第29話 告 白
2020年夏
あの日からまどかは自分の部屋に引きこもり魂の脱け殻のようになっていた。既に体の中から水分もなにもかも枯れてしまったかのように涙が出なくなってしまった。
「睦樹さん……」時折、その名前を呟いてみるが悲しみが津波のように押し寄せてくるだけであった。
あの片山という名のストーカー男からまどかを救ってくれた睦樹が、彼女の膝の上で絶命したかと思うと彼の姿と血痕が綺麗に消えてしまった。睦樹が触れたまどかの頬に付着していた彼のものと思われる血も消えていた。襲ってきたストーカー男は、女性の首筋をナイフで切り裂き殺害した無差別殺人の目撃者に通報で駆けつけた警察官に現行犯逮捕された。男の両目は何者かに潰されて失明してしまったそうだ。しかし何者によってその目が潰されたのかは警察のその後の調査によっても判明しなかったそうだ。もう、あの男がまどかに危害を加える事はないであろう。
まどかとその周りにいた人達は、消えてしまった睦樹の事を何度も説明したが、警察には信じてもらえなかった。犯人の男が所持していたナイフからは、殺された女性以外の血痕は全く付着していなかったそうである。やはりまどかの顔に付着していた血痕と同様にナイフに残された彼の血液もこの世から姿を消してしまったようである。
ナイフに残された指紋も犯人の物だけだったそうだ。通り魔から群衆を助け忽然と姿を消したヒーロー。この不思議な話はテレビでも報道されたが、その扱いは朝の情報番組のオカルトコーナーの扱いだった。
『現場から中継です。未成年の容疑者Kが刃物を振り回して、女性を殺害した場所がここです。男は手にもった刃渡り20センチの包丁で被害者の飲食店経営者の女性を刺した後、辺りにおられた方々に切りかかったそうです』朝の番組の男性レポーターが、中継しているようだ。
『聞いた話によると、他に刺された男性がいたそうなのですが刺されたその男性がK容疑者を殴りつけて静止したとの情報があるのですが、その辺の話はありますか?』スタジオでメインキャスターを務める大手芸能会社のお笑い芸人が真剣な口調で質問する。中継画面の右上のワイプ画面に、色々な方面の識者がコメンテーターとして、顔を出している。
『たしかにそのような話もありましたが警察の発表によりますと、女性の他に被害者はいないということです。あまりにも悲惨な状況で皆さんの記憶が錯乱されたのではないかと思われます』レポーターは、右手でイヤホンを押さえながらキャスターの質問に答えた。
『いつか、こんな事件を起こすんじゃないかと心配していましたが……』容疑者Kの友達という少年がインタビューを受けていた。モザイクはかかっていたが、サングラスをかけて、オールバック。いかにも素行が悪い印象を視聴者に与えた。こんな凶悪事件を起こした片山ではあるが、未成年者という事でその素性が隠されている。ただ、両目の視力を永遠に失った彼の今後は困難が待ち受けているであろう。
『本当に摩訶不思議な事件でした』尺が無くなったのか、なんだか中途半端な締めで、片山という男による無差別殺人の報道は終了した。殺された年配の女性と片山というストーカー男は元々面識があり、テレビの報道番組の情報によると、痴情のもつれが原因だったそうだ。そして、薬物を常習していて男は意識が錯乱していたそうだ。
使用された凶器は、男が常備していた物で、彼の所持していた鞄の中には、他に数本のナイフ、縄、スタンガンなどが入れられていたそうだ。
まどかにとってはこのストーカー男の事よりも、消えた睦樹がどうなったのか?興味はそれ以外になかった。彼女は、近藤睦樹という人物を警察にもお願いして、探してもらったが、そのような人物の該当者はいないということであった。ただ、女子高生の妄想とも思える依頼に対して、どこまで警察が真剣に取り組んでくれたのかは怪しいところではある。報告された調査の結果を信じるのであれば、この世界に存在しない人、それが近藤睦樹なのだった。
トントン。
まどかの部屋のドアがノックされる。まどかは、反応しない。
トントン。
ノックは何度か繰り返される。
