第2章
狩野忍
月曜日、朝からたっぷりハトムギ茶を飲んで俺は自転車に飛び乗った。
職場まで30分。5月下旬ともなると、出勤するだけで汗だくになる。そんなときに、あさひ市特産ハトムギ茶。水分だけでなく、不足しがちなミネラルも補える。おまけに美肌効果もあるというすぐれものだ。
俺なんか家のまわりがハトムギ農家だらけなので。ざわわざわわとハトムギ畑のざわめきを子守唄代わりに育った。それが潜在意識に影響を与えたのか、母乳に飽きたあとは祖母が大量生産するハトムギ茶を毎日飲み続けている。
サングラスとヘルメットを着け、ペダルをこぎだす。脚の芯に力が入らないように感じる。おそらく、昨晩90分コースで4発イッたからだろう。
ツユソラとはじめて会ってから、あの店に週5で通っている。おかげで貯金が底を突いてしまった。入社以来、実家暮らしブーストでそこそこ貯めていたカネがぱおぱお氏にシノのアバターを作ってもらったとき一度吹き飛んだ。そこからまた徐々に額が増えていたのだが、今度の件でまたゼロになってしまった。
もうすぐ給料日だから、それまでは行くのを我慢しよう。通う頻度も考え直さなくては。このままでは破産してしまう。
ガシガシこいで脚がパンパンになる頃、職場に着く。株式会社スマイルアクアサービスあさひ支社。栃木県から委託を受けて水道事業を運営するコンソーシアムの一員だ。現在、水道料金値上げのせいで絶賛ヘイト集め中である。
水道民営化は広域連携で設備を効率的に利用し、コストを削減できるという前評判だったが、実際には人を減らして給料も減らすというブラックなやり口でなんとか生きながらえているというのが現状だ。水道に何かトラブルがあったらクソほど叩かれるのに、日々の仕事をちゃんとやってても特に褒められはしないというこの毒親みたいな職場。こんなもん真面目にやってたら心をへし折られる。
俺は適当にやっていくと決めた。この苦行を適当に乗り切って、スフィアで楽しく生きる。
社屋正面の駐車場に自転車を停め、チェーンロックをかける。駐輪場も駐車場もほとんど空だ。スマホを開いて見てみる。午前7時55分。
適当に働いてはいるが、出社はいつも早い。会社のごみ捨て場に紙おむつと電動オナホの使い捨てカップを捨てなくてはならないからだ。スフィアにインするときに使うそれらのものを家のごみに交ぜたら親に怪しまれる。実家暮らしのつらいところだ。会社なら社屋脇のでかいごみ箱に放りこんでおけばいい。
防臭ポリ袋に詰めた汚物を捨てに行こうと歩きだしたとき、特徴のある車が門から入ってきて俺のすぐ前で停まった。
青いコンパクトカーの屋根に同色の砲塔みたいなものが載っている。運転席の窓が開いてドライバーが顔を出した。
「おはよう」
「あっ
斎木みやびは俺の直属の先輩だ。この春、本社からあさひ支社の総務部施設計画課に異動してきた。学年でいえば2コ上だが、俺の方が大学で2留しているので、社歴でいうと4年先輩になる。
「
「それが……ひとつ問題があって、災害派遣のレポートを本社に催促してるんですけど、ずっとシカトされてるんですよ。なんとかなりませんか」
「じゃあわたしの方から言っとく」
斎木さんがドアを開けると、屋根の砲塔から機械のアームが伸びてきた。先端にぶらさげられた車椅子をゆっくりとおろし、地面に据えると、また折りたたまれて砲塔の中に収納される。
「おおー、かっこいい」
「そう?」
彼女はお尻をずらして運転席から車椅子に乗り移り、ずれた眼鏡を指で直した。車のドアを閉めると、鞄とスーツのジャケットを膝の上に乗せ、車輪を転がし走りだす。車椅子の背もたれに介助用のハンドルがついているが、ビジネスマナー的に先輩の車椅子は押すべきなのかどうか――などと考えているうちに彼女は俺の前を音もなく通り過ぎた。
「行かないの?」
そう言って会社の玄関を指差す。
「あっはい。行きます行きます」
紙おむつとオナホを捨てに行くタイミングを完全に見失ってしまった。俺は防臭袋の機能を信じて斎木さんのあとを追った。
なんだか忙しい一日だった。
