まった扉に背中を預けて、拓真が私を守る様に扉横の手すりをもって向き合う形になる。

 頭一つ分大きな拓真を見上げる形で過ごす4分12秒の至福の時間。

 高校生の子供じみた恋だと人は言うかもしれないけども、私にとって一生に一度の大切な想い。


「ドアが開いた時のモアっとした空気が入ってくるのがたまんないよな。それでさ……」


 拓真が暑い暑いと胸元のシャツをぱたぱたとする。ほんのわずかに覗く鎖骨がすごく色っぽい。彼のしゃべる声に合わせて上下する喉ぼとけ、髭なんて一本も生えていないような滑らかそうなシャープな顎に薄い唇。笑うと右上の犬歯がちらりの覗く。

 背の高い彼を見上げていると首が少し痛くなってくるけど、この痛みは幸せの証みたいなもの。


「聞いてる?」

「聞いてるってば。駅前のバーガーショップでしょ。でも、あそこはすごい混むんだよね」

「そうそう、そうなんだけど3組の田所があそこでバイトしてるらしいんだわ。それで……」


 話はもちろん聞いている。彼の言葉の一つ一つが私にとって宝物のようなもの。だから、聞き漏らすなんてもったいないことはしない。それでも、若干上の空のように見えたのならちょっと気になることがあるからだ。

 彼は50センチもない距離に立っている。上を見上げる私には彼の鼻の穴がよく見えている。ああ、別に私は彼の鼻を見るのが趣味なわけじゃない。ただ、梅雨になってムシムシする日が続いていて、部活の後は結構な汗を掻いてしまう。もちろん汗拭きシートを使っているけども、こんだけ傍にいたら匂ってしまうんじゃないかと心配なのだ。

 至近距離にいることが幸せなのに幸せじゃない。なんで学校にはシャワールームがないのだろう。


 「まもなく~」と、至福の時間の終わりを告げる車掌の声が聞こえてくる。ここからあと27秒で私は降りなければならない。

 「ねえ」と口にして1秒、彼が私を見て1秒、私は彼を見上げて「好きです」というのに5秒もあれば事足りる。でも、私は今日もその言葉は胸にしまったまま電車を降りるのだ。

 毎日、車掌の声を聴くたびに私はその時をイメージしている。

 電車の扉が開いたら、彼の腕を引いて一緒に降りてしまおうか。

 降りたと見せかけて、また乗り込む。彼が「どうしたの」と聞いたら、「もっと一緒にいたいの」そんな風に言えたら幸せだなと想像する。


 告白する場面として、周りの目もある電車の中というのはどうかと思うけどそれ以外にいい瞬間というのは思いつかない。だって、わざわざ二人きりの場面を演出したら、彼はきっと気づいてしまうから。拓真に身構えられてしまったら、私まで緊張してしまう。

 それなら、不意打ちのように言ってしまいたい。


「じゃあな、また明日」

「うん、またね」


 無情にも電車は止まって、私を下して彼を連れ去っていく。駅のホームを歩きながら、通り過ぎていく電車の中の彼に手を振って余韻を楽しみながら自宅を目指す。

 彼に気持ちを伝えたら、どんな明日が来るのだろうかと想像する。

 毎日が夢の中のように幸せに包まれるなら最高だ。でも、彼が望んでなかったら、そう思うとどうしたって最後の一歩を踏み出す勇気はわかないのだ。私は目隠しをしてどことも知れない場所に立っているようなもの。足を踏み出せば崖の下に落ちるのか、あるいは立派な橋が架かっているのか誰も教えてくれない。


「ただいま。お父さん、珍しく早かったんだね」

「お帰り。ああ、今日はたまたまな。着替えたら降りてきなさい、話があるから」


 おとうさんのそんな物言いに私は不穏な空気を感じながら、二階に上がって制服からスウェットに着替える。お父さんは結構大きな会社でバリバリ働いているから、いつもは帰りは8時とか9時とか遅いのだ。それがこんな時間に帰っているとは何かあったのだろうか。

 まさかリストラとか。お父さんに限ってそんなことはないと思うけど、嫌な予感がするのだ。


 そして聞かされた話に、私は崖から足を踏み出すこともできずに、目隠しを外されてしまうことになった。そこには崖も橋も何もなかった。ただの荒野が広がっている。私にとってはリストラよりも酷い最悪の知らせ。


