163:「何度でも伝える」

 

「あ、お疲れ様で……」

 

 東軍憲兵庁、麻薬対策特務班本部──その扉を荒々しく開いてなだれ込んできた男たちを認め、鰍瞬の挨拶は中途で尻すぼみになった。

 入室してきた連中──ワシプとブライを先頭にした『マタイ』のメンバー達は明らかにいつもと様子が違っていた。集団の中に幾間がいないのを見て取り、鰍は最初に幾間の身に何かあったのではないかと思い至った。

 

「何かあったのですか? 拘束したという売人が、幾間さんに何か──」

 

 言い終える前に、男たちは鰍の机まで駆け寄ってくる。椅子から立ち上がりかけた鰍を取り囲み、警戒に尖った視線を寄越した。

 

「……え……?」

「鰍ちゃん、悪いな」

 

 ワシプが低い声でそう言って、鰍の腕を掴んで捻じり上げた。

 予想外の行動に、なす術もなく鰍は悲鳴を上げる。

 

「アンタのことは嫌いじゃねえし、できれば手荒な真似はしたくねえ……やむを得ない処置なんだ、許してくんな」

「ど……どういうことですか、ワシプさん! 皆さんおかしいですよ、急に──」

「急な事態に困ってんのは俺らも同じなんだよ」

 

 ワシプの隣に立つブライが、同じように硬い声で答える。

 

「残念な知らせだ。司令官殿が、違法薬物売買の常習犯であることが発覚した。捕らえた売人が白状したんだ……俺達は法に則って取り調べを行おうとしたが、司令官殿は」

「おい相棒、司令官殿なんて呼ぶ必要はねえ」鰍の腕を押さえたままのワシプが鋭い声で横槍を入れる。「俺達はあいつに騙されてたんだ。敬ってやる必要なんかねえぜ」

「もっともだ、兄弟。呼び慣れちまったから、ついな」ブライは頷いて、懐を探りながら話を続ける。「そう……幾間姜一は、取り調べに応じず逃走した。奴の疑惑は確定的だ──指名手配の請求と共に、お前さんも重要参考人として軍の監視下に移ってもらいたい」

「幾間さんが……麻薬売買……?」

 

 鰍は男たちを見回し、強い口調で反論した。

 

「そんなわけないでしょう! 皆さんも誰より近くで見ていたはずです──幾間さんが麻薬撲滅に必死になっていたことを!」

「すべては、自分に疑いがかからないようにするための隠れ蓑だったってこったろ。英雄ぶりやがって、吐き気がするぜ」

「まったくだ──兄弟、ちょっとどいてくれ」

 

 ブライの言葉に応じてワシプが体の位置をずらす。進み出てきたブライが、懐から取り出した手錠で鰍を後ろ手に拘束した。

 鰍は抵抗しようと体を捻じる。ワシプの足元──靴についた血が視界に入った。

 

「その……靴の血……」

「ああ、奴のもんだ。あの野郎、俺ら相手には蠱術を使うまでもねえと舐めてやがってな──銃撃を防ごうともしなかった。むかつくが、お陰で手傷を負わせてやれたぜ」

「馬鹿っ! どうしてわからないの」嘲るように語るワシプを強く睨みつけて鰍は叫んだ。「幾間さんは、『鋼鉄狒』であなた達を傷つけたくなかったのよ! 跳弾をおそれて、防御すらしなかった──自分があらぬ疑いを掛けられているのに、あの人はあなた達をも護ろうとしたんじゃない!」

「……物は言いようだな。そこまでして庇うってことはやっぱりこの女、幾間の共犯の可能性が高いぜ、相棒」

「そのようだな、兄弟」

 

 ワシプと頷き合ったブライは、鰍の肩を掴んで強く引いた。

 

「さあ、悪いがあんたを監視下に置かせてもらう。幾間姜一、か……ふん! 英雄だか何だか知らんが、こすずるく虚名を繕いやがって。我らが詠木総司令の洞察力の前で嘘をつき続けられるわけがねえだろうが──本物の英雄ってのはああいうお人のことを言うんだ」

「やめて……離して……!」

 

 抵抗も空しく、鰍は男たちに引きずられて部屋を出るしかなかった。

 

 

 

 いつの間にか、陽が落ちていた。

 鰍はぼんやりと、黒々とした夜闇を映す窓を鉄格子越しに眺めていた。

 

 ──本当に……幾間さんが?

