第8話

 どのくらいの間、僕は立ちつくしていたのでしょうか。ハッと気がつくと、彼女はけげんそうな顔をして、僕をみていました。

 「あの、何か御用でしょうか。」

 僕は、急に現実にひきもどされました。そうです、あれはやっぱりただの夢だったのです。だから、彼女が僕のことを知っているはずがありません。僕はとっさに、

「あ、すみません。ちょっとお伺いしますが、この辺に山田さんというお宅はありませんか。」

 彼女は、ちょっと小首をかしげて、

「まだ引っ越してきたばかりなので、ちょっとわからないんですけど、おとなりで聞いてみていただけますか。」

そう言うと、ひきかえそうとしました。僕は、何とかもう少し話をしていたい一心で、言いました。

「あの、失礼ついでにもう一つ、今弾いてらしたピアノの曲名を教えていただけませんか。前に聞いたことがあって、とても気に入っているんです。」

 彼女はふしぎそうな顔をしました。

「あの曲は誰も聞いたことがないはずよ。だって、ずっと前に私が夢の中で・・・」

 彼女は目を大きくみひらいて、僕をみつめました。そして、白いほほにほのかに赤味がさしてきたかと思うと、急にうつむいてしまいました。

 やっぱりただの夢じゃなかったんだ。そう思うと、胸がどうしようもないほどドキドキしてきました。僕はやっとのことで言いました。

「あのガチョウさんは元気ですか。」

あのひとは僕の目をみつめながら、小さく、でも、とてもしっかりとうなずきました。

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