157:「代えさせていただこう」
「やれやれ……まったくもって嘆かわしい!」
いらいらと吐き捨てながら、迂堂廻途は北部総督府最上階の執務室の扉を乱暴に開いた。
その騒々しい音に反応して、室内のデスクの脇に立っていた女性がこちらに顔を向けた。特段驚いた風もなく、慣れ切った表情を浮かべている。勤務前の時間にしばしば行われるお決まりの儀式──迂堂の引退嘆願が決まりきった結果を生むことを知悉しているその女性は、迂堂の秘書長である
藍菜はデスクの椅子を引き、どかりと腰を下ろした迂堂に軽く頭を下げた。
「おはようございます、閣下。今日は幾分か暖かく、過ごしやすい日になるようで」
「ああ、おはよう──陽気が良いのは結構なことだ。日がな一日書類と睨めっこの私にはさしたる関係がないとしてもな」投げやりな口調で言いながら、迂堂は気だるげに藍菜を見やる。「藍菜、髪型を変えたか?」
「ええ──本日は少しだけ巻いてみました。いかがですか?」
「生憎、若者の感性は持ち合わせておらんのでな。まあ──身だしなみを楽しむ余裕があるのは健康の証だろう」
興味なさげに呟いてデスクに山積みの書類へと視線を戻す迂堂に、しかし藍菜はにっこりと笑いかける。何でもないような会話の中に、迂堂の気遣いを読み取ったのだった。
もともと彼女は、迂堂の家に連なる男の庶子であった。
素行の悪さゆえ迂堂本家を追い出された過去を持つ父は、その履歴に違わぬ人格破綻者であった。まだ言葉も話せない頃に藍菜と母は父から見捨てられ、困窮した生活を送らざるを得ない境遇にいた。そんなある日、突然に迂堂が現れ──細い糸を手繰るような自分との関係を説明して聞かせた後に、きっぱりとした口調で言った。
──君のことについても調べさせてもらった。学業に秀でているようだな……才ある者はそれを活かさねばならん。我が北部のためにな。
かくして藍菜は大霊山における学術研究の最高峰、『奉呪六家』の一角──碑良山家の養女となるよう渡りをつけられ、研究職を得て貧困から解放された。
それから五年後、彼女の援助を受けて幸せに暮らしていた実母が流行り病で世を去ったのをきっかけに、藍菜は迂堂のもとを訪れた。母への恩返しを終えた彼女は、人生第二の恩人である迂堂の助けになりたかったのだ。
以来、藍菜は魔術学研究者を続ける傍らで迂堂の秘書を務めている。政治家、軍人、企業家など複数の顔を持つ迂堂にはそれぞれのスケジュールがあり、頻繁に混線しがちなそれらを調整し、無駄を省き、一つにまとめることが彼女の仕事だった。
有能だが皮肉屋で、さらに忙しさを憎んでほとんど常に不機嫌な迂堂だが、藍菜に対し愚痴をこぼすことはあっても八つ当たりをするようなことは一度もなく──時折、今のようにさりげなく彼女を気に掛ける。そんな迂堂に対して、藍菜は数度しか会ったことのない実父よりもよほど親しみと信頼を感じていた。
「本日のご予定はこちらに。決裁の締め切りが本日中となっている案件が十七件ございますので、そちらを優先していただきますように」
「ふん──」藍菜の差し出した一覧表をざっと見て、迂堂は指を差す。「交通法改正草案については別に考えがある。部下に集めさせている資料待ちの状態だ──期日を繰り延べるよう取り計らいなさい」
「すでに二回延ばして、関係省庁からは矢の催促ですが」
「少しでも良い結果に繋げることが最優先だ。法令の意義を見失ってはならんと伝えよ」
「角が立ちますよ。まあ、それらしく繕っておきましょうか」言いながら、藍菜は該当書類を机の上から取り除く。「ちなみに、ご存じでしょうが期日の後ろ倒しには余計に煩雑な手続きが必要になります」
「存じておるとも、悲しいことにな。その分増える作業時間はまあ、しゃかりきになって帳尻を合わせるしかあるまい──君の方も先刻承知だろうが、私は残業はせん。手当がつかんからな」
「もちろん」
藍菜はくすりと笑って答える。常人なら二十四時間働いても追いつかない業務量ながら、迂堂は絶対に時間外勤務を行わない。それでいて完璧に北部を回す手際の良さは、まさに老練と呼べるものだった。
「ああ、そう言えばもう一つ──伝言を承っておりました。北峰学術院、迂堂紹雪学長より」
「紹雪から?」
「ええ」藍菜は頷いて紙片を取り出し、読み上げる。「教材管理部からの報告あり──『クロウリー街の悪鬼』に気を付けるように、とのことです」
「…………ほう」
忙しなく大量の書類に目を走らせていた迂堂の動きが、止まる。
「フェノメナ──奴がそう言ったわけか。なるほど、北公様の言い訳にも時として真実が宿る」
「『クロウリー街の悪鬼』──例の都市伝説には、何か裏が?」
「そういうことだな。よろしい、大いによろしい」
数度頷くと、迂堂はやにわに右腕を突き出す。机上に積まれた書類の山の左半分を床へと突き落とした。
「閣下?」
「この際、これらは後回しだ。早急に片付けるべき案件が出来たようなのでな」
迂堂は面白くもなさそうな顔で呟いた。
「乗り掛かった舟という言葉もある、一気呵成にやっつけるにしくはない。曲がりなりにも言質は取ったのだ、今度ばかりはいやとは言わせんぞ──『クロウリー街の悪鬼』とやらを追い払い、その結果を叩きつけて我が辞表に代えさせていただこう」
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