165:「たったひとつの価値」
「ご機嫌よう、メノウ。本日もまた一つ、輝かしい幸福を人生に書き加えることができたあなたの喜びが手に取るようにわかりますわ」
「ええ……はい。またお目通り出来て光栄です……えと、神様」
半ば定型句と化した挨拶を口に出し、瑪瑙はぺこりと頭を下げる。神様ことフェノメナ・アストルムは満足げににこりと笑った。
北峰学術院本講義棟の地下深くに存在する、特異な能力を生まれつき顕現させている異能者達の居場所──その中にあるフェノメナの居室を瑪瑙が訪れるのも数度目である。今日は先輩のアスラを伴わず、瑪瑙一人での訪問だった。
「ご要望のもの……アルシュテート・ガルバンデス作『苦悩の人』が到着いたしましたので、お届けに上がりました」
「ありがとう」瑪瑙が抱えた箱を見やってフェノメナは優雅に微笑む。「そちらの角においてくださるかしら」
「かしこまりました」
瑪瑙は厳重に封をされた箱をフェノメナの指した先へ運ぶ。かなり広い居室には様々な美術品が鎮座し、ちょっとした美術館のような様相を呈している──いや、品々の希少価値を鑑みれば「ちょっとした」どころではないのだろう。美術にさほど詳しくない瑪瑙が見ても圧倒されるような、堂々たる絵画や彫刻ばかりである。
そんな贅沢な空間の一角、これも稀覯本揃いであろう大きな書架の手前に瑪瑙は箱を下ろす。梱包を解き、中の物を慎重に取り出した。
それは、まるで光を吸い込むような深い漆黒の石を用いて作られた彫像だった。台座の上に、四つん這いになって頭を抱える男がいる。その頭は通常の倍ほどに膨れあがり、上方向に延びて竜巻のような爆発のような複雑な形状を取っていた。
「なるほど……なかなかの出来ですわね」
定位置である、部屋の中心に設えられた椅子から立ち上がってフェノメナが彫刻に近寄る。興味深げに、首を伸ばしてしげしげと眺めまわした。
「アルシュテート・ガルバンデスは死後に評価が確立したタイプの芸術家で、生前は困窮と不満に満ちた暮らしを余儀なくされたそうですわ。この作品は彼自身の青年期──政治犯として逮捕され、獄中にて死した父親の訃報を聞かされた際の絶望を表現したものだそうですの。メノウ、率直な感想を仰い」
「ま、またですかぁ?」瑪瑙は心底困って情けない声を上げる。「あの……私は感受性に乏しく、芸術への造詣も深くありません。その、神様にご満足いただけるような論評はとても……」
「論評など、求めてはおりませんわ」
くすっと笑ってフェノメナは瑪瑙を見返す。
彼女が振り返った、その何気ない動作に瑪瑙はどきりとする。頭上の花冠が揺れ、爽やかな芳香が鼻腔に届いた。
完璧な美しさを保った彼女──神を自称するこの女性は、いつものように飼い犬を見やるように瑪瑙を見つめている。
いつまで経っても慣れない──そう思いながら、瑪瑙はおずおずと言葉を口に出す。
「そう、ですね……あの、確かにこの作品には深い苦悩や悲しみが込められているように見えるのですが──それだけではなく、そうした主観的な視点とは遠く離れた冷たい客観性のようなものが、その、貫かれているように感じます」
フェノメナは口を真一文字に結び、目で続きを促す。
フェノメナが希望し、学院が手段と予算を尽くして入手した美術品を瑪瑙が届けた時、いつもこのように感想を求められる。知識のない瑪瑙はいつでも問われるままに受けた印象を答えるのだが、まるで的外れなことを言うとフェノメナは早々に興味を失って聞くのをやめてしまう。その意味では、今回はそれほど悪くはない感触のようだった。緊張しながら、瑪瑙は言葉を続ける。
「膨らんで、弾けたような形の頭。この部分の表現はおそらく、水や風のような様々な自然の形を参考にしてきわめて技巧的に作られているように感じます。アルシュテートは在りし日の感情をつぶさに思い返し、それをできるだけ正確に、わかりやすく伝えることに細心の注意を払っているように見えます──なんというか、芸術家というよりは研究者のように。苦悩や絶望という概念の形を可視化するということが、この作品のテーマなのではないかと」
「まあ、ある面では正解としてあげましょう」ふむ、と息を漏らしてフェノメナは答える。「メノウ、あなたが受けた印象はアルシュテートが見る者に与えたいと願った印象ですわ。もっと正確に言うなら──彼はこの作品を通して、心の底からの絶望を自分が味わったと周囲に信じ込ませたかったのです」
「信じ込ませたかった……?」
