三十二日目
レオニード貴海
第1話
教義なんて信じちゃいなかったけど、日々の生活に辟易した僕は家を出た。行くあてもないから、グーグルマップで適当に当たりをつけ、いまは県内山奥の小さな寺に居座っている。
和尚の直筆だという、ありがたい法語の書かれた日めくりカレンダーをめくるのが僕の仕事だ(断っておくけど、他にも仕事はある)。修行をしに来たわけではないのだけど、朝は鈴の音で他の僧と一緒に目を覚まし、座禅を組んだり、もみじの落ち葉を箒で掃いたり、雑巾で冷たい木の床を掃除をしたりもする。他の僧たちと一緒になって食事も摂る。最初は珍しがられていたが、二週間も経つと目立たなくなってきた。僕も彼らのやり方に慣れたし、彼らも僕という異物をどうにか咀嚼できたみたいだった。彼らは野暮なことを聞いたりはしない。僕は自分の居場所をみつけたような心地だった。
とはいえ、和尚は心配もしてくれた。親しい人が探しているだろう、と。大丈夫ですよ、と僕は応えた。
「独り身だし、もともと孤児なんです。友人と呼べるような知人だって居ない。職場は社員を人間扱いしてくれないような酷いところで、二ヶ月前に出した退職届だってびりびりに破かれたんです。貯金があるので、しばらくは家賃も払えます。口座引落だから山を降りて振り込みに行く必要もありません」
説明を聞いても和尚はまだ納得の行かない様子だった。警察庁生活安全局生活安全企画課の統計に依るとこの国の2019年の行方不明者届受理件数は八万人分を超えているそうだ。そのうち三千人近くが所在不明のまま、姿を隠し続けている。自分が実際にその一部になるまでは気にも留めなかったが、意外と多くて心強い。各県に、六十人はいる計算になる(そんな綺麗に配分されているはずはないが)。中には寺社に逃げ込むものだっているだろう。和尚も、他の寺との付き合いの中でそういう話を幾度となく聞いていたのかも知れない。最後には何度か頷き、にこやかな笑みを作ってわかった、と言ってくれた。
僕の話には少なからぬ嘘が含まれていた。身を隠すものは、自分を隠すものだ。和尚もその事はわかっていて、それでも受け入れてくれたのだろう。人を救うというのは、つまるところそういう仕事なのだ。おかげで僕はこうやって、いまも日めくりカレンダーをめくっている。
◇
毎日の就寝前にカレンダーをめくっておくよう、和尚から指示を受けている。準備を万端に整えて新しい一日を迎えることが、日々を与えられ生きるものの最低限の努めだということだった。心が洗われる、ということかどうか知れないが、毎日決まった時刻にカレンダーをめくるという習慣は、どこか神聖な気持ちを僕に付した。
ある日のことだ。
三十一日の次の日は、翌月の一日。小学生でも知っている。未就学児の中にだって心得ているものがあるだろう。しかして僕も例外ではない。でも僕がめくった次のページには、三十二日と書かれた紙があった。印刷ミスのはずはあるまい。
『人即是魔、魔即是人』
相変わらずの利いた風な言葉が、そこに置かれていた。だが見たことのない組み合わせだったし、なんだか胡散臭い感じのする文言だった。明日和尚に意図を訊いてみよう。
砂利道を渡って僧房の寝室に戻ると、ひどい匂いがした。何かを踏み潰しながら部屋の角の明かりをつけると、僕は生まれてはじめて腰を抜かし、喉の奥からは気の抜けた悲鳴が漏れ出た。
僧たちが姿を消し、敷かれたはずの布団も無くなっていた。代わりに、大小の全身白骨があちこちに折り重なって転がっていた。骨はぬるぬると濡れたみたいに艶めいていて、壁の所々には随分前にできたような黒や緑や赤茶けた色の染みがこびりつき、名も知れぬ種々の虫たちが破れた畳の上をのたうっている。
