162:「誰が信じるっていうんだ?」
取調室には『マタイ』隊員全員が集っていた。入室した幾間を見て、次々に敬礼を示す。
幾間は最も手近にいたワシプに歩み寄った。
「司令官殿」
「鰍から事情は聞いた。他地方から入ってきた売人の疑いが強いそうだな」
「ええ。発見場所からしてもそうですし、今のところ手配もされていないようなので」ワシプは話しながら部屋の中央に視線をやる。「抵抗はしないので観念してるようですが、連行時から一言も話しません」
「なるほど……雇い主に口止めでもされているのか?」
幾間はワシプの視線の先へ進む。
取調室備え付けの簡素な椅子に、問題の男は座っていた──確かに見たことのない顔だった。『マタイ』の徹底的な捜査にも引っかかっていないとなると、確かに他地方出身者の可能性は高い。椅子の傍にはこれも簡素な机があり、男の所持品であろう荷物の包みが置かれている。
「品物は?」
「ごく普通の、高級品でも粗悪品でもない麻薬ですな」机の傍に立つブライが答えた。「流通量が多い物ですから、品物から生産場所を特定するのは難しそうです」
「そうか。となればやはり、彼に訊くしかないわけだ」
幾間は男を見下ろす。平凡な容姿をしたその男は、胡乱な目つきで幾間を見返した。
「何も話さないそうだな。もうここまでくれば、意地を張っても大した意味はない──雇い主からの制裁を恐れる必要はない。俺達が潰してやるから、安心して話して欲しい」
「…………」
男はたっぷり数分間も幾間を見返し、それから小声で何事かを呟いた。
「何と言った?」
幾間は耳を寄せようとしたが、その必要はなかった。男ははっきりと言い直した。
「そりゃねえぜ、幾間さん……」
幾間の動きが止まった。もちろん、『マタイ』所属の憲兵という公職にある幾間は名前を隠してはいないから知られていてもそれほどおかしくはないのだが、男の声にはただ知っている名前を呼んだという以上の響きが込められているように感じたのだった。
「何だ……?」
「幾間……幾間姜一さんだろ? あんたは名乗らなかったが、俺は知ってる。調べたんだ──この商売、それくらいの用心がなけりゃとても続けてはいけねえ」
「名乗らなかった? おい……いったい何を」
「とぼけんなよ、今更になって」男は歯を剥き出した。「あんたは俺の客だ。俺から麻薬を買ったろうが」
その場の全員が息を呑んだ。
幾間自身も例外ではなかった──全く予想外の言葉に、返答に詰まる。
男は険のある視線を飛ばす。
「そりゃ、捕まっちまったのは俺の落ち度だがね……自分だけほっかむりして逃げるどころか、こともあろうに自ら俺に罪を問うとは呆れる面の皮の厚さだ。あんたに俺を責める資格なんかねえはずだがな」
「馬鹿な……何を言っている、ふざけたことを言うな!」
激高し、幾間は男の胸ぐらを掴む。素早くワシプが幾間と男の間に肩をねじ込み、二人を引きはがした。
「落ち着いてくださいよ、司令官殿」
「聞いただろう! 話にならん──俺が麻薬をこいつから買っただと! 腹立たしい出鱈目だっ!」
「出鱈目なら、堂々としててくださいや」ワシプはどすの利いた声で言った。「実のところ、俺が今最も警戒しているのはその握りしめた拳なんですぜ──ご不快でしょうが、怒りに任せて硬化した拳でこいつの脳天を砕かれたら実に面倒なことになる」
「…………!」
幾間はぴくりと身をこわばらせ、数秒後に自ら体を引いた。
ワシプの言葉は表面上は筋が通っている──感情に任せた行動は憲兵の分を越えるものであり、不都合しか生まない。上官への諫言としては至極真っ当だった。
しかし、幾間はその言葉の奥に冷え冷えとしたものを感じた。『実に面倒なことになる』──それは客観的な取り調べに支障をきたすというよりは、どさくさ紛れに証言者を始末されては真相は藪の中に消えてしまうという響きを帯びていた。
迷いを越えた疑いが、はっきりと感じられた。
「
「寝言をほざくな……! 俺が貴様に注文をした証拠などあるものか!」
「白々しいな、あんたは決定的な証拠を自分から俺に渡したじゃねえか。自分はアリバイを作っておいて俺に品を届けさせる──そのために必要な、あんたの自宅の鍵を受け取ってるぜ」
「鍵だと……!?」
幾間は眉間にしわを寄せた。
作り話として、明らかに破綻した筋書きだった──もし本当に慎重を期したいのならばいくらでも方法はある。売人を自宅に入らせることの方がよほど周囲に怪しまれるし、何より素性の知れない人間に鍵など渡すわけがない。麻薬を売るような輩に強請りの種を進んで与えるようなものだ。
