164:「憲兵の風上にも置けん」

 東軍総司令官代行、詠木遠近襲撃。

 その危険な計画は、決定後わずか数時間──幾間姜一の疑惑が発覚し、彼が出奔した日の深夜に実行に移された。

 これから計画の成功確率を上げるための練りこみをする余裕など追われる身にはあるはずもない、それならばできるだけ早く──相手側の対策が整いきる前に奇襲すべきとの判断である。

 

 闇に紛れ、幾間と鰍は礼寧市街の裏通りを進んでいる。すでに日付が変わっている時刻──歓楽街のエリアでもない限り、通行人はほとんどいなかった。

 

「もう、奴は眠っているでしょうか」

「そう願うさ──記憶頼りだが、今日は東軍のお偉方が集まる会食の予定だったはずだ。二次会三次会で朝まで騒ぐような集まりには無論ならず、さりとて酒を飲まないわけでもない──ちょうどよく、朝までぐっすり眠ってくれるんじゃないか」

「なるほど」

 

 鰍は頷く。

 根拠とするにはあまりに頼りない情報である──想像と希望的観測を多分に建材に含んで組み立てた砂上の楼閣。幾間の推測が現実そのものである保証はどこにもなく、もしそうでなければ計画はすかすかの骨組みに耐えられず瓦解するのは疑いない。

 しかし──架空とすら言える空虚な希望を用いてでも、何とか計画を形作らなくてはどうしようもない。でなければ針の穴のような突破口すらも狙えないのだ。

 どのみち後戻りはできない、ならば語れる根拠らしきものがあるだけ上等だろう──と鰍は考えた。

 

「鰍」

 

 不意に隣の幾間から呼ばれて、鰍は少しびっくりする。

 

「え……はい、何でしょうか?」

「あ、いや……何でもない。そんなわけないよな」

「え?」

 

 怪訝に思って見返すと、幾間は少し首を傾げながら答えた。

 

「いや……何だか妙に、楽しそうだと思ってな」

「そう見えました?」

 

 こくりと頷く幾間に、鰍は何だか恥ずかしくなって顔を背ける。

 言われて初めて自覚した──確かに気分は深刻ではなく、むしろ軽くなっていたかもしれない。社会的な破滅の瀬戸際に立たされた危機的状況であるにもかかわらず、だ。

 自分は、幾間と二人で無謀な作戦を決行しようとしている今の状況をなぜだか心地よく感じている。その感情の正体には薄々見当はついていたが、深く掘り下げると緊張感が薄れてしまう予感がして鰍は話題を変えた。

 

「私が言い出したことですから、嫌々ってわけでもないだけですよ。それにしても──静かな夜ですね。今のところ警備の目もうまく躱せてますし、順調です」

「ああ。幸運でもあるが──ひょっとしたら俺達は『マタイ』での活動を経て、隠密活動が上手くなったのかもしれないな。表立って追いかけるだけではずる賢い売人は捕まえられないから」そこで幾間はふと自嘲的な表情を浮かべた。「まあ……それもクグルノに踊らされた結果なわけだが」

「卑下する必要はありません。どのような過程を経ていても、幾間さんの中で育ったものは幾間さんの武器に違いないのですから。平和を築くために行使されるのなら、それは誇るべき力です」

 

 本心からそう応じた後、偉そうな言い方になってしまったかと心配になって鰍はわざと笑いながら付け足した。

 

「それにですよ? クグルノが幾間さんを踊らせていたのに──それによって得た力が結果的にクグルノを追い詰めるなんて、痛快じゃないですか」

「ははっ──違いない」

 

 楽しそうに笑った幾間は、変わらず慎重な足運びを続けながらぽつりと呟いた。

 

「ありがとう、鰍。君の前向きな言葉に、俺はいつも救われてる」

 

 頬が熱くなって、鰍は何も答えられなかった。

 

 

 

