167:「よほどの急用というわけか?」
北部中心都市、白登から少し離れた地──都会の喧騒に侵されず、さりとて寂しさ侘しさとはまた違った静謐な空気が漂う高級住宅地、
黒瓦の美しい巨大な日本式の屋敷は方李のほぼ中心にある小高い丘の上に構えられており、まるで街そのものを見渡す城のような佇まいである。丘は厳寒期にも青々と茂る常緑樹に包まれており、まるで不老を誇る主を象徴するかのようだった。
その大邸宅の奥座敷で、迂堂はいつものように就寝前の読書を行っていた。
「ほう……なるほど」
書物に目を落としながら、迂堂は小声で感嘆の呟きを漏らした。手に持っている本は、彼の実子の一人──当年六十七になる劇作家、
迂堂が唸った一節は、自らの創作の根本について語られている部分だった。巡一郎はこう記していた。
──演劇の道に進みたいと話した時、父は反対しなかった。しかし、「古典を解しないお前に、多くの人に受け入れられるものが作れるかは甚だ疑問だ」とも言った。父は私が幼少の頃より様々な娯楽に連れて行ってくれたが、こと古典演劇に関しては私が何の興味も示していないことを読み取っていたのだ。
しかし、父は見誤っていた。私は古典の良さを理解していなかったのではなく、とっくにその良さの中身を知り終えていたのだ。そして私が表現したいと思っていたものはその先にあると確信していた。
「威勢のいいことを言うものだ。私から見れば、ただ退屈そうにしていただけだったがな──過去を美しく歪曲するのは老人にありがちな無自覚の誤謬だぞ」
皮肉めいたことを言いながらも、迂堂は暖かく笑っていた。父の援助を良しとせず、素性を隠し変名を名乗って演劇界で努力を重ね、成功に至った息子の存在は誇らしいものだった。
実力で演劇界の大御所となった巡一郎は、今では出自を隠すこともなくなった。三十年以上寄り付かなかった実家にも、最近はたまに顔を出す──この本も、年始にここを訪れた際に持ってきてくれたものだった。
次に巡一郎が戻ってきたらこの箇所について問い詰めてやろう、と迂堂は思った。酒でも飲みながら、ゆっくりと数十年の空白を埋めよう。……そんな時間が取れればだが、と心の中で付け加えて、迂堂は溜息を漏らす。
「旦那様」
控えめな声に、迂堂は廊下の方を向いた。障子の向こうに人影が見える。
「
「お休み中失礼いたします、旦那様」迂堂家の執事、芭佐間が抑揚のない口調で語った。「藍菜様より
「藍菜から? ああ、わかった」
ただならぬ雰囲気を感じ、迂堂は居住まいを正す。ほどなくして、半透明の鶴が室内にふわりと舞い込んできた。灯りを受けてきらきらと輝きながら、鶴は嘴を開く。
「閣下、夜分に申し訳ございません」
「構わんよ、まだ起きていたからな。何かあったのか、藍菜?」
「はい。例のクロウリー街における違法建造物の取り壊し計画についてですが……作業員七名の死体が発見されたと、たった今知らせが入りまして」
「何っ!?」迂堂は大声を上げた。「どうして今頃、作業員が現場にいるのだ!?」
噂話の中の『クロウリー街の悪鬼』は決まって夜に出没する──それを受け、迂堂はクロウリー街解体に関するすべての作業について、毎日日没の一時間前までに切り上げ撤収するよう厳命していた。警戒・連絡体制も怠りなく、怪異であろうと犯罪者であろうと、襲撃される危険性を限りなく抑えたプランを徹底していたはずだった。
「それが、作業を終えた現場作業員が近場の店で酒肴を揃えてそのまま酒盛りを始めていたようです。作業開始から数日間何もなかったことで現場の空気に緩みが生まれたのではないでしょうか」
「それに加えて怖いもの見たさと粋がりも加わった結果だろうな。まったく──命令違反の責任を取るべき当人が皆殺しになっていれば、行き場を失った責任追及は私の所に一直線だ。また北公様から嫌味を言われてしまうな」うんざりしながら迂堂は続けた。「よく迅速に知らせてくれた、藍菜。朝までに関係各所への発表内容と、続発防止のための新しい体制について考えておこう。続きは職場で」
「かしこまりました。お休みなさい──心配のし過ぎかとは思いますが、閣下もくれぐれも御身にお気を付けください」
「ああ、そうしよう。お休み」
通信を終えて、黄金鶴が消滅する。残滓のように部屋に散る金色の粒子を眺めながら、迂堂は顎に手を当てて考えた。
それにしても──七人か。
いくら闇の中の不意討ちとはいえ、屈強な土木作業員が七人もなす術もなく殺されるものだろうか。襲撃者は単独犯ではない、もしくは相当な手練れ──あるいはそれこそ、人知を超えた怪異なのかもしれない。それ自体は別に予想外でも何でもないが、問題はこの迅速かつ鮮やかな殺しの事実が解体作業にどう影響するかだ。同じことが何度も起こるようなら作業を引き受ける者はいなくなり、解体計画は停滞する。
そこまで考えた時、障子の向こうに芭佐間の影が再び戻っていることに迂堂は気付いた。
「旦那様……度々申し訳ございません」
「また誰かが通信を送って来たか?」
「いえ……そうではなく、お客様が玄関にいらしていまして」
「客?」
迂堂はちらりと時計を見た。すでに日付が変わっている──こんな真夜中に誰だ。
「よほどの急用というわけか?」
「いえ……それが、その」芭佐間の声が困惑に揺れていた。「商談にいらしたと」
「商談だと?」
その単語だけで、迂堂は渋面を浮かべた。
他人の迷惑も考えずやってきて商談などと抜かす──そんな非常識な連中について、迂堂には一つしか心当たりがなかった。
アップルホッキー商会。
大霊山の経済を食い荒らすハイエナ共め、いよいよ見境がつかなくなってきたようだ──迂堂は腹立ち紛れに大きく舌打ちをする。
「会わんと伝えなさい。それで帰らなければ憲兵に──
迂堂は強い口調で伝えた。哉義とは迂堂の息子の一人で北部憲兵庁の高官である。
芭佐間は心底困った様子で答えた。
「ええ、すでにお断りは致しました。そういったご用向きならば後日に、と。しかしどうしてもお帰りになりませんで……会わなければ閣下が損をする、と、そればかりを繰り返しておいでなのです」
「強引にもほどがあるな。大方あのクソ道化か……私は奴が嫌いだ、奴に会うという精神的苦痛に釣り合う損などそうそうない。意地でも会わんぞ。百歩譲って北部支社長のエリック君としか話はせんと伝えなさい」
「旦那様、それが、その……」
それから続く芭佐間の言葉に、迂堂は再び驚いた。
「いらしているのは、そのエリック支社長なのです」
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