屋台
私は撮影所の正門を出た。陽は落ち、世界は暗くなっていた。まだ秋だと云うのに寒い。あの異常猛暑が嘘だったみたいに、気温が低い。その内、雪でも降り出しそうだ。こういう晩は「あの店」がいい。
あの店とは、神出鬼没のおでん屋台〔やみつか亭〕のことである。探し出すのに苦労する場合もあるが、今日はすぐに見つかる気がした。コブラの勘に従って足を動かせば、自然に辿り着く筈だ。
今日の出現地点は、撮影所近傍の噴水公園であった。同園の敷地内に設けられた「フリースペース」と呼ばれる場所で、私はやみつか亭を発見した。白字で「おでん」と記された赤提灯が目印だ。おでん鍋から立ち昇る湯気の向こうに「魚頭人身」の亭主の姿が見えた。幸いなことに、本日最初の客は私のようだった。
魚頭人身とは、冗談でもなければ、誤認でもない。真実である。ここの亭主は「古代魚の頭」を持つ怪物なのだ。大抵の客は怖がって近寄りもしないが、私は別だ。魚頭のおでん屋と蛇頭の客。なかなか面白い組み合わせではないか。大人はダメだが、子供の評判はいい。好奇心の塊りたる彼らにとって、これほど興味を刺激する光景は他にあるまい。
「ハイボールと盛り合わせ」
私は長椅子に腰をおろしざまに、酒と酒肴を頼んだ。もっとも、この店のメニューと云えば、ハイボールと清酒、それに、各種のおでんしかないが。そのシンプルさが私の好みに合うのだった。望んでもいない解説や講釈を聞かされる店は苦手である。その点、ここの亭主は極端に無口で、世間話ひとつしようとはしない。寡黙さが良いのだ。
「撮影所、閉鎖になるんですってねえ」
とは、亭主の台詞であった。彼の方から口をきくなんて、本当に稀なことだ。もしかしたら初めてかも知れない。私は「ああ」と応じると、魚介のダシが染み込んだ大根を箸で割った。
「お客さんはこれからどうなさるんで?」
「私か、私は……」
私はよく煮えた卵に箸を突き刺しながら、
「しばらく町を離れようと思っている」
「旅、ですか?」
「ああ」
「もうお戻りにはならない?」
「いや、帰ってくるつもりだ。その時はまたここに来るよ」
「お待ちしております」
亭主と私の会話はそれで終わった。心地好い静寂が再開された。だが、長くは続かなかった。凛とした声が辺りに響いた。
「出てこい!コブラガール!僕と戦え!ホッパーマン2号が1号の仇を討ちに来たぞ!」
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