塀の上の猫達
QCビット
第1話 モスクワにて
まだソビエト連邦が崩壊する少し前の時期、超流動に関する発動性群論を用いた僕の論文がモスクワアカデミー(ランダウ理論物理研究所)の目に止まって、留学する事になった。ソ連の物理学者、ランダウは僕の憧れの学者でもあり、超流動物理学の草分け的存在でもあった。そんな憧れの地に行くこと自体何の躊躇いもなく、むしろ光栄にさえ思えていたが、時代の流れは、ボゾン集合体である液体ヘリウムを加温させタダの液体に戻してしまった。ソ連の崩壊と共に、暫くモスクワから脱出出来なくなってしまっていた時期に、僕は三木本教授と出会った。その日突然モスクワ市街に進行してきた軍隊に、何が起こったのか解らず、大使館からの勧告に従い避難場所に向かった。出がけに、友人に事態の内容について尋ねたが、逆に何か解ったら知らせてくれと言わんばかりの対応で、モスクワ子ですら状況を掴んでいない有様だった。ブラックイーグル戦車が走り回るクーデター騒ぎの最中、邦人の避難場所となったホテルに辿りついた僕は、やけに気楽な格好で何の緊迫感も感じられないおっさんに出くわした。でもそのおっさんのおかげで、難無くモスクワを脱出し、一寸時間は掛かったが、ウラジオストック経由で新潟まで辿り付くことが出来たのであるが。そのおっさんが三木本教授だった。教授は所謂、国際関係学の教授で、国家間の複雑そうで実は単純、単純そうで実は千年越しの恨み辛みが積み重なった軋轢など、経済問題から軍事紛争までの国家間のやり取りを研究するのが仕事で、特に軍事紛争については世界的な権威の一人として知られていた。でも僕から見るとタダの軍事おたくが大人になった様にしか見えないのだけれど。実際、危うくマカロフを国内に持ち込もうとしたのを、何とか説き伏せて止めさせた位だった。
「哲平君、マカロフはね、ワルサーをモデルに、それまで安全装置が付いて無い、かなり危ないトカレフを改良した素晴らしい銃なんだよ。これは博物館にでも飾って置きたい位なんだ。」そう言いながら残念そうに、教授は銃を海へ捨てた。そんな縁もあって、僕は、教授からのロシア語関連の資料の翻訳を頼まれる様になった。
「資料は読めるんだが、物理科学的な内容が今ひとつ解ら無いんだな。だから解説を付けて翻訳して欲しいんだ。」そんなアルバイトがきっかけで、結局教授の研究室の助手として働く事になった。一方本業の物理の方は、研究員として、同じ大学の物性学研究室に在籍させて貰っていた。その研究室に事務員としてやって来たのが飲べヤスベーこと靖恵だった。靖恵は三木本教授の一人娘で、母親は彼女がまだ小さい頃に他界していた。その後は、家を留守にしがちな教授に代わり、三木本家の祖母に育てられて来たが、教授曰く、母親の遺伝とかで、短大に入った頃から無類の酒好きの性格が目覚めてきて、現在に至っている。三木本家は古くからの資産家で、その洋館の広さといい、メイドさんやら執事とやらがいて、庶民の生活とはかけ離れた所があるお屋敷だった。そんな洋館に、帰国後数日してから招かれた時に、靖恵と逢った。始めは良家のお嬢さんとしか見ていなかったが、酒を飲み始めると一変する。その日も酔いつぶれた靖恵を、教授や執事たちと苦労して部屋まで運んだ。そんなハプニングが、日常化する位までに、その洋館に出入りした頃、教授が
「まだ少し先の事だが、靖恵の面倒を見てもらえ無いだろうか。娘も哲平君の事を気に入っている様だし。」いきなりの提案に面食らったが、その場は何とかやり過ごした。だいいち、靖恵を知っていると言っても、その殆どが、酔っぱらってグニャグニャになった状態の時でしか無い。辛うじて、数回、彼女が素面の時に、大きなテーマパークや遊園地や高層ホテルのディナーにお伴した位で、彼女の事は殆ど知らなかった。それにも関わらず、同じ大学内の短大に通っていた靖恵は、ぼくを見つけると、自分の兄か親戚の様に馴れ馴れしい態度で接して来たので、僕はなるべく距離を置いていた。でも、学生達のコンパ等の後は決まって、僕の所へ連絡が来た。
「山本さん、ヤスベーが・・・」知り合いの女子学生からの連絡で、担架を担いで出動するお決まりパターンだった。
夏休みに入り、教授の誘いで八ヶ岳の別荘に行くことになった。当然靖恵も一緒だが、一行の中に初対面の、一見して高校生に見える女性が居た。靖恵もどちらかと言えば、幼顔の方だが、その女性と居ると姉妹の様にさえ見えた。
