秋の寄る辺

ざっと

秋に想う

 街路に咲く金木犀きんもくせいが散り切った時分、夜の長いのに暇を持て余し、ふと思い立って散歩をしようと思い立った。どうにも寝つきが悪いので、体を動かせば多少は疲れて寝付けるだろうと安直に考えての発心ほっしんだった。

 部屋の中にいても若干の肌寒さを覚えるのだから、外はもっと寒いだろうと、クローゼットに眠っていた厚めのジャケットを羽織って外へ出る。玄関の扉を開けてみれば、予想通りに寒かった。頬に触る風の温度も、夏から衣替えをしたらしい。

 家を出てしばらくは人気の無い道が続く。散歩に出たはいいが、行先なんて決めていない。考えなしに歩いていると、体が覚えている手順を踏んだらしく、平生へいぜい使う駅につながる大通りへ出ていた。

 丸い月が中天ちゅうてんに掛かろうかという時間だのに、大通りではいまだに車の数が衰えていない。もしや車だけが自立心をもって持ち主の元を離れ、そこかしこを走り回っているんじゃないかと思うくらいだ。

 寝つきの悪い夜の暇を持て余して出てきたのに、こうも騒々しいと余計に寝つきが悪くなる。ここで行先が決まった。静かな、出来るだけ人も車も来ないような場所へ避難しよう。たしか、大通りを外れた場所に小さな河川敷があったはずだ。そう思い、南北に伸びる通りを北へと進み始めた。

 騒がしい大通りに沿ってしばらく歩くと、車が見向きもしないような小径こみちが右にひっそりと伸びている。通りの大きな道からそちらへはずれて歩いていく。ざあざあとうるさいタイヤの音と、濁ったエンジンのにおいを遥か背後に感じながら、川のある方角へと進む。

 街灯の少ない道を歩いていくと、風がススキを揺らす音が聞こえてきた。進むほどに音は大きくなり、のんびりと首を振るススキがそこかしこに見えてくると同時に、目の前に小さな橋が現れた。小径こみちを来て十分じゅっぷん、遠くなったわだちを刻む車の音は、さらさらとれる柔らかい音にかき消されていた。

 ススキに見惚れながら、目の前の橋へ歩を進める。片側に間隔をあけて立つ三本きりの街灯の儚い光が橋上を照らしている。決して明るくはないが、小川をまたぐだけの短い橋を照らすのには十分な量だった。

 橋の両側には全身くまなく錆付いた手すりが鎮座している。何の気なしに指先でなぞってみると意外に強い刺激が皮膚にはしり、思わず声が漏れた。焦茶色こげちゃいろをした鉄は、ただ酸化しただけでなく、雨風にさらされて随分とささくれ立っていたようだ。

 三つばかりの小さな光に照らされながら、一歩一歩、足裏の感触を確かめるようにして橋を渡る。材質は、セメントやアスファルトよりも石に近いだろうか。白い表に、黒い点々がまだらに散っている。夜空の黒と白を入れ替えたような気色けしきだ。綺麗ではないが、妙なそのさまがなんともおかしい。二つの夜空に挟まれる優越感ゆうえつかんに浸りながら橋を渡り切る。そのすぐ脇には、下を流れる川へと続く坂道が用意してある。人が二人並んで歩くのが精一杯という感じの狭い道。舗装ほそうこそされているが、整備はされいていないのだろう。セメントを割って雑草があちこちから伸びてきている。左右からも伸び切った草たちが寄りかかるようにしな垂れてきている。

 どこぞの山道で見たような木々のトンネルみたいにはなりえないが、どことなくお辞儀をしているようなさまが可愛らしく、右にも左にも軽く会釈えしゃくをしながら間を通り抜ける。

 坂を下り切ると舗装がなくなり、あるがままの地表が出迎えてくる。人が歩いた跡を避けるように草の別れた土がむき出しになっていた。しかし、それはほんの数メートル先までの話であり、それから先は土の上には覆いかぶさるように枯れ草が寝転がっている。そしてそれらの隙間から、まだ生きている青草や小さな花たちが自分たちもここにいるぞと主張するように顔を出している。

 ちょっと失礼。心の内でひと言謝ってから、その上を川沿いに歩く。歩けば歩くほど、踏みしめれば踏みしめるほど、枯れ草の匂いが立ちのぼってきて鼻孔をくすぐる。

 もう散ってしまった金木犀と違い、生気などないままに寝そべっているだけなのになぜこうも強く匂いを発せられるのかと毎年いつも不思議に思う。しかし嫌な香りではないのがもっと不思議だ。そしてこれを香ると、秋であることを強く実感する。秋のにおいだ、と思うのだ。

 平生へいぜい、歩くときは靴底が堅い地面を叩音ノックするのを楽しみにしていたりするのだが、こうして自然の中で草を、とりわけ乾いた草を踏む音というのもまた新鮮で面白い。

 すぐ隣で自分とは反対の方角に流れていく川の音もい。足元や背の高い草に隠れて顔に近い位置で鳴く虫の声も好い。言わずもがな、先刻さっきから香っている草の匂いも好い。そう云ったものを全てひっくるめた秋の空気は心持こころもちすこやかにさせる。