日常業務である水道需給基本計画のデータ整理を行いながら、豪雨対策事業案の資料を集め、午後には給水部との打ちあわせも行った。再来月、関西豪雨から1年という節目に開催される「あさひ市豪雨対策シンポジウム」が終わるまではこんな日々が続くのだろう。
午後6時ちょっと前に、俺はパソコンを閉じて席を立った。
「お先に失礼します」
施設計画課の皆に挨拶してロッカーに向かう。
俺は給料以上に働くつもりはない。残業代も出ないのだから、時間が来ればさっさと帰る。上司や先輩方より早く退社することに対して、以前課長から軽く説教されたが、余裕でスルーした。
背中にスマイルアクアサービスの頭文字から取ってSASとプリントされた、テロリストとかに強そうな作業服をロッカーに放りこみ、鞄を手に取る。その重みで朝のことを思い出した。紙おむつとオナホを捨てて帰らなければ。
社屋を出て、暗い駐車場を歩く。玄関から見て建物の陰になったところに蓋つきの大きなごみ箱がふたつ置かれていた。となりには缶やペットボトルの回収容器が並んでいる。
鞄からおむつ入りポリ袋を取り出す。さいわいなことに、臭いその他の漏れはない。
ごみ箱の並びを見て、すこし考える――どっちが燃えるごみだったか。どこかに書いてあるのではないかと観察してみたが、暗くてよくわからない。両方の蓋を開けて中を見てみるが、それでもよくわからない。
俺はスマホのライトで照らそうと、空いた手でパンツのポケットをさぐった。だが見つからない。
鞄に入れたのかと思い、手を伸ばしかけたところ、
「はいスマホ」
背後から声をかけられた。
「うわっ」
俺はびっくりしてポリ袋を取り落とした。
ふりかえると、斎木みやびがスマホを差し出していた。
「な、何してンスか?」
「机にスマホ忘れてったでしょ。だから追いかけてきた」
「ど、どうも……」
俺は彼女からスマホを受け取った。通知のランプが点滅している。
「で――」
斎木さんが車椅子を動かして音もなく俺の背後にまわった。「狩野くん、ここで何してるの?」
「えっ? いや、それは……」
俺が口ごもっていると、彼女は一周して俺の前にやってくる。
「ひょっとして、ごみ捨てようとしてた?」
「えっと……」
「会社のごみ箱に家庭ごみ捨てるの駄目だってわかるよね? 会社のお金で回収してもらってるんだからさ」
「はい……すいません」
現場を押さえられているので弁解のしようがない。俺は数日前雨あがりの朝にアスファルトの路面で干からびかけていたミミズをつまんで土の上に運んでやったことを思い出し、「おい、いまだぞ」と念を送ったが恩返し的なことは何も起こらなかった。
「何を捨てようとしてたの?」
斎木さんが地面のポリ袋を拾いあげようとする。それを俺はあわててかすめ取った。
「これは勘弁してください」
「何よ。まさか危険物じゃないよね?」
「ちがいます」
「じゃあ見せて」
彼女は低い位置からにらみつけてくる。
まずいことになった。袋の中身はある意味危険物だ。バレてしまったら俺の社会人生命が危うい。だが、ここまで来ると無傷では切り抜けられそうにない。ならば差し出す、腕一本! たとえ切り落とされても命には代えられない。
「これは紙おむつです」
「は?」
そう、俺の守るものはオナホただひとつ。オナホ・イズ・マイ・ライフ。それさえ隠しおおせれば、あとはなんとかなる。
「紙おむつって……狩野くんの?」
「そうです」
「そっか……」
斎木さんは口に手を当て、深刻そうな顔でなにやら思案している。オナホのせいで価値観が麻痺してたけど、ひょっとして紙おむつもアウトか?
「狩野くんさぁ――」
彼女がちらりと腕時計を見る。「このこと会社に黙っといてほしい?」
「できれば」
「じゃあ夕ご飯
「え?」
意外な申し出に俺は面食らってしまった。「いいんですか、それだけで」
「うん。いま仕事を片づけてくるから」
彼女は車椅子の車輪を転がし、去っていく。俺はその後姿をぼんやり見つめた。
こちらの視線に気づいたのか、彼女がふりかえる。
「それ早く捨てな」
「あ、はい」
俺は、これまさか今後毎日メシ奢れって話じゃねえだろうな、と考えながらごみ箱をスマホのライトで照らし、ポリ袋を放りこんだ。
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