第2話 仮面の婦人
その日の明け方、教授からの依頼の分析が長引いて、午前様を通り越して朝帰りとなってしまった僕が居間のドアを開けると、まるで朝方の雑踏の中を駆け抜けていく人間達を眠そうな目をして見下ろしている塀の上の猫の様な格好で、ヤスベー(靖恵)がソファーに寝ていた。
「そんな格好で体痛くならないのか!」僕の声に生返事をしながらヤスベーは薄目を開けて再び、顎をソファーの縁にのせた。
「本当、酔っているとヤスベーは軟体動物だな!でも夜は鍵を閉めろよ。物騒だから。」再び猫の様な生返事をしてから眠りに付いたらしかった。そんなヤスベーがこの部屋に転がり込んできてから一ヶ月程経つが、保護者である教授は一向に引き取りに来る気配が無い、むしろどちらかと言えば歓迎している風にも見える。まあ、この部屋自体も昔、教授が使っていたマンションで僕には分不相応に広い部屋でそこへ、その娘が転がり込んできたとしても僕としては、追い出す権利も無い様に思えていた。その日の朝は、教授の依頼品を冷蔵庫に仕舞い込んでから、シャワーを浴びて横になっていた。教授の依頼品は考えて見れば結構物騒な代物なのだ。何処から手に入れてきたのか、そんな事を考えているうちに眠りに付いていて、昼も過ぎた当たりにヤスベーに起こされた。
「昼食を作ったけど、食べないか。その後、出かけたい所が有るんだけど・・・」
「ウーン、車出すのか?」
「うん、」
ヤスベーは僕が教えたパスタ料理を自分なりにアレンジしたらしく、良い具合に唐辛子の辛みとアンチョビの味が調和していた。
「何処へ行きたいの?」
「簡単に言えば墓参りかな。」
「墓参り?誰の。」
「母様だよ。」
僕はその言葉を聞いて、寝ぼけていた頭の中の靄がスーと晴れて行く思いがした。
依然、教授の屋敷と言うかヤスベーの家でもあるが、招かれた時にふとある写真が目に付いて、その写真の主に付いて、たまたま側にいた綾佳さんに尋ねた事があった。その写真は、目の部分に仮面を付けた貴婦人の様な格好をした女性で、やや横顔を捉えた立ち姿の画像であった。
「靖恵さんのお母様よ。」
「綺麗な人みたいだけど、これじゃー顔が解らないですね。」
「確かにね、でも辛いのでしょうね。他の写真を置く事が・・・」
「え・・」
「その写真が最期の物なのよ、その場所は、モスクワのオペラ劇場よ、あの事件の有った。」
「ええー、じゃー事件に巻き込まれて・・」
「そう、亡くなわれたのよ。」
「三木本教授は、たまたま別な場所で会議に出ていて、事件には巻き込まれずに済んだのだけど。」
その事件は、公には反政府テロと言うことになっているが、未だに謎に包まれている事件だった。それ以来、僕の脳裏には、ヤスベーの母と言うより、仮面の謎の夫人として、一枚の絵画の様に焼き付けられていた。
行き先は、郊外の海の見える結構有名な公園墓地だった。
「ねー、これって何て書いてあるの?」ヤスベーは、在る碑文の前に佇んだまま僕に尋ねた。そこには、ロシア語で書かれた短い文章が刻まれていた。
「『イワンのばか』、トルストイの小説か!」そう答えながら、僕の頭の中では幾つかの思いが答えを求めて彷徨っている様だった。
「ここが・・・お母さんのお墓?」
「違う、お母様にはお墓は無いの。」
「ええ、何で!」
「良く解らないけど、あの頃、父が『何も戻ってこないんじゃー墓の作り用が無い。』て言って、そのままだったのだけど、数年前、父がこっそりこれを建てたらしいんだ。」
「お母さんの事、何か聞かされてる?」
「詳しい事は・・・ただ事件に巻き込まれて亡くなったって、お母様はロシア人なのよ。」
「ええ!じゃーヤスベーてハーフか。」
「見えないでしょー、何でもアジア系だったとかで。」
「ふーん、それで酒があんなに強いのか。」
「それって、何だかこじつけっぽくない!」
「それなら、ロシア語とか勉強しなかったのか。」
「私の知っているお母様はどう見ても日本人よ。」そう言ってヤスベーは一枚の写真を見せた。そこには和服を着たヤスベーの母親が、教授と共に、何の違和感もなく日本の背景に溶け込んでいた。その時やっと、あの仮面の夫人の正体が僕の中で明確になっていった。
「僕も一寸寄りたい所があるんだけど良いかな!」
「良いけど・・何処?」
「まあ行けば解るよ。」
僕等は高速を少し走ってから、大きな公園の駐車場に車を置いてその場所を目指した。
教会に続く石畳は昔のままで、何となく懐かしくて落ち着くアプローチだった。