 日々の生活にどうにも忘れちにさせられるが、こうしてたまに散歩へ出かけたときにようやく思い出す。私はこの季節がたまらなく好きだ。

 寝付ねつきが悪い、という夜長も悪くない。こうして再確認できるのはいものだ。もういっそ、自宅のベッドではなく、この枯れ草をベッドに見立てて眠ってしまおうかという気が起きてきた。きっとそれは気持ちがいいのだろうと俄然がぜん思ったのだ。

 すぐに少し広めの場所を見繕った。そのままでも寝るには十分なのだろうが、あえて草をちょっと盛って、よりベッドの体裁を整えてみた。盛り上がった枯れ草の山を手で押して寝心地がどんな塩梅あんばいになるかシミュレーションする。

 そしてこれだ、と思った所で思い切って寝そべった。

 予想通り、匂いは重畳ちょうじょう身体からだわりも悪くない。ただ一点短所を挙げるとすれば、首や後ろ頭の皮膚が露出した場所にちくちくと刺さるところだ。

 はじめこそ居心地の悪さを禁じ得なかったが、慣れればなんとかなるもので、次第に眠気が襲ってきた。辺りは暗く、月と星の明かりは調度よい常夜灯の如く、その光でまぶたを温める。コオロギや鈴虫の鳴き声もそれほどやかましくない。目を閉じてじっとしているうち、徐々に意識が遠のき、入眠の快感に身を任せる段になって、感覚が暗闇へと沈んでいく。

 そうして眠ったのも束の間、ざあっと強く吹いた風に驚いて目を覚ます。せっかく寝付いたというのにと腹を立てたところで、全身が凍り付くような冷たさであるのを自覚する。

 厚手のジャケットを羽織っているとはいえ、防寒がしっかりしている訳ではない。真冬よりはマシとはいえ、身じろぎもせずじっとしていたのでは体が冷えていくばかりなのは明白である。

 これはいけないと、作ったベッドを起きだして、来たときとはうって変わって足早に帰路へ就いた。余韻よいんも何もなく帰るのはなんだか勿体もったいない気もしたが、身体が冷え切ってそんな余裕もないのだから仕方がない。

 自宅に戻ると急いで暖房をけ、草が落ち切っていない衣類を脱衣籠だついかごへと放り込んで熱めのシャワーをたっぷりと浴びた。おかげでまた眼がえたような気がしたが、身体を拭いてパジャマへ着替える頃には眠気が復活していた。

 濡れた髪が乾ききらないままに柔らかいベッドへ寝転がる。時刻は丑三うしみつ時も半ばに差し掛かっている。道理どうりで眠くもなるはずだと思った。随分と長く歩いていたような気もする。さながら秋を見付ける冒険をしに行って、何年かぶりに帰還した冒険者のような気分だった。

 日常を抜け出したような小気味のいい心持こころもちいだいてまぶたを閉じると、ふと、ちりりり、と鳴く声が聞こえた。

 鈴虫かコオロギだろうか。外で鳴いているのかと思ったが、外にしては随分近くから聞こえる。一度部屋の中を見回してみるが見当たらない。それでも鳴き声は近くから響き続けている。

 まさかと思い、脱衣籠へ放った衣類をひっくり返してみると、果たして、一匹のコオロギがおどり出てきた。どうやら枯れ草ベッドへ寝転がった時に、服のどこかへ忍び込んでいたようだ。

 連れてきてしまったのは自分の不注意とはいえ、あまり部屋の中で鳴かれてもいささか賑やかに過ぎて敵わない。仕方がないのでベランダへと逃がしてやる。嫌なら跳んで逃げられるようにと手すりの上に丁寧に置いてやり、部屋へと戻った。

 それからは鳴いていたのか逃げたのか覚えていないが、翌朝起き出して確認した時にはいなくなっていたので、夜のうちにどこかへ跳んでいったのだろう。

 ただその夜は、その日の河川敷へ行った冒険をなぞるような秋一色の夢を見た。

 夢は、河川敷へ行くその日の出来事そのままの夢だった。しかし、河川敷へ着いて川の傍へ行くと、内容は一気に変調した。場面は一瞬で昼へと変わり、セキレイやシジュウカラが鳴いているのを聞きながら川面を眺めている自分がいた。じっと川を見つめているところへシラサギが飛んでくる。シラサギは水面へ近づくと、一瞬のうちに川魚をくわえてどこかに飛び去って行った。それと同時に時刻は夕方へ移り、空が茜色に染まる。それを見た私はベッドを作りはじめ、その上へとのぼる。のぼって胡坐あぐらをかくと夜に変わり、今度は鈴虫やコオロギたちが草陰から出てきて列を作って合唱を始める。私はその様子を、我が子が歌うのをいつくしむかのように、コスモス色の眼差まなざしを向けていた。

 不思議なことに、その時の気持ちは、ベランダへ逃がしたコオロギを見るそれに、ひどく似ている気がした。

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