彼と、話したいこと
中内イヌ
前
階段を駆け下りて、息を弾ませながらプラットホームに立った。電車のどこか悠然な佇まいが、まだ発車まで幾分の余裕があることを私に教えている。急に大股で駆けてきた自分をはしたなく感じた。制服のスカートの裾を軽く整え、ゆっくりとした足取りで電車に乗り込む。
まだそれほどの混雑ではなかったけど、周囲を見渡した後で私は小さく息をつく。いつもより二つも早い電車にしたのに、結局座ることは叶わないようだ。仕方なく吊革に掴まる。
昨夜の寝る前のこと。随分前に買って部屋の片隅に積んであった文庫本に、なんの気なしに手を伸ばした。するとこれが、なかなか読むのを止められないほど面白かったのである。
半分近くまで読み進めたところで、時刻を確認。このままでは徹夜になってしまうと焦り、ようやく寝たのだけど、続きが気になっていたせいだろう。今朝はいつもより、一時間も早く目覚めてしまった。
高校の最寄り駅まで二十分余りの道のり。座れていたらその間、続きを読むことができたのに。前の座席でスマホを弄っているサラリーマン風の男性を恨めしく見つめるけど、そうしていても席が空くわけではない。仕方なく車窓から外を眺めみる。
ごみごみした変わり映えしない街並みを漠然とながめながらも、やはり本の続きが気になって仕方がなかった。
私は改めて車内を見渡してから、鞄を開き件の文庫本を取り出す。立ったままでは、やや行儀が悪いとは感じながらも、栞のところから本を広げた。車内がこれ以上混み合うようなら、すぐに読むのを止めようと思いつつも。
「……」
本の中に引きこまれるまでに、多くの時間を要することはなかった。
私は本が好き。電子書籍よりも、紙の本を読むことを好んでいる。特に文庫本サイズは、手にした時の感触がとても良い。教室でも休み時間などは、自分の席で文庫本を読んでいることがほとんどだ。
今のクラスに親しい友達はいない。いじめを受けているとか、そういうことではないけど、あまり溶け込めずにいるのは事実。クラスの女子には比較的派手なタイプが多くて、地味だと自認する私はすっかり気後れしていた。
そんなわけで、教室では本を読んでいた方が落ち着く。だけど、流石に孤独のままでいいとは思っていない。他にも本が好きな子でもいたら友達になりたいとは常に思いながらも、高校に入学してもう三ヶ月が過ぎてしまった。
「あっ!」
突然、電車が揺れる。隣に立っていた人と肩をぶつけた拍子、私は文庫本を手から落とした。
「すっ、すみません」
ぶつかってきたのは相手の方だった。もちろん不可抗力だけど、相手は私に向かって申し訳なさそうに言った。
「あ、いえ……いいんです」
答えながら私が下を向いているのは、落とした文庫本が気にかかっていたせい、だけではない。相手が自分と同じ年頃の男子だとわかり、変に意識してしまっていた。制服で違う高校の生徒であることはわかったけど、顔を見ることはできない。
クラスで女子の友達さえ作れないでいる私が、初対面の男子と上手く話せるはずもなかった。もうじき十六歳になるというのに、こんなことで大丈夫なのかと、ふと不安に思う。
「ホントに……もう、平気ですから」
何度もペコペコと頭を下げる相手にそう言って、一息つく。それから、ようやく落とした文庫本を拾おうとした時だった。
「――!?」
あまりに近くに顔があったから、私はぎょっとする。なぜか相手の彼も同じタイミングで屈んでいたので、私たちは思いがけず間近で見つめ合うことに……。
「ご、ごめん」
「いえ……」
互いの顔が真っ赤に染まっていく様子を見届けると、どちらからともなく顔を背けていた。私は足元の本を拾い、それを小脇に抱え反対の手で再び吊革を掴む。
「……」
「……」
その後、口を利くことはもちろん、私たちは視線すら合わせようとしなかった。たぶん彼の方も、私のように人見知りなのかもしれない。そんな風に感じていると、二つ先の駅で彼はそそくさと電車を降りていった。その背中をちらっと見送った後で、私はほっと胸を撫で下ろしている。
ちょっぴり心音が早まっただけの、ほんの些細なエピソードはそれで終わり――の、はずだったのに。
「あれ……?」
いつもより早く教室に着いた私は、自分の席で文庫本を開き、思わずそんな声を発した。本の内容がまるで違う。ブックカバーを外し表紙を見て、それが自分の本でないことを確認したのだった。
その夜、自分の部屋で課題を済ませた私は、明日の用意を整えようと鞄を開く。すると中に入っていた文庫本に気づき、それを手にしてため息をついた。
憂鬱な気分の理由は、楽しみにしていた本の続きが読めないことが半分。
「ご、ごめん」
「いえ……」
見つめ合った、あの瞬間。彼の眼鏡の奥の眼差しを、私は思い返していた。
なんだろう、この感じ? またドキドキと早まろうとする鼓動に、なぜか焦る。私は邪念でも振り払うように、頭を振った。
とにかく問題なのは、本が入れ替わっていること。たぶん、私が手にしているのは、あの彼の本。肩をぶつけた時、彼も本を落としたのだ。だから、この本を拾おうとして、私と同じタイミングで屈んでいたのだろう。
どちらも同じ書店のブックカバーだから、ぱっと見では見分けがつかない。私たちは互いに、相手の本を取り違えていたのだ。
「あーあ、どうしよう」
そう呟きながら、私は手にした本をパラパラと捲る。そうしてなんとなく眺めて、その五分後――。
この本、面白い……!
私は夢中になって、次々にページを捲った。
本のジャンルは、普段なら決して手を出さないハードボイルドもの。なのに気がつけば、その本に引きこまれていたのだった。
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