「此方、山下綾佳さん、こう見えてもM大付属高校の物理の先生でね、武術家でもある。ええと、合気道だったっけ?」教授は、僕にその女性の紹介がてらに彼女の素性を簡単に説明してくれた。
「Tフォレストの創設者の家系で、昔は南アルプスを持っていたって言う山下家のお嬢さんだ。」
「初めまして、山下綾佳です。山本さんの論文幾つか読まさせてもらってます。」
「いやー恐縮です。大したもんじゃないですけど。ああ、初めまして山本哲平です。」僕は一寸出足を挫かれた様な格好で挨拶した。
後から解った事だが、彼女は僕より幾つか年上であった。
「モスクワのアカデミーってどんな感じ何んですか?」綾佳さんの切り出した言葉に少し面食らいながら
「ええ、僕の素性をご存じなんですね。」
「はい、教授から伺っていますので。」
「はあ・・・アカデミーですけど、思っていたより自由な感じかな。初めはお国柄からの印象でコチコチのお堅い雰囲気かと思いましたが。クラスメートって言うか、向こうで知り合ったダチと良く旅行した時、うっかり軍の研究施設に入り込んでしまって、カービン銃を持った兵士に囲まれた事がありました。その時アカデミーのパス(身分証明書)を持っていたので無事でしたが、そんな訳でアカデミーは結構な権威も持っています。でも、クーデター後の状況は良く解りませんが。何だか取り留めの無い説明ですね。」僕の要領を得ない話しの後で
「少し肩の力抜きませんか、お互いに。教授の紹介で、変な先入感を持たれたかもしれませんが、私別にお嬢様ではありませんから、小さい頃は男勝りの野生児の様なもので、山の中を駆け回っていたんです。」
「いやー、外見からするとヤスベー、いや靖恵の妹に見えるもんですから、どう接したら良いか戸惑っていました。」その言葉に靖恵が素早く反応した。
「哲平、それは無いだろう。綾佳先生は私の師匠だ。」
「師匠?何の。」
「合気道だ、これから向かう所に道場が有るんだよ。」
「道場、別荘じゃ無いの。」
「別荘も有るよ。でも哲平も少しは鍛錬した方が良いぞ。」
そうこうしているうちに、教授と執事の森山さんがベンツの中型バスでやって来ていた。
暫く高速を走った後、山間部の道路に入り視界が開けた高原にそれは在った。別荘は閑静な木立の中に点在する形で建てられていて、中央部にホテルを兼ねたレストランとその脇に温水プールそして武道館らしき物があった。少し離れた所には、天然温泉のクワハウスとテニスコートが整備されており、一体がリゾート地帯の様な状況で、強いて言えば海岸が無い事だけで、全体としては留学していた時に一度連れて行ってもらった黒海の療養共同体コープと似ていた。
「まさか、この一体が三木本家の所有とかじゃないよね。」僕が靖恵に尋ねると
「土地は殆ど家の物らしい。要するにこのリゾートを経営している企業の株主かな。」
「ヤスベーの家と良い、綾佳さんの家と良い一族や知り合いだけで日本の殆どを持ってるんじゃないのか?」
「それは一寸大げさですね。でもご先祖様からの土地を成るべく手放なさい様に工夫しながら家系を守って行くのは結構大変なんですよ。」綾佳さんが弁解する様に説明してくれたが、やはり庶民の感覚からはほど遠い世界の事の様であった。たしかにイギリスでは今でもお城に住んでいる領主様が居るし、革命前のロシアでは日本の何倍もの土地を所有していた貴族もいて、その末裔に会った事もあった。そう言う意味では、日本ではこの種の人間は確かあまりに目立たない、と言うかあえてそうしているのかもしれない。そんな事を考えていると、ふと疑問が沸いて
「綾佳さんは職業は高校教師ですよね。M大付属の。」
「ええ。」
「まさか、お父上はM大のオーナーとか?」
「オーナーではありませんが理事です・・・
哲平さんまだ肩に力が入ってますわね。山や土地を持っているからと言って、お金持ちて訳では有りませんのよ。資産を運用し、人の役に立ってこそお金が入ってくるので、特に山は手間の掛かる割に収入は多く無いんですよ。金山でも持っていれば別ですけどね。」そんな議論をしながら別荘についた。別荘はログハウス風で二階に三部屋、一階に二部屋あり、居間には薪ストーブがあった。
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