 さらに半時間ほどを掛けて、二人は詠木遠近の官舎に到着した。

 塀を乗り越え、庭の植え込みの陰を迂回し──音を殺して一階の窓を割り、侵入する。

 素早く各部屋を見回り、寝室を求めて二階に上がる。階段のすぐそばにそれはあった。

 広く上等な部屋の奥、広いベッドの上で高いびきをかいて眠っている遠近の姿が目に入り、鰍は鼓動の高鳴りを感じる。別の部屋に向かおうとしていた幾間を手招きで呼び寄せ、静かに室内に侵入した。

 

 遠近はよく眠っていた。大の字に手足を広げ、いかにも酩酊から深い眠りに誘われた様子である。見立てが的を射ていた幸運に感謝しながら、二人はてきぱきと遠近を拘束した──そっと掛け布団をどかして手首と肘、足首と膝をそれぞれ揃えて粘着テープを巻き、口にも慎重に猿轡を嚙ませる。やや小柄な遠近の体を幾間が軽々と担ぎ、鰍はその先に立って元来た道を引き返した。

 拍子抜けするほどあっけなく、東軍の暫定最高責任者の身柄を手にして──二人は無事に官舎を脱出した。

 

 

 

 礼寧郊外──倉庫と田園が広がる人気のない場所まで遠近を運んできたところで、二人は小休止を取った。

 

「ここまでは怖いくらいに思い通りに運んだな。これからどうする?」

「あと数時間で夜が明けます。ここらは見通しが良い分、このままの姿では目立ちます──ここらは倉庫街ですから、探せば廃棄された原料袋のようなものがあるはずです。それにクグルノを入れ、できれば私たちも作業着のようなものに着替えられれば上出来ですね」鰍は考えながら話した。「そうして距離を稼いで、どこか安全に隠れられる場所を探しましょう。いっそこのまま別地方──ここからなら北部が近いですからそこまで行って、北部憲兵に保護してもらうのが良いかもしれません」

「北部憲兵に?」

「憲兵団はあくまで各地方ごとの組織──横の繋がりは薄いですから、即座に東部憲兵に引き渡されることはないでしょう。事情を話し、彼らの立会いの下でクグルノの変身を解き、真実を証明すれば後ろ盾になってもらえるはずです」

「なるほど……地方ごとの縦割り体制が逆に役に立つわけか」幾間は薄く笑う。「皮肉なもんだな──つい半日前にはそのことにもどかしさを感じていたが、今じゃそれが突破口とは」

「ええ。ですからまずはそこまでたどり着くことが最優先で……え?」

 

 話している途中で、鰍は目の端に動くものを捕らえた。

 地面に下ろした荷──遠近が目覚め、もぞもぞと動いていた。それ自体はそこまで驚くべきことではないし、むしろ今までずっと起きなかったのが幸運だったのだが、問題は──遠近が必死で地面に顔を擦り付け、猿轡をずらそうと試みていることだった。

 

「幾間さん! クグルノが!」

 

 鰍の声とほぼ同時に事態に気付いた幾間が駆け寄る。極力刺激を与えないようにと心持ち緩めに猿轡を巻いていただけに、一瞬早く遠近の口が自由になった。

 

「貴様ら、どういうつもりだ!」

 

 布の隙間から漏れ出た声。

 それを聞いて──鰍は頭を殴られたような衝撃を覚えた。

 幾間も同様らしく、目を丸くしてこちらを見返す。二人にはお構いなしで地面に転がった遠近はがなり立てた。

 

「幾間……幾間姜一! 鰍と二人して、私にどうしてこんなことを! もう私とお前たちは関係ないはずだろう……し、私怨か!? 私怨でこのような大それたことを……た、ただで済むと思うなよ!」

 

 怒りと怯えの混在した、裏返った叫び声。その声は──明らかに、詠木遠近のそれではない、中年男性のものだった。

 卑屈さと虚勢に満ちたその声に、二人は十分に聞き覚えがあった。

 

「ま、まさか……そんなこと!」

 