「へー良い感じね。哲平がこんな所知ってるなんて意外だね。」
「ふん、知ってるも何も、此処は僕が育った所さ。」
「ええー」
「教授、いやお父上から聞いてないか。僕の素性?」
「ふんん、ロシアから脱出した事とか、実は凄い物理の先生だとか・・・」
「僕が孤児だって事は?」
「いえ、聞いてないよ。」
「此処が、僕を育ててくれた教会さ。今は、その時の牧師さんじゃなくて、義理の姉夫妻が運営しているけど。」そんな話しをしながら、僕等は教会の前までやって来ていた。休日礼拝も終わり物静かな礼拝堂に入ると、何となく懐かしい匂いがしていた。
「哲平、孤児だったって、じゃー親の顔知らないの?」
「親代わりは、その時の牧師夫妻さ。僕はこの教会の前に捨てられていた訳で、だからどんな親かわ知らない。」
「でも何か手がかりとか無かったの?」
「牧師の義父が色々手を尽くしてくれたけど、結局解らず仕舞いで、そんな訳で、誕生日も解らないから、僕が見つかった日の7月7日を出生日として法的に処理したんだ。だから実年齢とは多少の誤差が有るだろうけどね。牧師夫婦には子供が居なかったから、そのまま養子として育ててくれた、そうこうしているうちに、三歳年上の姉と二歳下の妹が引取られて、他人同士の兄弟姉妹が出来たて訳さ。運良くこの辺は、市の公共用地だったので、変な開発もされず昔のまま、今のほうが良い感じかもしれないかな・・・残ってるんだ。」ヤスベーは珍しくしんみりした顔をして回りを見渡していた。暫く礼拝堂の中で物思いに耽っていると、事務所の方から声がして来た。それは聞き覚えのある義姉の声と、もう一人、それも聞き覚えのある声だった。
「あらもう来ていたの!」姉は僕等を見つけて気さくに声を掛けてきたが、もう一方の連れにヤスベーが素早く反応した。
「綾佳さん!どうして此処に?」それは、教授の別荘にお邪魔した時に一緒だった山下綾佳女史だった。
「今日は珍しい人達が集まる日みたいね。」姉が口火を切った。姉が喋りだすと、粗方長い話しとなる。要は綾佳さんと姉は大学の先輩後輩の間柄で、その先輩の所へ久しぶりに尋ねてきた所へ、僕等もたまたま訪れたと言う事の様で、連絡を受けていた姉が旨いこと計らってくれたと言う話しを、マタイ伝の文章を引用しつつ、もったいぶって説明してくれた。僕等三人は、礼拝の説教でも聞かされるかの様に、長椅子に座ってその話に付き合わされた。
「ああ・・・お久し振りです。まさか綾佳さんが姉の後輩とは・・」
「ええ、ご兄弟やご家族の経緯は、先ほど詳細にお伺いしましたわ。そうとは知らずに、前回は拝領の無い発言をしていたかも知れませんね。」
「いや別に、気になる様な事は無かったですけど。」
僕等は、ヤスベーが姉の説法の餌食にされている間に礼拝堂を抜け出して裏庭のベンチの方へ移動していた。
「此処は子供の頃から好きな場所なんです。この丘から見下ろす、街越しの海が何だかそのまま世界に繋がっている様な感じがして。ああ、一寸待ってて下さい。」そう言って僕は、教会のキッチンから自家製のクッキーと紅茶を持って来た。
「義母がおやつ用に良く焼いてくれて、その伝統を義姉も受け継いでくれた様で、教会で暮らしている中での唯一の楽しみみたいなもんですかね。」
「ご両親は、東北の方へ越されたとか?」
「ええ、湖の畔の山小屋で自給自足の生活を始めています。もう一度信仰を見つめ直すためとかで・・・どうもその切っ掛けを作ってしまったのは僕のせいみたいですけど。」
「え・・何故ですか?」
「両親は、僕がこの教会を継いでくれるものだと思っていたらしく、期待に反して僕は、神学とは真反対の唯物的な学問を選び、挙げ句の果てにさっさと留学して、しかも当時は宗教が禁じられている様な国へね。でも、清香姉さんが継いでくれたので助かりましたが。」
「私も同じ様な者ですね、家を継ぐのが嫌で、何だかんだと口実を付けて飛び出して来てしまって・・・私一人っ子なんです。」
「へー、それは一寸厄介ですね。」
「ええ、哲平さんお婿さんに成ってくれますか?」
「ふーむ、似たような事を教授からも言われましたね。」
「靖恵ちゃんの・・・それで同返事したんですか?」
「返事と言うか、保留させてもらっています。今もだけど、ヤスベーの事はまだ良く解らない。つい最近、彼女がロシア人ハーフだったって事を知った位だから。」
「最もかもしれませんね。ですから私も候補として名乗りを挙げさせて頂ます。それで早速なんですが、私も居候させて貰いたいです。」
「はあー・・・」