這いずるようにして慌てて部屋を出、廊下の障子を開くと、月明かりに照らされた庭の真ん中に一匹の黒い犬が横を向いて居るのが見えた。目を離すことが出来ずにじっと見ていると、ワン公はこちらを振り返った。顔の半分からは真白い骨が露出していて、腐った肉と目玉のような半透明の球がどろりと垂れ下がっている。ひどく情けのない声が喉奥から飛び出す。僕は不意にしばらくの間息をしていなかったことに気が付き、慌てて空気を吐き、引きつるようにしてまた吸った。背後が気になって振り向き、忙しなくまた前を見る。犬がぶるぶると体を震わすと、無数の蛆虫が飛び散るのが見えた。
ここは魔界なのだろうか、僕は悪夢を見ているだけなのか、誰かのいたずらかもしれない、なんでもいい、帰りたい、と僕は寺へ来て初めてそう思った。帰りたい。元の場所に、見知った世界に、僕が僕としてあるべき場所に。僕は目をつぶって下を向き救いを求めて祈った。
しばらくの間そのままでいると、なにか明るい光が近寄ってきて、炎の温かみが僕の頭を照らした。
「面をあげよ、なんつって」
朗らかな人声に思わず顔の筋肉が緩み目を開けて見上げると、そこには白い炎を纏った自分の顔が浮かんでいた。
「そんなに驚くもんじゃないぜ」
時間をかけて、僕は心臓の速度を落ち着けると、ようやく口が動いた。
「帰り……たいです。帰して……」
僕が嗚咽しながらなんとかして言うと、火の玉の『僕』はいいけど、と軽く応えて不気味に微笑んだ。
「ひとしごとしてもらうよ」
◇
チャイムの音を聞いてからしばらく経った。雑木林の隣の道を、活発な雰囲気で、いままさに人生の初めての旬を迎えているような女の子がにこにことスマホを見ながら歩いてくるのが見えた。
「ほら、早く。あの子だ」
『僕』はそう言うと、目配せをした。
「嫌だ」
『僕』はもどかしそうにして唸った。
「君に関係ないだろ。あの子の命が代わりなんだ、この期を逃すと出られなくなる。メスを首元に突き刺すだけでいい。苦しみもないし、彼女には見えてないよ」
「でも、間違ってる」
「わかるよ。でもそんなものだろ? 誰だってそうさ、何も傷つけず、自分も傷つかずに生きていきたい。できることならね。だけど無理なのさ。仕事だって、恋愛だって、何だってそうだろ? 誰かが生き残るためには誰かが犠牲になるしかないんだ。そしてそれは僕たちが選ぶものじゃない。世界が決めることなのさ。シマウマがライオンを食べるんじゃなくて、ライオンがシマウマを食べるんだ。決めるのは彼らさ」
「彼女の未来は明るそうだ、僕よりも」
「だから?」
「彼女が生き残るほうがいい」
「そうだな、うん。君はあそこで暮らしてな、永遠に」
「なにか方法があるはずだ」
「ないよ。僕はずっと見てきたんだ。あそこに出口はない。あそこが出口なんだから。もちろん君の言う通り、理屈じゃあ可能性を否定することはできない。でもね、それは砂漠で砂粒の数を全部数えようっていうのと同じなんだ。馬鹿げた話だぜ。どんなに辛くても自ら生きようとしないものを、彼らは絶対に許容しない。君は確かに運が悪いかもしれない。でも老婆心で言わせてもらうと、固定観念を捨てるべきさ。君には真実が見えてない、僕を見ろ、僕を信じてくれ」
僕は首を振った。
彼女が目の前を通り過ぎていく。スマホをバッグにつっこみ、幸せそうに体を揺らしている。僕は微笑んだ。
「地獄へようこそ」
そう言い残すと、『僕』は音もなく消えた。
気がつくと、女の子もいなくなっていた。彼女が居たはずの場所には、禍々しい色合いの小さな毛虫が、落ち葉をむしりながら蠢いている。
生ぬるい風が頬を撫でた。
三十二日目 レオニード貴海 @takamileovil
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