「私は行かないわよ。高校生なんだし、一人で生活くらいできるもん」

「ダメだ。お前は高校生なんだ。一人暮らしはまだ早い」

「だったら、この家はどうするの? まだローンも残っているんでしょ」

「ずっとってわけじゃないんだ。それに、お前がこっちの大学に行くなら、ここから通えばいい。大学生になれば一人暮らしも許可するつもりだ。だが、高校生の間は認めない」

「そんなの勝手だよ。大学生なら許されるなら今でもいいじゃない。たった1年半だよ。何が違うの」

「たった1年半だと思うなら、それくらい我慢しなさい」


 一年半なんて我慢できるはずがない。私は夕食も食べずに部屋に閉じこもった。だって、引っ越してしまったら、私はもう拓真に会えなくなるのに。東京から兵庫ってどれくらいの距離があるの。電車で何分かかるの。

 私はどうしたらいいの?

 布団をかぶって泣いて、喚いて、叫んだ。でも、私にはどうしようもないのだ。私は両親の庇護のもとに生きていて、両親がいなければご飯も寝るところもないのだ。学校は1学期いっぱい、9月からは新しい学校に通うことになる。

 7月21日の終業式の日まで、私と拓真が二人きりになれる4分12秒はあと16回しかない。それまでに気持ちを伝える。

 でも伝えたとして、どうしたらいいの。

 遠距離?

 毎日電話すればいいの。彼の声が聞けるだけで幸せなのは違いないけど、声を聴いたら会いたくなるじゃない? なんで東京と兵庫はこんなに離れているんだろう。バイトをしたってそんなに簡単に行き来できるはずないもの。


 転校することをいつ言えばいいのだろうかとタイミングを計っているうちに、一緒に過ごせる時間はどんどん減っていき、私が言うよりも先に母親が学校に報告したことでクラスメイトにはあっという間に知れ渡ってしまった。もちろん、拓真にも。


「もう何で言ってくれなかったのよ。言ってくれたらもっといっぱいいろいろ行きたいところだってあったんだからね」


 親友の美奈が悲しそうな顔で私に怒ってきた。そりゃあ、私だってもっと早くわかってて、もっと早くに言えたらとは思ったけど、どうしても口にするのが怖かったのだ。転校の二文字を口にしなければ永遠にその日が来ないわけでもないのに。


「ごめんね。お父さんから聞いたのもすごく最近なんだもの」


 言い訳じみた私の言葉に美奈がにっこりと笑みを返す。


「わかってるわよ。だから、今度の土日は絶対絶対一緒に遊ぶんだからね」

「もちろんだよ」


 来週の金曜日の終業式を迎えたら、私はすぐにでもお母さんと一緒に兵庫に行って住む場所を探すのだ。夏休みは長いようで短い、引っ越しとかを考えたら早く住む家を見つけないと間に合わないらしい。

 だから、私と拓真の時間もあと9日しかない。美奈との別れよりも拓真とのことを考える私は薄情かなと思うけども、自分の心には逆らない。だって、美奈とはこの先も友達だという確信はあるけども、拓真との関係はわからないのだ。

 まだ、気持ちを伝えることはできてない。ダメもとでも告白したほうがいいのだろうか。何も言わないままだときっと後悔する。じゃあ、いつ言えばいいのだ。

 今日?

 それとも明日?

 だって、もしもダメだったら、残りの8日間私はどんな気持ちで過ごせばいいの。毎日の一緒の下校がなくなるなんて考えられない。


「ああ、もう。電車ついちゃったね。じゃあ、土曜日どこに行くか考えるから、楓も考えててよ」

「うん。思い出いっぱい作ろうね」

「絶対だよ。じゃあ、また明日ね」

「バイバイ」

「じゃあなー」


 手を振って美奈が先に電車を降りていく。その瞬間、美奈はいつもと違って私の背中に手をそっと添えた。初めてのことにおどろいて振り向くと、美奈が不器用にウインクを投げてきた。これは彼女からのエールだろう。彼女は私の気持ちを知っているのだから。


「本当に今学期いっぱいなんだよな。話が急すぎで実感わかないな」

「私もだよ」


 彼の息づかいをこんなに近くで感じられるのもあとわずか。テレビ番組みたいに、家に帰ったらお父さんが「どっきり成功!」なんて看板を片手に立っていたらと思わずにはいられない。


