160:「ゆっくり休んでくれ」

「うん。よく勉強していますね」

 

 山辺幸子教授は穏やかな声と共に軽く頷いて、手に持ったノートをミズハに返した。

 山辺研究塔の三階にある教授室──ゼミ生が集まる通称『花園』のすぐ上の階にあるとは思えないほど、この部屋には優雅さや美しさのかけらもない。各種の書籍や資料ファイルで雑然としており、血の通った学者の部屋といったような印象を受けた。

 

「このところ、より一層身を入れているのがわかります。他の先生からも授業でのあなたはとても意欲的で素晴らしいと良い評判を聞いていますよ」

「先生のご指導のお陰です。山辺ゼミに入って、さらに魔術学への興味が増したので」

「それは嬉しいわね」

 

 はきはきと答えるミズハに、満足げな微笑を浮かべた山辺教授は言葉を続けた。

 

「でもね、あなたはゼミから色々なものを受け取っていると思ってくれているけれど──実際の所、あなたが周囲に与えているものも大きいのよ。他のゼミ生の達もあなたの熱心さに良い影響を受けているでしょうし、それは私も同じ」

「それは言い過ぎですよ。私などが先生に影響を与えるなんて……」

「もちろん、学問への熱意は負けていないつもりだけれど」柔らかい表情で山辺教授はいたずらっぽく笑う。「でも、若さはエネルギーに満ちているのもまた確かなこと。日々のすべてを極彩色に彩ってくれる、言うなれば『青春の輝き』のようなもの──それをあなた達生徒に垣間見るたび、私も元気になれるの。失ったあの日々を振り返る機会をくれるから」

「先生もまだまだお若いじゃないですか。失ったなんて大袈裟ですよ」

「止してよ。私はもうおばさんだから」

 

 穏やかに答える山辺教授は、懐かしむような眼でミズハを見つめた。老いたとはっきり言うほどでもないとは言え、確かに青春真っ盛りと言うような年齢ではない──未だ独身を通している教授の口ぶりからすると、彼女のいう『失った青春の日々』のしめくくりは失恋だったのかもしれない、とミズハは邪推した。

 

「何か、訊きたいことがありそうね」

 

 眼鏡越しにミズハの顔を覗き込んで、山辺教授は言う。

 

「そう……こんな私でも、恋をしたことくらいはあるわ。結果としてはうまくはいかなかったけれど、それも一つの思い出ね──まあ、こういうことはまた別の機会に話しましょう」

「失礼しました、個人的な事情を」

「気にすることないわ」笑って山辺教授は続ける。「でも、ミズハさんは本当に頑張ってるわ──ひとりでよく研究課題を進めてる。『競花会』での発表に向けて、これからも頑張ってね」

「はい、ありがとうございます」

 

 頭を下げるミズハに、それにしても──と落ち着いた声が続く。

 

「三暦さんのことは、本当に心配ね」

「……ええ」

「あなたは何も聞いていないのよね? 何の連絡もなく欠席を続けるようなではないはずだし──それにほら、彼女の下宿は例のクロウリー街でしょ? あの場所に関する恐ろしい噂を聞くたび、どうしても結びつけて考えてしまって」

「そうですね……それはもちろん、私も同じです」ミズハは神妙に頷く。「しかし確信しています──歌耶は噂の『クロウリー街の悪鬼』に何かされたはずはないと」

「どうしてそう思うの?」

「もしそうなら、死体が出てくるはずです。『クロウリー街の悪鬼』は無惨に犠牲者を寸断し、証拠隠滅のような真似はしないと聞いています──仮に人目につかない場所で歌耶が被害に遭っているとしても、例の迂堂閣下の主導するクロウリー街取り壊しの過程で発見されるはずですから」

 

 ミズハはまっすぐに教授の瞳を見つめて断言する。

 

「だから、歌耶は死んでなんかいません。何かやむを得ない事情で一時的にここを離れているんだと思います──パートナーとして、今の私ができることは二人の課題を全力で進めておくことだけです」

「……そうね、あなたの言う通りだわ。彼女の無事を信じましょう」

 

 二人だけの部屋で、山辺教授とミズハは強く頷き合った。

 

 

 

 山辺研究塔を辞して学院敷地内を歩いていたミズハは、久しぶりに見る顔に気付いて足を止めた。

 忙しげな足取りで本講義棟から出てきた、背の低い女性──本校助手、枕庭瑪瑙である。彼女は何やら大きな包みを抱えてちょこちょこと歩いている。

 少し考えてから、ミズハは挨拶をしてみた。

 

「枕庭さーん」

 

 こちらに気付いた瑪瑙はにこりと笑い、小さく会釈をすると小走りで去っていった。

 忙しそうだ──まあ、ゾッグの話では嵐轟ゼミは『クロウリー街の悪鬼』を追うのに躍起になっているようだし、元ゼミ生の彼女にも何らかの役割が振られているのかもしれない。助手としての仕事もあるだろうし、多忙であることに不自然さはない。