「三木本の叔父には了解貰っていますので、靖恵ちゃんも居候してるとかで、お願いします。」
「まあー教授がそう言ってるのなら、元々僕の部屋じゃないし、ヤスベーが転がり込んで来た時も、僕には追い出す権利も無いもんですから・・・何だかまた変な兄弟姉妹の暮らしが再現されそうだな。」
「靖恵ちゃんは妹で良いですけど、私は哲平さんより一寸上ですよ。」
「あっ、そうですか。どっちも妹でも良いですけど。」
「そうじゃ無くて、どちらかと言えば姉の方じゃないですか。」
「えーそうなんですか!・・・・実は他にも一寸こまった問題が有るんですが・・まあ、その件も有って今日この教会に来たんですけどね。」
「どんな事ですか?」
「妹の事は姉から聞いていますか?」
「妹さんて、ご両親と共に東北に行かれている?」
「ええ、妹は極端な人見知りと言うか、僕と親以外の対人恐怖症と言うか・・・その妹が僕の所へ来るらしいんです。数日前に義父から連絡が有って、義姉と相談しようと思っていた所なんですよ。」
「はああ、それは・・・じゃあ靖恵ちゃんにも拒絶反応を示しますか!」
「ええ、女であれ男であれ、駄目でしょう。だから僕がこの教会に移ろうかとも思ったんですが、姉夫妻の迷惑にも成るし。」綾佳さんは暫く遠くに見える海を見ながら思案を巡らせて居る様だった。
「要するに、みんなが一緒に住めて、それぞれのプライバシーが守れる居住空間があれば言い訳ですね。できれば哲平さんと妹さんは一緒の方がいい。」
「彼女はそうしたいでしょうが、妹と言っても血は綱がって居ないし、何処か手頃なアパートにでも越そうかと考えていた訳ですが、義妹と二人暮らしと成ると、一寸考えてしまう状況です。・・・義姉からも聞いているでしょうが、僕がこの教会の両親に育てられ始めてから、最初に兄弟として連れて来られたのが妹なんです。だから、その後に来た姉に懐くまでには結構時間が掛かって・・・そんな訳も有って、両親が姉夫妻にこの教会を継ぐ時に、妹を連れって行った訳なんですが。本当は僕が継げば、良かったのか知れませんけどね・・・でも僕は聖職者には向いて無いし。」
「哲平さんて、生まれつき女難の相が有るみたいですね。ウワバミみたいな酒豪の靖恵ちゃんや跳ねっ返りの不良娘の私、対人恐怖症の妹さん、それにお姉さんも結構癖が有りますよね。」
「うーん、それも昔誰かに言われた気がするけど。」
「冗談はさておき、居住空間については、思い当たる場所が有るのですけど。ただ一寸手を入れなければ成らないと思いますが。」
僕等は、それから暫く夕焼けに染まる街並み越しの海を見てから、ヤスベーの所へ戻った。ヤスベーは、やっと姉の説教から解放されたらしく、夕食の手伝いをしていた。僕等も一緒に加わって、如何にも教会らしい夕食を作り、それぞれの近況をおかずに質素な夕食を終えた。綾佳さんは、帰宅したが僕とヤスベーは教会に泊めてもらう事にした。
「哲平、昼間師匠(綾佳)と何を話してたんだ。」講堂の横に有る仮宿泊所のベットの寝袋にくるまっていたヤスベーが声を掛けた。
「何だ、眠れないか。アルコールが無いと駄目かい。」
「いーや、別に。私だって一年中泥酔してる訳じゃないぞ。」
「そうか、ここ一ヶ月程じゃー僕が帰ってくると何時も軟体動物化していた様だが。」
「だって、哲平が帰って来るのが遅いんだよ。たまには夕飯も作ってあっただろう。」僕は
、久々にまともに話すヤスベーとの時間を、ふと嬉しく感じていた。
「ヤスベーは父上の所に戻らないのか。」
「戻らなきゃ駄目か?」
「うーん、一寸事情があって、あのマンションを出なければ成ら無い事に成りそうだ。ヤスベーは残っていても構わないだけど、もともと父上の物だしな。」
「妹さんの事でか?」
「うん・・・」僕は昼間の綾佳さんとの話しの内容を話して聞かせた。
「師匠は、何か当てが有りそうな様子だったのか?」
「その家は一寸手を入れなければ成らないって、言ってたけどな。」
「ふーん・・・多分彼処だな。」
「ヤスベー知ってるのかい。」
「一族の持っている別邸だろう。街もそう遠くないし・・森林公園の近くだ。面白い作りをした家なんだが、最近は誰も住んでいないから荒れ放題だろうな。」
ヤスベーは、その家の経緯を話しながら寝入っていた。幼い頃、母親と過ごした時期があったらしいが、話しの内容からでは詳細なイメージが作り難かった。
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