あまりに不合理、あまりに稚拙──どう考えても、逮捕された売人が苦し紛れに即興の嘘を語っているに過ぎない。しかしそれにしては、物証へ自ら話を進めるのもまた解せなかった。
そんなものがあるわけがないのに、いったい何の得があるのか──
「司令官殿、確かにこいつの所持品の中には鍵がありました」
ブライが、机の上の荷物を開きながら言った。
「証拠品として押収します。調べればどこで作られたものかはっきりするでしょう」
荷物の包みの中から差し出された手──その中に収まっている銀色の鍵が視界に入った時、幾間は目を見開いた。
刻みのついた棒状の差し込み部分に連なる、円盤状の抓み部分。その中心に刻まれた大きなへこみ状の傷が、照明の光を反射してきらりと光る。その様子には覚えがあった──入居時に二つ渡された鍵のうち一つに、蠱術の誤発動によって深く指をめり込ませてしまった。幸い指で持つための部分だったので施錠・開錠には支障はなく、幾間はそれを交換などはしないままスペア用として自宅に保管していた。
ブライがたった今、被疑者の荷物の中から取り出した鍵は──間違いなく幾間の住居の鍵だった。
「…………!」
「どうしたんです?」
幾間の様子を見て、ブライの表情が訝しげに歪む。ワシプと顔を見合わせて、その顔はさらに険しいものに変わった。
「司令官殿、念のためお伺いしますが──八日前の夜間、こいつと会っていないことを証明できるものは?」
「…………」
幾間は答えられない。激務に身を置く幾間は夜を徹して仕事に打ち込むことも珍しくないが、その日は珍しく仕事にきりが付き、自宅に戻っていたのだった。日頃の疲れからすぐに眠ってしまったが、今となってはそれを証明する手立てなどない。
いわれなき罪を着せられた怒りは、すでに不安と焦燥に置き換わっていた。
間違いなく幾間の所持物である鍵──自宅の扉と合うだけでなく、拭い去ることのできない指紋までが刻み付けられた動かぬ証拠。
珍しい業務後の自由な時間──それを狙いすましたかのように麻薬取引に参加したとする証言。
幾間はようやく自らの誤認を悟りつつあった。これは単なる即興の嘘ではない──入念な調査と事前準備のもとに張り巡らされた、罠としか思えなかった。
「違う……俺は麻薬など買ってはいない」
絞り出した声は、いかにも頼りなく──それこそ苦し紛れの嘘のように、空しく響いた。
周囲の疑いの視線がちりちりと肌を焼く。誤解を受けているという意識が苛立ちを再燃させ、幾間はワシプを押しのけてにやつく男に荒々しく詰め寄った。
「言え! 誰の差し金だ──俺を嵌めるつもりか!」
「止まってください!」
立ちふさがるワシプをもう一度押しのけようと腕を伸ばす──幾間の腕と交差するように突き出されたワシプの手には、拳銃が握られていた。
「おい……誤解だ。俺は何もしてない。銃を下ろせ」
「あんたこそ下がれよ」敬語をかなぐり捨てたワシプは幾間を睨みつけていた。「今のあんたを誰が信じるっていうんだ? その焦りよう、どう見ても怪しいぞ」
「ワシプ!」
「悪いが俺は蠱術師じゃねえ、あんたに対抗するにはこれしかねえんだ。大人しくしてもらわねえと──」
最後まで言葉を聞かず、幾間は動いた。
もはや、自分の身の潔白を証明するには男を締め上げて真実を──陰謀のすべてを白状させるしかない。一度後ろに跳んでワシプの狙いを外し、足に力を込めて再び前方へ飛ぼうとする──
「動くんじゃねえ!」
しかし、男の背後にはすでに銃を構えたブライが回り込んでいた。幾間と目が合った瞬間、ブライの緊張が臨界点に達したのが見て取れた──彼の異様な目のきらめきを見た瞬間、防衛本能から集中を練り上げようとする。発動しかけた『鋼鉄狒』を、幾間ははっとして押し戻した。
一瞬ののち、ブライの構えた拳銃が火を噴いた。
「っ……!」
銃弾が足を掠め、鮮血が飛び散る。
隊員たちは少し意外そうな顔をしたが、なおも油断なくこちらに照準を合わせている。すでに被疑者の男と幾間を除く全員が、銃を抜いていた。
「くっ……!」
やむを得ず、幾間は満身の力を込めて後方へ飛ぶ。
空中で膝を折り曲げて背後の扉を蹴り破り、屋外へ向けて一目散に走り出した。
「逃げたぞ! 追え!」
つい先ほどまで同じ目的を追う仲間だったはずの男たちがそう言い交わす声を聞きながら、幾間は苦渋に顔を歪めた。
一体どうして──こんなことに。
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