 

 連行された憲兵施設の留置部屋の中で、何度目かもわからない問いを繰り返す。

 そして決まりきった答えを胸の中に浮かべる。あり得るはずがない。

 一本気で不正を誰よりも憎むあの人が、自らこんな状況に立ち至るはずがない。不運が重なった誤解でないのなら、誰かの陰謀に巻き込まれたに違いなかった。

 問題は、それが誰かということ。妥協を許さない幾間には数多くの敵がいる。

 まず、『マタイ』の活動を憎む犯罪者が候補に挙がる。主導者に疑惑をかけ、『マタイ』の活動を空中分解させ、もって麻薬排斥の機運を挫くことができれば──白紙に戻った勢力図に新たな絵を描き直し、巨大な富と力を得ることができる。その利益は十分な動機となり得るだろう。

 もしくは、注目の集まる幾間を妬む者──軍部内での出世競争において手段を選ばない者がいれば、こうした企みをするかもしれない。長年マフィアが暗躍し陰謀にまみれたこの東部ではそんなことも起こり得るかもしれない。

 しかし気になるのは、それらよりもずっと恐ろしい可能性──第三の候補が、鰍の中で急速に膨らんでいた。むしろ、何とかしてそうでない可能性を探りたくなるほどに。

 一心に考え込む鰍の耳に、小さな音が聞こえた。

 硬質の物質にわずかずつ罅が入るような。

 ゆっくりと、しかし断固とした大きな力が、石か何かに普段の圧力を加え続けているような。

 

「…………?」

 

 異音は連鎖し、少しずつ大きくなり、やがて、留置室の壁に大きな亀裂となって表れた。

 亀裂は放射状に広がり、成長する植物のようにその長さを伸ばし──蜘蛛の巣のようになったひび割れの中心から、くぐもった音と共に大きな掌が突き出た。

 

「あ……!」

 

 唖然とした鰍が見守る中で、その手は石壁をまるで土くれのように掘り広げ──あっという間に空いた大きな穴から、一人の男が顔を出した。

 ずっと鰍の脳裏にいた男──幾間姜一だった。

 

「大丈夫か、鰍」

「い……幾間さん! わ、私を助けに……」

「助けなどと言わないでくれ。君は俺のとばっちりを喰ってこんな所にいるんだから」幾間は穴を越えて部屋に入ると鰍の前にしゃがみこみ、手枷と足枷の鎖を引きちぎった。「本当に、すまない」

「しかし、こんなことをしては──濡れ衣をより真実らしくしてしまいますよ!」

「正々堂々と取り調べに臨んでも、身の潔白は証明できそうにない。何しろ、今回の容疑は誤解や行き違いではありえない──すべてが俺を陥れるために用意された陰謀だ。その中にただ身を投じても、負けるだけだ」

「幾間さん……」

「ゆっくりはしていられない。行こう」

 

 幾間は鰍に手を差し伸べる。戸惑ったように見返す鰍に、幾間は力強く「大丈夫だ」と告げた。

 

「君の安全については考えがある。俺が君を連れ出したことについて、憲兵は二通りの可能性を考えるだろう──『共犯』か、『人質』か。まあ、前者の方が濃い線なんだろうが。逃亡の途中で俺はわざと数回、人前に姿を現すつもりだ。タイミングを計って、君は必死で助けを求めろ──追手に現在情報の手がかりを残すことも忘れるな。証拠と証言を積み上げて、決死の行動でからくも俺の手の内から逃げ出した風を装って軍に合流するんだ。うまくいけば君は晴れて『人質』と認められ、疑惑は晴れる」

 

 この期に及んでもなお自分の身を心配する幾間に、鰍はむしろ憤りを覚えた。

 やっぱりそうだ──自らを信じなかった部下に対しても気を配ったように、この人は自分よりも常に他人を優先する。

 決然として、鰍は首を振った。

 

