159:「一点の淀み」

 囁紀140年、6月12日──迂堂廻途の名において発された一連の命令は、関係省庁の役人や、その関係者を仰天させた。

 殺人、傷害、強盗、窃盗、違法薬物取締法違反その他──各種刑事法に抵触する犯人のうち、クロウリー街に出入りしている疑いのある者に対しての強制捜査、一斉検挙の命令。

 クロウリー街の建造物のうち十七箇所における、建築法違反による取り壊し命令と住民への退去依頼。

 さらには──公用地収用特別法の適用により、クロウリー街そのものを北部総督府により買い上げることを決定する布告。

 早い話が、クロウリー街という地域そのものの生殺与奪を握ろうとする行いであった。

 電光石火のごとき勢いで、しかも法的には寸分の遺漏もなく命令は各所に伝わった──多くの者はただ目を白黒とさせるばかりだったが、事情を知るほんの数名の人間だけは迂堂の行動の意味を正しく理解していた。

 すなわち──

 

 

「クロウリー街を地図上から消滅させるおつもりですか、閣下」

 

 北部総督府最上階、迂堂廻途執務室──そこでいつものように書類と格闘する迂堂に対して、傍らに立つ碑良山藍菜が静かに問いかけた。

 ごくさりげない動作でこくりと頷く迂堂に、彼女は重ねて問う。

 

「今更の問いですが──本当によろしいのですか?」

「よろしくない理由を思いつくのなら、遠慮なく言ってみなさい」

 

 まるで教師のように促す迂堂に、藍菜は答える。

 

「三つございます。一つは、クロウリー街にはクロウリー街の住民がおり、それぞれの生活があるという点です──総督府の都合で彼らの住む街を壊そうというのは配慮に欠けているのでは」

「無論、住民への対応に抜かりはない。彼らが最大限いつも通りの生活を送れるようにするための命令書にも私は幾十とサインしているのだ──それを君が知らないはずはないがな。そもそも、一時の不便よりもおぞましい悪鬼とやらに怯える生活の方が良いと断言できるものがどれほどいるのかは甚だ疑問だ。私の決定した方針は、長期的には彼らの生活に資するものだということに疑いはないつもりだ──二つ目は何だ、藍菜?」

「二つ目は、いくらなんでも性急かつ強引に過ぎるという点です──『クロウリー街の悪鬼』の問題を解決するという趣旨は理解しておりますが、噂の正体も明らかになっていない今、街ごと失くそうというのはまるで卓袱台ちゃぶだい返しのようなものではありませんか?」

「推理小説でもあるまいし、謎を解き明かす作法に則る必要はなかろう。私は名探偵ではなく執政者だ」小さく肩を竦めて迂堂は答える。「『クロウリー街の悪鬼』……なるほど大層な名だが、当のクロウリー街がなくなればさしもの悪鬼も形無しだ。伝説の続け方が分からなくなって消滅してくれれば良し、街の破壊者たるこの私に恨みを抱いて祟りに来るもまた良しだ──実際にそんなものがあれば、の話だがな」

「少なくとも噂の種になりうる何かは存在しうる、というのは閣下も認識されておられたはずです。であれば今回のご命令は、いたずらに閣下のもとに危険を呼び込むことになります」

「理屈としてはそうなるが、そのいわゆる種というものは単なる犯人不明の犯罪行為である可能性が極めて高いと私は考えている。だからこそ、徹底的に当該地域の犯罪者を検挙するのだ──仮にその中に当の犯人がいなくとも、クロウリー街自体がなくなればもはや都市伝説をかさに着て殺人を行うことは不可能になろう。事実上、『クロウリー街の悪鬼』は消滅する」

「…………」

「そうでない可能性もある、と言いたいのはわかっている。無論、現実的な犯罪だけを疑っているわけではない──確かに、私のもとに何らかの呪術的な怪異が襲い来る可能性もある」

 

 そこで迂堂は手を止め、藍菜を見やった。

 その瞳に、少しだけ温かみがこもった様に藍菜には見えた。

 

「藍菜よ──今回の件でなくとも、人が人として生きる以上、敵を作らずに一生を過ごすことは不可能だ。何かを成そうとすれば尚更な。そしてそういった敵と戦い続けてきたという実績において、私に勝るものは国内を見渡してもそう多くない。心配はありがたいが、気に病むほどのことではないのだ」