「でも、すっごい偶然だよな。楓の転校先が兵庫だなんて」

「偶然? なんのこと?」

「え? いや、だってほら、俺のじいちゃん家は兵庫の西宮にあるんだって前に言ったよな」

「うそ、そんなの聞いてないよ」


 どういうこと。

 拓真も兵庫に引っ越すの。いやいや、それはさすがにないわよ、私。ただ、彼の田舎が兵庫にあるという話じゃない。彼のことならなんでも覚えているはずなのに、なんでそんな重要な情報を忘れていたのだろう。


「あれ、言ったことなかった? でも、去年の夏休みも冬休みもお土産渡しただろ」

「壺に入ったプリン?」

「そう、それ」

「ああ、すごくおいしかった。あれって兵庫のお土産だったの?」

「なんだよ。ちゃんと言ったのに、覚えてくれてなかったのか」


 なんだかとても悔しそうな拓真の顔がおかしくて私はくすりと笑みをこぼしてしまう。それは本当に偶然だろうけど、私は考えてしまう。私の引っ越し先と拓真の田舎が近いなんて、これはもう運命なんじゃないだろうかと。


「まあ、いいや。楓は神戸市内のほうに引っ越すんだよな。西宮は隣だし、神戸だったら俺もいろいろ知ってるからさ、向こうで案内してやるよ」

「ほんと、やったぁ。じゃあ、おいしいところ教えてよね」


 彼に聞こえてしまうんじゃないかと思うほど心臓がバクバクを高鳴り、余りの嬉しさに声が上ずっていないかとびくびくしながら平静を装ってそんな風に答えた。

 私と拓真の時間が6回と2分31秒しかないと思っていたのに、時間が延長されたのだ。それどころか、兵庫を案内してもらうときは二人きりになるのよね。下校中の一区画を除けば、二人きりの時間なんていままでなかったのだ。

 美奈だけじゃなくて、いつだってだれかが一緒にいた。二人きりで出かけたことは一度もない。これはもうデートと呼んでいいんじゃないの?


「任せとけ。従兄弟はあっちに住んでるから、そこそこ詳しいつもりだ。楓は終業式終わったらすぐに行くんだろ」

「うん。家探ししないといけないから」

「だよな。俺もいつもはお盆の時だけだと、夏休みになったらすぐにでもじいちゃん家に行こうかな」

「そしたら向こうでいっぱい遊べるね」

「家探しの合間にだけどな」


 家探しなんてお母さんに任せちゃえばいい。これは家探しなんかよりとてもとても重要なことなのだから。でも、どうしよう。これは洋服をいっぱい持っていかないと。母の話ではウィークリーマンションを二週間契約しているという話だったけど、拓真と遊ぶなら同じ服をローテーションするわけにはいかないもの。ああ、もう。タンスを丸ごと持っていきたいなぁ。ううん。神戸にも結構おしゃれなお店があるみたいだし、向こうで買ってもいいのかも。


「やっぱり、明石焼きは外せないよな。従兄弟の兄ちゃんに教えてもらった店があって……」


 神戸での遊びの計画を立てながら、なんで拓真は美奈がいるときにこの話をしなかったのだろうかと思った。週末の予定を話していたのだから、タイミングがなかったともいえるけど、もしかして二人きりになるのを待って切り出したのだろうかと思うと、うれしくなってくる。

 もちろん、それは私の淡い期待で、真実とは違うのだろうけど、恋愛している私の脳はどんなことだってプラスに想像を膨らませる。


 「まもなく~」車内アナウンスが流れてきて、幸せの時間の終わりが告げられる。でも、今日の私は、昨日よりもほわほわした気持ちで電車を降りられる。だって、終わりは遠退いたのだ。彼は毎年夏休みと冬休みに田舎に帰っていた。

 それはつまり、大学進学で東京に戻るまで長期休みの度に会えるのだ。


 電車がどんどん減速して駅のホームに入っていく。

 扉が開き、後ろを振り返って片足をホームに下した私の耳に下車する人々の喧騒をかき分けて拓真の小さな声がすぅっと入ってきた。


「楓の転校先が兵庫で本当によかったよ」


 まるで独り言のようにつぶやかれたその言葉に私は金縛りにあった。振り返ると彼の目が私を捉えて離さない。黒くきれいな瞳に女の子みたいに長い睫毛。


 プシューっとエアーが噴出して後ろで扉が閉まる。

 ガタゴトと音を立てて電車が動き出す。いつもは拓真をどこかに連れていく電車が私と拓真を一緒に乗せて。


 それってどういう意味?――


 いつもは4分12秒で終わりを告げる時計が、13秒…14秒…15秒とその先の時間を刻み始めていた。

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