 矢も楯もたまらず、鰍は遠近に駆け寄る。信じられない思いでその顔にてをかけた。

 

「な、ななな、何をする気だ! やめろ!」

 

 遠近が焦った声を上げる。顔中にじわりと湧いた汗が、若々しい肌に混ざるようにしてどろりと滲んだ。

 制止の声に構わず、鰍は袖口で顔を強くこする──厚化粧のような肌色の粘液がこそげ取られ、その下から現れたのは詠木遠近とは似ても似つかない──さりとて詐欺師クグルノとも違う、くたびれた中年男の顔だった。

 

「ど、ドルク……部長……!?」

 

 鰍は驚愕の声を上げる。

 かつて幾間と鰍の上司だった男──ドルク憲兵部長がそこにいた。

 

「卑怯者めっ! 悪党めがっ! 貴様らは憲兵の風上にも置けん連中だっ──やはり私の目は正しかった、こいつらを出世などさせてはならなかったのだ……っ」

 

 騒ぎ立てる声が唐突に止む。回り込んだ幾間が当身を食らわせ、ドルクを昏倒させたのだった。

 

「い……幾間さん、これは一体……」

「受け入れがたい話だが、受け入れるしかない」苦渋に満ちた、しかし落ち着いた声で幾間は言った。「俺達は一杯食わされたんだ。詠木遠近、いや、クグルノは俺たちの奇襲を見透かしていた……その上で警備を強化せず、代わりに酔っぱらったドルクを生贄に差し出した。ドルクの官舎にもすでにそれらしく手回しがされているはずだし、何より本人が『幾間にやられた』と証言する。もはや俺は濡れ衣を着せられた無実の人間ではなく、元上官を拘束して誘拐した悪人になってしまったんだ」

「そんな……そんなことって……!」

 

 幾間はくるりと背を向ける。

 

「出発するぞ、鰍──ドルクは置いていけ。もはや他地方へ──北部へ逃げるしかない。作戦は、失敗した」

「そ、それは……このまま部長を置いていけば、クグルノの思う壺です」

「では、口封じをするか?」

 

 顔だけをこちらにむけて、幾間が呟く。鰍はぞくりと背筋が粟立つのを感じた。確かに、自分が言っているのはそういうことだ。

 

「……無論、そんなわけにはいかない。個人的感情はどうあれ、な」幾間は静かに言う。「彼もクグルノの被害者だ。そしてその原因は、俺だ──巻き添えにはできない」

「幾間さん……」

 

 鰍は仕方なく頷いた。確かにその通りだ。しかし、幾間がその選択をすることもまた、おそらくはクグルノの想定通りなのだろう──クグルノの罠からは、わかっていても逃げられない。

 鰍はドルクの傍にしゃがみ込み、わずかの間──その顔を見つめた。

 

 

 

 同時刻。

 

 幾間達が去った後の、詠木遠近の寝室──誰もいないはずのその部屋に、密やかな声が響いた。

 

「蠱術──『泥狐』」

 

 窓から差し込む月光が壁際の箪笥を照らし、それによって濃い影を落とす部屋の隅。

 その黒々とした空間がずるりと動き──溶け出るように、一人の長身の男の姿が現れた。

 赤みがかった、癖のある長髪。

 筋肉とは無縁の痩せぎすの体。

 尖った顎と細い目が怜悧で酷薄な印象を与える、不気味な男である。

 

「意志が強く猪突猛進の幾間と、常識的で小利口な鰍──無責任に評させてもらうとすりゃ、互いが互いを補い合ってなかなかいいコンビかもしれねえな。しかしまあ何事にも限界ってもんはある、相手は選んだ方がいい──こと不意討ち騙し討ちに限って言うなら、この来繰野障吉様の相手じゃねえってこった」

 

 月夜の中で、クグルノはにやりと笑った。

 

「せいぜい感謝しな、ミズハ──お前が呑気に学生やってる間に、部下はこんなにも熱心に働いてやってんだぜ」

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