「……はい。確かにこればかりは、閣下のご判断に異を唱えるほどの経験を私は持ちませんね」

「では、三つ目を聞かせてくれたまえ」

「三つ目は──そうですね、文化的価値の毀損についてです。クロウリー街は大霊山開闢期の指導者、メズレス・クロウリーゆかりの地として歴史的な価値を有しています。幾度の都市再開発計画においても例外地域に指定され、もはや一種の聖域とすら言えましょう。逆にその干渉の少なさにより、今日では犯罪の温床となってしまったのは為政者側にとっては不本意なことなのでしょうが、しかしだからといって過去への敬意ごと破壊してしまう理由にはならないと考えます」

「最後の理由には、お前の学者らしい面が出たな」

 

 ふふ、と小さく笑って迂堂は藍菜の目を見る。

 

「何に価値を見出すかは個人の自由だ。だからお前のその見解が間違っているなどと言うつもりは毛頭ない──確かにそう捉える者は一定数いるだろうし、私自身も偉大なる指導者への敬意は欠かしておらん。しかしながら、少なくとも私がクロウリー街を現代まで残してきたのは文化的・歴史的価値を認めてのことではないのだ」

「え……」

「まあ、少なくとも最初はそのつもりだったと言えなくもないがな──メズレス・クロウリーの生前の記憶がまだ生きていた頃には、彼の息遣いが残る場所を拠り所とし、人がよりよく生きようとする活力の源になっていた面もある。それがずっと続くのなら、それはそれで良いことだったのだろう──しかし残念ながら、人はそうした前向きな考えの者ばかりではない。お前の言う『聖域』の特徴を悪用し、あの場所を犯罪の隠れ蓑として使おうとする輩は時を経るごとに増えていったわけだ。そしてその流れの中で、私がクロウリー街を保護し続ける目的もまた変わっていった。厳格な法が形作る北部の中に存在する、一点の淀みとでも言うべきもの──その有用性を私は狙っていたのだよ」

「一点の……淀み?」

「今言ったように、人は善人ばかりではない。そしてそうである限り、犯罪のない理想社会というものは絶対に実現しない題目である──しかし、それに近いものを作ることは不可能ではない。そのために必要なのは、『悪意の逃げ道』を作ってやることだ。犯罪者、異常性格者、社会不適合者──そういった、人間社会がある限り常に一定数存在する者たちを自然に誘引しうる場所があれば、そこ以外の地域の治安は向上する。まあ要するに、棲み分けの問題だな」

「それでは……クロウリー街は言わば、北部のゴミ箱とでも……?」

「まあ、そんなものだ」

 

 平然と答えた迂堂は、藍菜の視線が含む意味を察していささかばつが悪そうに付け加えた。

 

「学者のお前には気に障る話かもしれんな」

「いえ……少なくとも、理屈は理解できます」

「先ほども言った通り、物事に価値や意味を見出すのは個人の問題だ──私自身は、物質的な意味で古いものを古いまま残すことにそれほど大した価値を感じていない。過去から学ぶのは大切なことであり、その意味で歴史に敬意を払うことにも意義はあろうが、それはあくまで精神的な部分に限った話だ。物質それ自体に執着することは呪縛となり得る──過去は未来を形作るために参考にすべきことであり、過去それ自体に囚われては本末転倒と言えるだろう。なあ藍菜──もしクロウリー街が今の形のまま幾世代を経てこなかったら、すなわちその土地自体に特別な意味が付与されていなかったら、『クロウリー街の悪鬼』などというおどろおどろしくも馬鹿馬鹿しい都市伝説が大々的に流布されていたと思うかね?」

「それは……」

「しかしまあ、それは私の施政方針が生んだ弊害とも言わば言えるわけだが」

 

 世の成り立ちを紐解くがごとく、理路整然と語る迂堂を藍菜は見つめていた。

 自身が歴史を具現化したような存在でありながら、歴史そのものに価値はないと言って憚らない精神性──その徹底した実利主義は、もはや人間という枠を超えているようにすら思われた。

 自分がこの先何百年生きようとも、同じ境地に至れるとは思えない。この人はその不老の能力ゆえではなく、ただ迂堂廻途であるがゆえに北部の重鎮たり得るのだ。

 迂堂はにやりと挑戦的な笑みを浮かべ、藍菜を見返した。

 

「なればこそ──『クロウリー街の悪鬼』を消滅させることは、我が引退のための総仕上げにふさわしい任務といえような」

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