朝、私はいつものように電車を待つ。そして、ホームに滑り込んできた車両の窓越しに、乗っている人々の姿をじっと見つめた。乗り込んでからも、車両の中を一通り見渡していく。それから吊革に掴まり、小さなため息を零した。


「はあ……」


 今朝も、会えない……。


 電車の中での些細な出来事から、もう二週間余りが過ぎている。肩をぶつけた彼とは、あれ以来一度も顔を合わせていない。それを憂鬱に感じた瞬間、私ははっとして誰にも聴こえないくらいの小声で呟いた。


「別に、会いたいとかじゃないし……」


 私があの彼を探す目的は、あくまでも本。彼の本を返し、自分の本を返してもらうためだ。そうでなくては、続きを読むことができない。


 この二週間、あの時と同じ電車に乗ったり、一本早めたり、または一本遅くしたりしている。乗り込む車両の位置も、その都度前後させたりしたけど、結局それらは無駄な努力のようだ。


 そもそも乗ってくる駅が私より先か後か、それすらも定かではない。あの日だけ、たまたま電車だったという可能性だってあるかもしれない。


 この朝は久しぶりに、普段と同じ時間の電車に乗っている。あきらめ半分のつもりだったけど、それでもキョロキョロと辺りを見渡すのは、期待が残っているから?


「バカみたい」


 また小声で呟く。そんなに本の続きが読みたいなら、同じ本を買えばいいじゃない。もし私にお節介な友達でもいたら、そんな風に言われそうだ。実際、そうしたいくらいに、あの本の続きは気になっている。


 そして、もう一冊の本も……。


「?」


 その時、私の背後で隣の車両から人が移動してくる気配があった。なにを慌てているのか、はあはあと息を切らしている。


 この時間だと、どの車両にも空席なんてない。混み合っている中で移動するのは、周囲の迷惑になるだけなのに。そんな風に思っていると。


「あの、これ」


 私は唖然として、差し出されていた文庫本を目にする。


「え……?」


 それからそっと視線を上げ、本を差し出している人の顔を見た。


「僕のこと、わからないかな?」


「えっ……あ、あの……」


 頬がたちまち赤くなった気がして、私はすぐに顔を俯かせている。言葉が喉の奥で渋滞を起こし、頭で伝えようとした順番に口から出ていってくれない。


「ごめん。わからないよね」


 彼は少し落胆したように、言う。


「そ……ち……」


 そうじゃない。違う。もちろん、わかってます。まだ言葉を思うように操れない、私。


 眼鏡のレンズ越しの繊細そうな眼差し。この二週間ずっと探していた彼を前にしながら、こんな態度しか取れない自分が、切ないくらいもどかしかった。


「いいんだ。とにかく――」


 彼は言って、文庫本の表紙を捲り本のタイトルを見せる。


「この本、君の?」


 私は黙ったまま、こくりと頷く。


「よかった。ずっと返したくて探してたんだ」


 彼はそう言うと、ほっとしたような笑みを浮かべた。その柔らかな表情が、私の内にある衝動を強く突き動かした。上手く話せないなら、行動で示すしかない。


「あの……私、も」


 私は鞄から例の文庫本を取り出すと、それを彼の方に差し出す。


「あ、やっぱり。拾ってくれたんだね」


 彼の方でも、本を取り違えていたのはわかっていたみたい。私たちは互いに本を元の持ち主に戻す。でも、それからは、また。


「……」


「……」


 以前と同じように、二人は口を噤んで電車に揺られるだけ。


 私には、まだ話したいことがある。それは、この二週間ずっと思ってたこと。本を取り換えた時に、すぐに言えばよかったのに、時間が経つにつれどんどん話しかけずらくなっていく。


 その間も電車は進み、次の駅はこの前、彼が降りていった駅。気ばかりは焦るけど。


「……」


 やっぱり、私には無理みたいだ。


 重苦しい時間に耐え兼ね、私は彼から返してもらった本を開く。栞の挟んであるページの位置は、私が落とした時のままだった。すると――


「その続き、気になるよね」


 隣の彼が、独り言のように言う。私が顔を向けると、彼は少しバツが悪そうにした。


「ごめん……実はその本、勝手に読ませてもらってたんだ。すごく面白くて、途中までは夢中で」


「……途中、まで?」


「うん。栞から後ろを持ち主より先に読むのが、なんとなく気が引けたから」


 そう話して頭を掻く彼の横顔を見つめていたら、自然と。


「ふふ」


 私は思わず、笑う。それと同時に。


「どうかしたの?」


「いえ」


 さっきまでの緊張が、まるで嘘のように溶けていく。


「私も栞までは一気に読んだのに、その先はまだなんです」


「ホント?」


「はい。まったく同じことを思っていたから」


「あはは。そっか」


「ふふふ」


 私たちはようやく顔を見合わせ、笑った。


 私の本と彼の本。私は今日まで、その二冊の本の続きが気になっていた。そして――


 次の駅が近づき、電車が速度を緩めていく。


 私はすっと息を吸い、それから彼に向かって言った。


「読み終えたら、もう一度――本を交換しませんか?」


 そしたらその後で、まだ名前も知らない彼と、二冊の文庫本について語り合うことになるのだろうか。今はわからない、でも。


 もっと話したいと、私の中にその気持ちがあれば、きっと。





 【了】


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彼と、話したいこと 中内イヌ @kei-87

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