「彼は絶望や苦悩など感じていなかった。それが真の答えでしてよ」
まるで自分の事のようにあっさりと断言するフェノメナを、瑪瑙はただ茫然と見返す。
フェノメナは当然の理を解説するかのように、淀みなく続けた。
「貴女の言う通り、非常に丁寧に、技巧的に作られた頭の形──暴風雨のような混乱と衝撃を現す形状。それは研究のように求道的なものではなく、見る者の目線に立った作為から生まれたもの。その意図の臭いは一瞥しただけでわかりますわ──当時の彼は絶望どころか、心中深く安堵していたのですわ。同じく反王権活動を行っていた自分を、父親が最期まで売らなかったことを」
「え……!?」
「親子の情か、はたまた別の狙いか──それはともかく、獄中で没した彼の父親は口を割らなかった。それにより逮捕を逃れたアルシュテートは、まだ残る心配を作品という形で払拭しようとした──それがこの『苦悩の人』」
「神様……この芸術家についてお詳しいのですか?」
「証拠を知っているわけではございませんわ。ただ、この作品は金切り声で叫ぶかのように主張しておりますもの。『俺は潔白だ──俺は不運にも国賊の父親のもとに生まれてしまっただけの善良な市民だ──お願いだからそう受け取ってくれ』……言わば、本人の自白と同じでしょう? 人間は騙せても、この私はそう簡単にはいかなくてよ」
これは言うなれば、突拍子もない新説なのだろう。しかしそうと思わせないほどの自信たっぷりの口ぶりが相応の説得力を生み出していた。
フェノメナは──神は、決して疑問や推測を交えて語りはしない。当然のように、全知である自分を誇示するかのように断定口調で語るのだ。
「彼はその人生の終わりに至るまで、犯罪者の嫌疑をかけられることはなかった。それはこの作品の効果というよりも、生前の彼は誰にも評価されず、目に留まることもない自称芸術家に過ぎなかったことが大きいですわね──彼の表現の精密性が賞賛されるのは没後幾十年を経てのことです。せっかく心血を注いで彫り上げた彼の渾身の『嘘』は、まるでその用を成さなかった──だからきっと、彼が今望んでいることは」
そこで言葉を切り、フェノメナはにじり寄るように彫像に近寄った。
瑪瑙はそこで初めて気づいた。彼女の手には、柄の長い大きな金槌が握られている。
「こうですわ!!!」
覇気に満ちた声と共に、フェノメナは大きな弧を描いて金槌を振り下ろした。
精密かつ微妙なバランスで形作られた彫像は、打撃によっていともたやすくいくつもの破片を散らした。
「か……神様!? な、なにを……!」
「この作品は、この主張は、この嘘は──」幾度も金槌を振り下ろしながら、フェノメナは笑い声に乗せて言葉を紡ぐ。「その役目を果たせず終いのまま、すでに意味を喪失していますわ! 残っているのは時と共に増した芸術的価値だけ!」
「そ、その芸術的価値です! 同じものは二つとないんですよっ……!? さすがにこんなことは……!」
「何を仰るの? だからこそですわよ!」
大上段に金槌を振りかぶって、フェノメナはちらりと瑪瑙に視線をやった。
勝ち誇るような色が、澄んだ瞳の中にさざめいていた。
「この世にたったひとつの価値! それをこの手で破壊する……その瞬間、その価値は私の中で永遠のものとなり、かつ私以外の世界からは永遠に失われる! これこそが正しい芸術品の『使い方』なのですわ!」
言葉と共に振り下ろされた金槌が、致命的な打撃を与える。
すでに無惨な残骸と化していた彫像の頭がもげて、ごろりと転げ落ちた。
「…………」
「ああ、楽しかった」
頬に流れた一筋の汗すらも装飾品のように煌めかせて、フェノメナは晴れ晴れとした笑顔を浮かべる。対する瑪瑙は、ただただ面食らっていた。
「あ……ま、まあその……神様のお気に召したのなら、それはそれでいいんですけど……神様、この部屋にあるほかの芸術品もそうして打ち壊されてしまうのですか?」
「いずれはね。楽しみですわ」
事もなげに答えるフェノメナに、瑪瑙は頭を抱える。これらの芸術品は各美術館やコレクターに交渉を重ね、時には名誉学長の迂堂廻途の名を出してまで譲り受けているものである。これらを手放した人間は、厳重かつ最適な保護環境下で学術と芸術の発展に末永く寄与するという題目を今も信じている。
彼らが真実を知ったら、どんな顔をするだろうか。瑪瑙は思わず同情してしまった。
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