第31話 ナイファンチ

 昌子は空手道場 樹心館の入り口をくぐり階段を昇る。古いマンションの二階に、その道場は開設されている。決して有名な道場ではないが師範の教える空手を見て彼女はここであれば自分の目指している空手を極められるのではないかと思い入門した。


「えい!やー!」子供達の声が聞こえる。今日は少年部の指導の日であった。

 昌子は女子更衣室に入ると着ていた制服を脱いだ。胸の大きな彼女はスポーツ用のランジェリーを身につけてから空手道着に袖を通し腰に黒帯を絞めた。


「こんばんは!」二階の道場の入口で一礼をして丁寧にお辞儀をする。この道場の魅力はこういう礼儀作法もキチンとしているというところである。学校では冗談ばかり言っている昌子ではあるがこの場所では真面目に空手の練習をしいる。


「こんばんは!昌子ちゃん先生だぁ!」子供達が昌子の元に駆け寄ってくる。道場の方針でこの道場では押忍という挨拶はしない。押して忍ぶ、確かに素晴らしく武道らしい言葉であるが子供達が外でキチンとした挨拶が出来るようになるという目標をあげておはようございます。こんにちは。こんばんは。これを道場内においても使うように指導されている。

 この道場に来てから子供がちゃんとした挨拶が出来るようになったと保護者も喜んでいるそうだ。


「こら!ちゃんと昌子先生と呼べ!」道場師範の竜野が、子ども達をたしなめる。彼は昌子の空手の先生であった。歳は四十代半ばといったところだ。彼の空手を見て、自分が求めているものと合致するものを感じた。そして頼み込んで通いではあるが内弟子にしてもらった。 

 元々、空手の経験があった昌子は異例の速さで、黒帯弐段に昇段した。今では少年部の指導補助をしている。


「はい、自然立ちに構えて!」昌子の声が道場内に響き渡る。


「やー!」子どもたちが、昌子の号令に合わせて、基本動作を反復する。一連の動作を終えて小休止。

 父兄の間でも昌子の指導は評判がいい、程よい厳しさと気配り、子供達にも人気であった。


「ねぇ、ねぇ、昌子ちゃん先生!型を見せて!」子供達が、おねだりする。昌子は、竜野のほうを見る。


「こら!だから、昌子先生と呼びなさい!型は見せ物じゃないんだぞ……、でも、私も久しぶりに昌子君の型を見てみたいかな」竜野は腕組みをしながら微笑んだ。


「わかりました」そういうと、昌子は道場の中央に立ち呼吸を整えた。どの型を披露するか考えた末、自分の一番好きな、そして一番たくさん練習してきたこの型を打つ事にする。


「ナイファンチ!」昌子は、両手の平を重ねながら、足を交差。顔を右に向け鋭い視線で仮想敵を睨む。そのまま右に一歩移動し右手を開いて肘内。そして引き手をして逆の手で下段払い。彼女の見事な演武は見学している全ての人を魅了する。


「ヤー!」最後は大きな気合いでナイファンチの型を終わらせた。


「……おー!」彼女の型に、言葉を失ったのか、少しの間をおいてから拍手が起こった。


「すげー!」子供達は興奮したように歓声を上げた。見学に来ていた保護者達も、彼女の型に魅了されていたようだ。「私もやってみたい!」若いお母さんは憧れの目で昌子を見た。


「素晴らしい!その歳で、ナイファンチをそれだけ出来たら十分だ!」竜野も拍手をしながら彼女の型を誉め称えた。


「ありがとうございます」昌子は深々と、お辞儀をする。少し顔を赤くして照れているようであった。この女の子らしい表情をする昌子を見たらまどかもびっくりするかもしれない。


「しかし、君のナイファンチを見ていたら、昔の友人を思い出したよ」竜野は唐突に思い出話をはじめた。


「えっ、私の他にもナイファンチをされる方がこの道場におられたんですか?」樹心館の所属する流派は独自の型がありナイファンチは、普通は練習しない。ただ昌子は師範に特別許可をもらってこの型の練習を続けていた。


「ちょっと変わった名前なんだけど、私の学生時代の後輩で近藤睦樹というんだが若くして事故で亡くなってね。いい男だったんだけど……。樹心館の指導員として、この道場の立ち上げ時も色々と手伝ってもらったものだ」竜野は懐かしそうに睦樹の事を話した。


「この道場に……、近藤先輩が……」昌子にとって、その話は初耳だった。


「先輩?まあそうだな、亡くなったのは、昌子君が生まれた頃だと思うが……」昌子が知る筈の無い睦樹の事を先輩と呼んだことに違和感を覚えたがそこには触れない事にした。


「ここに、近藤先輩が……、ここでナイファンチを……!」昌子は、膝から畳の上に落ちて、突然泣き出した。ギリギリで我慢していた感情が一気に溢れでたようであった。


 竜野を含め、少年道場生、保護者は何が起きたのか解らず、泣き続ける昌子の姿を見つめているだけであった。

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