 しかし今の対応はそれだけが理由というわけでもないかもしれない、とミズハは考える。

 おそらくだが、彼女はミズハへの関心を半ば以上喪失しているのだろう。新入生の監視を担当する彼女は、十人並み以上の勘の良さといくつかの偶然が重なりさえすればミズハの不正入学にも辿り着きうる位置にいた。しかし、ここしばらくのミズハの様子──山辺ゼミの電波に精神を冒されて恋に恋する乙女と化していたミズハの立ち居振る舞いを見て、そこまで深掘りするべき要注意人物と認識しなくなったのではないか。

 

「うん。洗脳も、悪いことばかりじゃなかったようだ」

 

 口の端でぼそりと呟いて、ミズハは満足げな笑みと共に歩き始めた。

 

 

 

 アパートの入り口前で、花壇に水をやっている老女がこちらに気付く。穏やかな笑みが浮かび、顔の皺が深くなった。

 

「あら、ミズハちゃん──お帰りなさい」

「こんにちは、大家さん」

「ここのところ早いのね。ちょっと前までは深夜まで戻らないことが多かったようだけど」

「ええ──学校の方の課題の進捗が軌道に乗ったというか、まあ一通り落ち着きまして」

「ああ、北峰学術院の生徒さんだったわね? 凄いわね──将来はエリートかしら」

「いえ、そんな……」

 

 大家はにこにこと微笑みながら立ち話を続ける。

 少し詮索好きで口が軽いところはあるが、引退後の年寄りは世間話も貴重な娯楽である以上仕方ないのだろう──総じて悪い人ではない、とミズハは彼女のことを位置付けていた。

 

「でも、勉強のし過ぎにはお気をつけなさいよ? 体調を崩したら元も子もないからね」

「ありがとうございます。しばらくは忙しくならずに済むと思うので──それに、今みたいな時期に遅くまで外出するのはさすがに控えた方がいいとも思いますしね」

「わかるわ。何かと物騒ですものね」

 

 大家は頬に手を当ててちらりと他所を見る。クロウリー街を想起していることは言わずともわかった。

 巷でもちきりの『クロウリー街の悪鬼』に関する噂話がしばらく続くかとミズハは覚悟したが、意外にも大家の興味は別の所に移ったらしくころりと表情が変わった。

 

「そうそう、他の入居者さんから聞いたんだけれど、このところコバエが多いそうね。ミズハちゃんもそう思う?」

「コバエ……ですか? 私はあまり気づきませんでしたが」

「あらそう」大家は首を傾げる。「その方の思い過ごしならいいんだけど。本当だとしたら妙よねえ──例年ならコバエが湧くのはもう少し後だと思うし。誰か、お部屋の中で生ゴミでも腐らせてたりして」

「それは勘弁してほしいですね」

「まったくね──あら、引き留めちゃってごめんなさい」

 

 自らの話好きを恥じるように頬を赤らめて、大家はさっと体をどける。にっこり笑って会釈を返し、ミズハは彼女の脇を通ってアパートに入った。

 

 鍵を開け、自室に入る。

 寝室に荷物を置いて、ミズハはバスルームの扉を開けた。

 

「やあ、ただいま」

 

 返事はない。浴槽の隣に作り付けられた洗面台の蛇口から、ぽたりと滴が落ちたのみである。

 

「狭苦しい思いをさせてすまないね。まあ、そう長い事辛抱してもらわなくとも大丈夫だとは思うんだけれど」

 

 返事はない。構わずミズハは蛇口をひねり、ざばざばと顔を洗った。

 

「そうそう、ご近所さんが最近コバエが湧いて困ると言っているそうだ。もしかして君の仕業かな? 環境整備には気を遣っているつもりだが、やはり完全な遮断は難しいね」

 

 返事はない。備え付けのタオルで顔を拭き、ミズハは浴槽の方を振り向いた。

 

 白い浴槽の中には──不穏な悪臭を放ち始めた死体が手足を折り曲げて収納されていた。

 

 首を曲げてこちらを向いている顔は、血の気が引いている以外はまるで眠っているようなきれいなものだった──未だ張りを失ってはいない白い頬に、一匹の小虫がへばりついている。

 

「ああ、やっぱり君かい? いや、別に責めるつもりはないけれどね。君もしたくてそうしているわけじゃないんだし」ミズハは小さく肩を竦める。「むしろ、もっと安らげる場所に早く移してあげられないことを謝らなくてはならないくらいだ。生前の君は、私に本当によくしてくれたというのに──恩を仇で返すような仕打ちを、どうか許してくれ」

 

 死体はことりとも動かない。

 バスルームの扉に手をかけて、ミズハは優しげな口調を崩さないまま続けた。

 

「まあ、もう少しの辛抱だ。引き続きそこにいてくれると嬉しい──それじゃ、私は夕食の用意があるから失礼。ゆっくり休んでくれ、歌耶」

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