「何を言ってるんですか。それでは、幾間さんが救われないじゃないですか」

「俺はいいんだ。いずれ自分の手で濡れ衣は晴らす……しかしそれよりも先に、巻き添えになってしまった君を」

「巻き添えなんて言わないでくださいよ!」

 

 大きな声に、幾間が驚いた顔をする。

 幾間を叱るように強く見据えて、鰍は続けた。

 

「私は……少なくとも私は、幾間さんの仲間のつもりです。何度も一緒に死線を潜って……私は私なりに、幾間さんを助けてきたつもりです。大した協力じゃなかったかもしれませんけど」

「そ、そんなことはない! いつも言ってるだろ……君の助けはいつだって心強かった。君は、俺の大切な仲間だ」

「なら! そうであるなら、どうしてこの窮地に私を頼ろうとなさらないんですか!」

「…………!」

「幾間さんが護ろうとしたもの……護れなかったもの、すべて知っているわけじゃないですけど……想像はできます。これ以上何も失わないように、自分以外のすべてを護ろうとしている幾間さんの思いも。でも……だから、だからこそです」

 

 もどかしい思いで、鰍は胸を掻き抱く。引きちぎられた鎖の切れ端がちゃらちゃらと鳴った。

 

「マタイに配属になる前、言ったことをお忘れですか──私は幾間さんを護りたいんです!」

「鰍……」

 

 幾間は困った様に俯く。

 すぐに伝わるとは思っていなかった。誰かを護りたいという幾間の心は、これまでの彼の人生すべてを経て作り上げられた価値観なのだ──でも、そうだとしても何度でも伝えるつもりだった。

 伝えるだけでなく、実力で認めさせたかった。自分はただ護られるだけの相手じゃない──幾間を補う存在であると。

 鰍は強い意志と共に、はっきりとした発音で彼の上官に言葉を届けた。

 

「共犯として──人質ではなく共犯として、進言します。私のために逃げる必要なんてありません──むしろ、ここから攻勢に出るべきです」

「攻勢だって?」

「ずっと考えていました──幾間さんが巻き込まれた陰謀、その根源について。その過程で一つの可能性が無視できないほど大きいことに気付きました……不確かな疑惑だったものが、確信に変わりつつあるのです」

 

 鰍はブライの言葉を今一度思い返した。

 

 ──幾間姜一、か……ふん! 英雄だか何だか知らんが、こすずるく虚名を繕いやがって。

 ──我らが詠木総司令の洞察力の前で嘘をつき続けられるわけがねえだろうが。

 ──本物の英雄ってのはああいうお人のことを言うんだ。

 

「臨時治安部隊出身の彼らが詠木遠近に心酔していることはともかく……ブライさんは、『詠木総司令の洞察力の前で』と言いました。それはすなわち、詠木遠近は前もって幾間さんの麻薬常習疑惑を彼らに吹き込んでいたということを示します──濡れ衣の出所は明白でしょう」

「詠木遠近が……俺を陥れようとしていた、のか」

「それはなぜか。動乱の英雄は自分一人だけでいい、なんて感情的な動機ではここまでの大騒動には足りないでしょう。それ以上に、詠木遠近は幾間さんを始末する必要に駆られていた……なぜなら」

 

 はっとした顔で、幾間は顎に手を当てた。伝わった、と鰍は確信した。

 以前に話した一つの疑惑──それがここにきて、現実性を帯びたこと。

 

「そうだ……詠木遠近別人説。強烈に匂い立ってきたな」

「自らの変身能力を知る幾間さんは、さぞかし邪魔な存在なんでしょうね。もしそうなら、私たちが持つ最大の武器もそれでしょう。私たちがすべきこと──それは詠木遠近の化けの皮を剥がすことです。幾間さんの身の潔白を証明し、同時に東軍に潜んだ裏切り者クグルノを摘発する……そのために」

 

 ごくりと唾を吞んで。

 鰍は、決定的な言葉を囁いた。

 

「詠木遠近を、襲撃しましょう」

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