「まどか、お願い……、少し話があるの……入っていい?」まどかの母が、部屋の外から声をかけてきた。その声は張の失われた元気のない声であった。それでもその声に答えることも無くまどかは気力が沸かず大きな人形のようにその場に崩れ落ちたままだった。今、誰とも話をする気分にはなれなかった。
ゆっくりと、ドアが開く。元々まどかの部屋に鍵はない。
「勝手に入るわよ……。まどか、私は、お母さんは……、あなたにどうしても話さなければならない事があるの……」母は、まどかの横にゆっくり座ると正座の姿勢になった。母は神妙な顔つきでまどかの反応を無視したように強引に話を始めた。
まどかは相変わらず、気の抜けた人形のように床を見つめつづけるだけだった。
「あの事件の事……、警察は、あなた達の言うことを……、近藤って人がいた事を認めなかったけれど……、お母さんは、信じるわ……、お母さんには思う処があるの……」母は言葉を選びながら口を開いている様子であった。母のその言葉を聞いて、まどかは頭を持ち上げて母の顔に瞳を向けた。母が一体何を言おうとしているのか全く見当がつかなかった。
「それは、一体何の話……?」気の抜けた声であった。その声を発するだけでも今のまどかにとっては苦痛であった。
「お母さんは……、いえ、私は近藤睦樹という名前の人を知っている……」唐突に発せられた母の言葉に、まどかは目を見開いた。
「睦樹さんを、お母さんが知っている……?どういうことなの・・・・・・!?」彼女がまともに声を出すのが久しぶりのような気がする。
「今までずっと黙っていたけれど……、あなたのお父さんは……、小林一馬さんは、まどか……、あなたの本当のお父さんじゃないの……」唐突に発せられたその言葉にまどかは驚きを隠せなかった。
「お母さん……、一体なにを言っているの?!」まどかは母の様子を伺いながら問い詰める。疲れ切っているまどかの思考では母の言葉を瞬時に理解する事は出来ないようであった。
「あなたが・・・・・・、まどかがお母さんのお腹にいる時に、本当のお父さんは何者かにナイフのようなもので刺されて病院で亡くなったの……、あなたが、見たって言う、その睦樹って人と同じように……」話始めた母の目にも涙が溢れそうになっていた。
「そ、そんな……」まどかは両手で口を被いもう一度床を凝視している。
「あなたのお父さんの名前は、近藤睦樹……、私の前の夫、そしてあなたが会っていた人と同じ名前」その名前を口にした母は悲しそうな顔をした。そして、母はうつむくまどかの右手を握りしめる。
「そ、そんなことって、そんなことって!!」まどかの頭は混乱し、思考が働かない状態になっていた。
「あの公園で、あの人を、睦樹さんを見た時、私は息が止まるくらい驚いたわ。あまりにもあの人に似すぎていたから・・・・・・、でも、それをあなたに話す事は出来なかった……。あの人は十何年も前に死んだはず、私はお葬式の喪主もしたのよ。それなのにそんな馬鹿げた事、あるはずないと思ったから……」母の両肩がガタガタと震えていた。
「でも……、あの事件の後、あなたにあの人の名前を聞いて私のそれは確信に変わった……、あの人は、私の主人……、睦樹さんだった、きっと死後の世界から……私達に……」何故だか、母は恐れるような表情を浮かべたようにも見えたが、少し震えている体を自分の両腕で止めるような仕草をし、感情を抑えるかのように深呼吸してから改めて語りだした。私達の・・・・・・?私達に一体何なのだ。
「きっと、お盆が近くなってきたから帰って来たのね。私ではなくて、あなたに会いに……、それからね……あなたの名前、まどか……、まどかっていう名前は睦樹さん……、あなたのお父さんが付けてくれたのよ。まどかって……、亡くなる時に、私のお腹を優しく触りながら……」床についた手の甲に母の大粒の涙が落ちた。その涙の本当の意味をまどかはいつの日か気づく時があるであろう。
「睦樹さん……、私のお父さん……」まどかは、今はただ、もう一度泣き崩れるしかなかった。
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